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茶々視点外伝大津城暮らし編・①④⑦話・城主、城下の朝を歩く

 その朝、私はまだ空が白みきらぬうちに目を覚ました。


 大津城の朝は早い。

 台所では桜子たちが湯を沸かし、足軽屋敷では交代の兵が草鞋を締め、船着き場ではもう荷を動かす者の声がする。

 城が「住む城」になってきたからこそ、その息遣いが朝靄の中から立ちのぼってくるのだ。


 私は身支度を整えると、まだ火鉢の前でぬくもりを惜しんでいた真琴様に声をかけた。


 「真琴様」


 「ん~……寒い……」


 「知っております」


 「知ってるなら、もうちょっと火鉢近くにいてもよくない?」


 「よくありません。今日は城下を見て回るのでしょう?」


 昨夜のうちに、私はそう話を向けておいた。

 大津城の内側は、台所も湯殿も侍女部屋も少しずつ整ってきた。だが城とは城内だけではない。城下がどう目覚め、どう動き、何に困っているのかを見ねば、城主としては片手落ちだ。


 真琴様は火鉢の上の鉄瓶を見つめながら、いかにも名残惜しそうに息をついた。


 「茶々って、俺をぬくぬくさせないよね」


 「城主をぬくぬくさせすぎると、町がたるみます」


 「逆じゃない?」


 「いいえ、合っています」


 そう言い切ると、真琴様はようやく観念したように立ち上がった。今日は熊の毛皮ではなく、朝の城下へ出るのに相応しいよう、温かいが大仰ではない羽織を着せる。柳生宗矩と真田幸村、それに近習を数人だけ連れ、大名行列にならぬよう抑えた。


