茶々視点外伝大津城暮らし編・①④⑥話・お初、湯殿を仕切る
大津城に住み始めてから、城の中で一番よく湯気が立つ場所はどこかと問われれば、私は迷わず湯殿だと答える。
もともとこの城は、戦のために整えられた平城。
堀、水路、兵の詰所、足軽長屋、火縄銃の備え――そうしたものばかりが目立つが、実際に人が暮らし始めると、城の空気を左右するのは台所と湯殿であるとすぐにわかった。
ことに大津城は、琵琶湖からの風が強い。
日が落ちると、板戸の隙間から入り込む冷気が容赦なく足元を奪い、朝ともなれば廊下を歩くたびに、床板がひやりと返事をしてくる。
そんな城で暮らすゆえ、真琴様は大津入りした当初から、ことあるごとにこう言っていた。
「湯は贅沢じゃなくて必要。ちゃんと体温めて、ちゃんと洗って、ちゃんと寝る。風邪引いたら全部狂うから」
その言葉自体はもっともなのだが、雄琴温泉の湯をわざわざ城へ運び込んで沸かし直すと聞いたとき、お初は目を丸くしていた。
「……あんたねぇ、そこまでやる? 風呂に温泉の湯って、どれだけ贅沢なのよ」
その時の顔は、呆れ半分、驚き半分であった。
私はと言えば、すでに雄琴の湯のありがたさを身をもって知っていたので、そこまで驚きはしなかったが、たしかに贅沢といえば贅沢である。
だが、お初の態度はその後、思いがけぬ方向へ変わった。
きっかけは、真琴様が何気なく口にした一言だった。
「雄琴の湯って、肌がすべすべになるんだよね。前も言ったけど、美人の湯ってやつ」
その瞬間だった。
お初の耳が、ぴくりと動いたのを私は見逃さなかった。
「……美人の湯?」
先ほどまで「贅沢だ」「そこまでやるのか」と言っていた娘とは思えぬほど、声の温度が変わる。
真琴様はそんなことに気づく様子もなく、のんきに続ける。
「うん。アルカリがどうとかで、肌の余分なのが落ちるとかなんとか。詳しくはうろ覚えだけど、とにかく肌触りがよくなる」
「へぇ……」
お初はそれだけ言って黙った。
だが、その“へぇ”の中に、妙な熱がこもっているのを、姉である私は知っている。
そして、その日の夕刻――。
「桜子、湯加減はどうなってるの?」
私は思わず筆を止めた。
声の主はお初である。しかも、ただ湯殿へ向かったのではない。すでに仕切る気満々の声であった。
湯殿を覗くと、お初が腕を組み、真剣な顔で湯気を見つめている。
桜子と梅子、桃子がそれぞれ桶や薬湯の袋を手にしており、なぜか皆、お初の指図を受ける構えになっていた。
「お初、何をしているのです」
「何って、湯殿を見ているのよ」
「見ればわかります」
私がそう言うと、お初は少しだけばつが悪そうな顔をしつつも、すぐに強気へ戻った。
「だって、せっかく温泉の湯を運んでるのなら、いちばん良い入り方を考えたほうがいいでしょ? 熱すぎても肌に悪いし、ぬるすぎても温まらないし」
「……なるほど」
私は頷いてから、わざと静かに言った。
「美人の湯、と聞いてから妙に熱心ですね」
「ち、違うわよ」
お初はすぐに否定した。
「これは城の女たちのためよ。姉上様も母上様も、侍女たちも、皆ちゃんと湯に入れるように考えてるだけ」
「そういうことにしておきましょう」
「姉上様、その含みのある言い方やめて」
そのやり取りを聞いていた桃子が、こそこそと桜子に言った。
「お初様、すごく本気です」
「聞こえていますよ」
お初がすぐさま振り返る。
桃子は「はう」と小さく首を縮めた。
けれど、実際お初は本気だった。
湯の温度を自ら手で確かめ、熱すぎると見れば「少し水を足して」、ぬるいと見れば「もう少し沸かして」と言う。
薬湯に使う陳皮やくず粉の量にまで口を出し、「匂いが強すぎると落ち着かない」「でも弱すぎてもありがたみがない」などと、実に細かなことを言い始めた。
「お初、それは誰のための“ありがたみ”なのです」
「湯に浸かった時の気分の問題よ」
「はいはい」
私が軽く流すと、お初は唇を尖らせた。
それでも、その場を離れようとはしない。
湯殿の板張り、窓の開け方、湯浴みを置く棚、脱いだ着物を掛ける位置、濡れた床を拭くための布の置き場――次から次へと気づいては直させる。
その様子を見ているうちに、私は次第に、からかう気持ちだけではいられなくなった。
湯殿とはただ湯に入る場所ではない。
女たちが肩の力を抜き、侍女が笑い、母上様が静かに息をつき、お初やお江が騒ぎ、私も一日分の緊張をほどける場所だ。
城の中で、身分の違いを少しだけ脇へ置いて、“人”へ戻れる場でもある。
たしかに、これは整えねばならぬ。
それも、かなり丁寧に。
「お初」
「何よ」
「その棚の位置は、たしかに今の方がよさそうですね」
お初は、ぱちりと瞬いた。
私が素直に認めると思っていなかったのだろう。
「……でしょ?」
「ええ。湯殿へ入ってすぐ手拭いが取れる方が、濡れた足で歩き回らずに済みます」
「そうなのよ。あと、湯上がりの着物も、湿気がこもらないよう少し離して掛けたほうがいいわ」
そこから先は、姉妹というより、まるで女主人と女房頭の相談のようになっていった。
その頃、真琴様は何をしていたかというと、政所から戻ってくるなり湯殿を覗き、
「おっ、改善されてる」
と、妙に満足そうに頷いていた。
「真琴様、お初が湯殿を仕切っております」
私が告げると、真琴様は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「いいじゃん。お初、ちゃんと使う人目線で見てるんだね」
その一言に、お初は少しだけ耳を赤くした。
「べ、別に褒められることではないでしょ」
「いや、使う人の意見って大事だよ。城って、使いにくいとすぐ嫌われるから」
そう言って真琴様は、火鉢のそばへ腰を下ろした。
毛皮を肩に掛けたまま、いかにも寒そうにしている。
「あと、ちゃんと皆、湯に入ってね」
「はいはい、御主人様」
桜子が答える。
「ほんとに。風邪予防だから。湯は贅沢じゃない。必要経費」
「風邪予防、風邪予防って、あんたそればっかりね」
お初が少し呆れたように言うと、真琴様は真面目な顔で返した。
「そればっかりでいいんだよ。大将が倒れるのもまずいけど、侍女や台所の人が倒れても城は回らなくなる。兵だって同じ。だから、皆ちゃんと湯に入って、温かいもの食べて、寝る」
それを聞いて、湯殿にいた侍女たちが顔を見合わせた。
主がここまで言う城も、そう多くはあるまい。
その日から、大津城では湯殿の使い方が妙に整い始めた。
誰が何刻ごろ入るか。
先に重労働の者を入れるか、夜番を先にするか。
薬湯の袋はどこへ吊るすか。
風呂桶はどの順で洗うか。
お初の仕切りと、真琴様の細かい指示が、少しずつ形になっていったのだ。
そして、それは湯殿だけで終わらなかった。
廊下を拭く布も、洗い物の桶も、台所の炭も、寝具の干し方も、侍女の手洗いも。
「清潔に」「湿り気を逃がして」「風邪を防いで」
そうした言葉が、いつの間にか黒坂家の中で当たり前になっていく。
数日後、城内で夜番をしていた若い家臣たちがひそひそと話しているのを、私は聞いてしまった。
「大津城って、妙にきれいだよな」
「わかる。湯も毎日だし」
「侍女が雑巾持って走り回ってる」
「殿が汚いの嫌うらしいぞ」
「殿っていうか、御方様も厳しい」
その言葉に、私は廊下の陰で少しだけ笑った。
“妙に清潔な城”。
戦国の城に対する評としてどうかと思わぬでもないが、悪くはない。
その晩、私は湯殿から戻るお初と一緒に廊下を歩いた。
お初の頬は湯気で赤く、髪も少ししっとりとしている。
「……お初」
「何よ」
「美人の湯の加減はいかがでしたか?」
お初はぴたりと足を止め、じとりとこちらを見た。
「姉上様」
「はい」
「今、絶対にからかってる」
「いいえ。ただ、湯殿の仕切り役に感想を聞いているだけです」
お初はしばし黙っていたが、やがてふんと鼻を鳴らしてから、小さく言った。
「……悪くないわよ」
「それはようございました」
「だから、そういう顔しないで」
どうやら私は、自分で思っている以上に楽しそうな顔をしていたらしい。
その夜、湯殿の板戸の向こうからは、侍女たちの小さな笑い声が漏れていた。
大津城は、少しずつではあるが、確かに“住む城”になり始めている。湯気の向こうでほぐれていく皆の声を聞きながら、私はそう思った。