 「もっと大勢つけた方がいいのでは?」


 と私が言う前に、真琴様は先にこう言った。


 「ぞろぞろ行くと皆緊張するでしょ。今日は見たいんだから」


 そこだけは、いつもながら理にかなっていた。

 見せに行くのではない。見るために行く。黒坂真琴らしい考え方だと思う。


 私も同行し、まだ冷気の残る朝の城下へ出た。


 城門をくぐると、城下はすでに起きていた。


 商家の戸が一枚ずつ開き、箒で店先を掃く音がする。

 井戸場には水を汲む女たちが集まり、船着き場の方からは木箱を引きずる音が響く。

 大津は湖の町だ。朝の匂いも、どこか水気を帯びている。


 真琴様が本当に歩いて出てきたことに、最初に気づいたのは井戸場の女たちだった。


 「……え?」


 水桶を持つ手が止まり、目を丸くする。

 続いて、その場の空気が一気に引き締まった。


 「城主様……?」

 「黒坂様?」

 「本当に……?」


 私はその視線を受け止めながら、真琴様の横へ半歩寄った。

 こういう時、この方は威厳より先に話しかけてしまう。


 案の定だった。


 「朝早いね。水、足りてる?」


 井戸場の女たちは、深々と頭を下げようとして、だが真琴様の問いがあまりに自然で、一瞬どう返せばよいのかわからぬ顔になる。


 「え、ええ……なんとか」


 「井戸の縄、擦り切れてない? 前に見た時ちょっと危なそうなのあったけど」


 私は内心、(そこですか)と思った。

 もっとこう、「暮らし向きはどうか」とか「不便はないか」と、広く問いかけるものではないか。だが真琴様の目は、すでに井戸の縁と縄の結び目を見ている。


 女の一人が慌てて答えた。


 「昨夜、役所の方が新しい縄を持ってきてくれました」


 「なら良かった。濡れた縄って冬は手も切れるし、切れたら危ないから」


 それだけ言うと、真琴様は本当に安心した顔をした。


 私は一歩進み出て、やわらかく言葉を添えた。


 「何か不便があれば、城下役所へ申し出なさい。井戸場は女衆の使う場所です。遠慮は無用です」


 女たちはいっそう深く頭を下げた。

 真琴様が“細かいこと”を気にし、私がそれを“城の言葉”へ直す。どうやらこの役回りは、思った以上に噛み合っているらしい。


 そこから商家の並ぶ通りへ進むと、魚を扱う店の前で真琴様が足を止めた。


 「おはようございます、黒坂様!」


 店主が慌てて頭を下げる。

 まだ品を並べている途中で、台の上には北国から運ばれてきたと思しき干物や塩漬けが並んでいた。


 真琴様はそれを見て、目を細めた。


 「塩の具合いいね」


 「は、はい。今井屋の船で届きまして」


 「売れ行きは?」


 「おかげさまで。城が出来て人が増えましたので」


 ここまではよかった。

 だが次に真琴様が見たのは魚ではなく、店の奥に積まれた味噌樽だった。


 「味噌、足りてる?」


 店主が一瞬、ぽかんとした。

 私も少しだけ呆れた。


 「真琴様」


 「だって魚売るなら味噌も使うでしょ。あと汁物。冬に汁物ないと体きついよ」


 至極もっともなのだが、やはり問いの飛び方が独特である。

 店主はすぐに気を取り直して答えた。


 「はい、今のところは足りております。ただ、人足が増えたので、この先はもう少し多く仕入れたいと……」


 「なら役所通して言って。大津で急に買い占めると相場が荒れるから、遠くから回した方がいい場合もあるし」


 私はその言葉を聞いて、改めてこの人らしいと思った。

 魚屋を見ても魚だけでは終わらぬ。暮らし全体で考えるのだ。


 私は店主へ向き直った。


 「城下の商いが続くことは、城の安定にも繋がります。必要なことがあれば遠慮なく上げなさい。ただし買い占めや隠し売りは許しませんよ」


 「はっ、心得ております!」


 店主は顔を引き締めて答えた。


 そこから足軽屋敷の並ぶ一角へ向かう。


 朝餉を終えたばかりなのか、若い足軽たちが槍を持って庭先へ出てきていた。真琴様を見るや、一斉に平伏しかけたが、この方は手を振って止めた。


 「いいよ、顔上げて。ちゃんと寝られてる?」


 ……またそこからか、と私は思う。


 だが足軽たちは、逆にその問いの方が嬉しかったらしい。


 「はっ! 夜具も十分ございます!」

 「湯屋も使わせていただいております!」

 「風邪引く者、減りました!」


 それを聞いた真琴様の顔が、ぱっと明るくなる。


 「それはいい」


 まるで戦に勝ったような顔をするので、私は少し笑ってしまった。


 足軽の一人が、思い切ったように口を開いた。


 「御大将、炊き出しの汁が前より良くなりました」


 「桜子たちに言って。喜ぶから」


 「はい!」


 やはりこの人は、人を動かす時に“上から見下ろす”ということをせぬ。

 だから兵の目も、ただ恐れるだけのものにはならないのだろう。


 私はそこで、あえて一言付け加えた。


 「ただし、寝所が整い湯が良くなったからといって、訓練が緩んでよいわけではありません。城主が歩いて来られた時こそ、姿勢を見られていると思いなさい」


 足軽たちは「はっ」と声を揃えた。

 真琴様は横で少しだけ肩をすくめていたが、こういう役が必要だということは、もう理解しておられる。


 最後に船着き場へ出ると、朝の活気はさらに濃かった。


 荷を運ぶ者、船を繋ぐ者、帳面をつける者、北国から届いた箱を開ける者。

 湖風は冷たいが、人の動きは熱を持っている。


 真琴様はそこでも、まず船ではなく人を見た。

 咳をしている子を見つけると、すぐに近くの母親へ声をかけてしまう。


 「その子、咳長い?」


 母親は青ざめてひれ伏こうとしたが、真琴様が先にしゃがみ込んでしまったので、逆にどうしてよいかわからなくなっていた。


 「大丈夫、聞いてるだけ。熱は?」


 「き、昨日よりは下がりまして……」


 「水分ちゃんと取らせて。あと部屋あったかくして、乾きすぎないように。咳だけ長引くなら役所に言って、薬と食べ物回させるから」


 私はそのやり取りを見ながら、半ば呆れ、半ば感心していた。

 大名が船着き場で子どもの咳を気にするとは、誰が思うだろう。


 だが、その母親の顔を見ればわかる。

 驚きはしても、嫌ではないのだ。むしろ、思いがけず気にかけられたことに、目が潤んでいる。


 私は静かに言葉を添えた。


 「黒坂家は、城下の病も見過ごしません。遠慮なく申し出なさい」


 母親は、今度は本当に安心したように頭を下げた。


 見回りを終えて城へ戻る頃には、城下の空気が少し変わっていた。


 最初は「本当に歩いて来た」と驚いていた者たちが、今はあちこちでこう囁いているのが聞こえる。


 「ただ偉そうなだけじゃねぇんだな」

 「井戸の縄まで見てたぞ」

 「子どもの咳まで気にする城主様なんて初めて見た」

 「御方様は御方様で、ちゃんと締めるし」

 「黒坂家って妙だが、悪くない」


 私はそれを、聞こえぬふりで聞いていた。

 城主とは、本来こうして歩いて見せるものなのだろうか。私はまだ知らぬ。だが、少なくとも黒坂家の城主はこういう歩き方をするらしい。


 城門が見えてきた頃、真琴様がぽつりと言った。


 「なんかさ」


 「はい」


 「思ったより、皆ちゃんと暮らしてたね」


 「それはそうでしょう。城下に暮らす者たちは、皆生きるために働いているのですから」


 「うん。でも、やっぱり直接見ると違うね。井戸も、味噌も、咳も、帳面じゃわかんないし」


 私は少しだけ笑った。


 「真琴様は、威厳より先に井戸と味噌と咳を見ておられましたからね」


 「そこ大事じゃん」


 「ええ、大事です。……そして、その“大事”を大事だと思って歩く城主なら、民も少しずつ信じるでしょう」


 真琴様は足を止め、ちらりと私を見た。


 「茶々、それ褒めてる?」


 「半分は」


 「半分かぁ」


 「もう半分は、もう少し大名らしくなって下さいという願いです」


 「厳しいなぁ」


 そう言いながらも、真琴様は笑っていた。


 私もまた、城門をくぐる前に一度だけ振り返った。

 朝の城下はもう完全に目覚め、井戸場の女たちも、商家の店主も、船着き場の人足も、それぞれの仕事へ戻っている。


 だがきっと今朝のことは、少しずつ町に広がるだろう。


 大津城の城主は、ただ高いところにいるだけの人ではない。

 歩いて来て、見て、聞いて、暮らしの細かなところまで気にする人だと。


 それでよい、と私は思った。

 黒坂家らしさとは、たぶんそういうものなのだ。

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