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茶々視点外伝大津城暮らし編・①④⑤話・新しき台所、新しき朝

 大津城での暮らしが本格的に始まると、私はようやく気づかされた。


 城というものは、天守や石垣や堀だけでは成り立たぬ。

 どれほど立派な縄張りを持とうと、どれほど攻めにくい構えをしていようと、台所が整わず、湯が尽き、侍女が疲れ、兵が腹を空かせれば、それはただの冷たい箱に過ぎない。


 黒坂家の城を“城”ではなく“暮らせる家”にする。

 それが今、私に課された役目の一つであった。


 朝、まだ琵琶湖からの風が冷たい刻。

 私は桜子、梅子、桃子の三姉妹を連れて、まず大津城の台所へ向かった。


 新しく整えられた台所は広い。建物の内外に井戸があり、竈門もいくつも備えられている。籠城時には兵の飯を一度に炊き出せるよう造られているためだが、今は戦より先に“日々の飯”を整えねばならぬ。


 桜子は梁や棚、竈門の間隔、薪置き場、水場の動線を、入った瞬間から目で追っていた。

 私はそれを見て、改めて思う。料理番頭とは、ただ味の良い物を作る者ではなく、台所という戦場を治める者なのだと。


「どうです、桜子」


 私が声を掛けると、桜子は竈の前にしゃがみ込み、床板に手を当てた。


「広さは申し分ございません。炊き出し用の大鍋を掛ける竈と、御主人様や御方様のお膳を整える小回りの利く竈が分けられているのも良うございます。ただ……」


「ただ?」


「水桶を置く位置が少し遠うございます。濡れた手で歩き回ると床が滑りやすくなりますので」


 なるほど、と私は頷いた。

 私は台所を“広い”“立派”で見ていたが、桜子は最初から“どう働くか”で見ている。


 梅子は別の場所を見ていた。

 食料を収める棚、味噌甕、塩壺、干し魚を吊るす梁。


「御方様、干し物はもう少し高く吊った方が良いと思いますのです。湿り気が寄りますし、鼠も」


「鼠」


 その言葉に、私は眉を寄せた。

 大津城は新しい。だからこそ、まだ人だけでなく様々なものが住みつこうとする時期でもある。


 桃子は井戸のそばから顔を出した。


「お方様、水はきれいです。でも桶を洗う場所と、野菜を洗う場所が近いのです。御主人様が見たら、きっと“だめ”って言いますです」


「言いそうですね……」


 私は思わず苦笑した。

 真琴様は、台所に関してだけは武辺の話より細かいことを言う。いや、台所だけではない。湯殿も、食事の間も、侍女部屋も、妙なほどによく見る。


 ちょうどその時だった。


「見に来てたんだ」


 後ろから、聞き慣れた声がした。

 振り向けば、真琴様が毛皮の肩掛けを羽織り、眠たげな顔で立っておられた。朝の冷えに弱いこの方は、台所の湯気に引かれてきたのかもしれぬ。


「真琴様。ちょうど今、台所を見ていたところです」


「うん。大事だからね、ここ」


 そう言って真琴様は、いつものようにするすると中へ入ってきた。

 武将が朝から台所へ顔を出すこと自体、普通ではない。普通ではないのだが、今さらそんなことを言っても始まらぬ。


 真琴様は井戸と竈を交互に見て、それから私たちへ向き直った。


「城の台所は、兵の胃袋を支える戦場だから」


 その言い方があまりに真面目だったので、私は少しだけ目を瞬いた。


「戦場、ですか」


「そう。ここが回ってないと、兵は腹を空かせる。腹を空かせた兵は戦えないし、いらいらするし、病気にもなる。だから、台所は戦の前から戦ってる場所なんだよ」


 桜子が深く頷いた。


「はい、御主人様」


「それとね」


 真琴様は、指で一つずつ示しながら話し始める。


「米、味噌、塩、干し物は置き場を分ける。炭は湿気ると火力が落ちるから風通しを確保する。井戸水を汲む桶と、汚れた物を洗う桶は絶対混ぜない。排水は飲み水の流れに戻さない」


 私は最初、正直に言えば少しだけ呆れた。

 そこまで細かく言わなくとも、と。


 だが真琴様は続ける。


「食べ物が傷むのも、水が汚れるのも、病気の元になる。病気って、刀や槍みたいに見えないから後回しにされやすいけど、実際には兵を一番減らすんだよ」


「……未来の知識ですか?」


 私が小声で聞くと、真琴様は小さく頷いた。


「うん。だからこれはちゃんとやりたい」


 その声音に、私はそれ以上の軽口を止めた。

 真琴様はこういう時、ただ物知りぶっているのではない。本気で“守る”ために言っているのだ。


「桜子」


 私は振り返った。


「水桶の位置、洗い場の分け方、干し物の高さ、鼠避け……全部、真琴様の言う通り改めなさい」


「はい、御方様」


 桜子がきりっと返事をする。梅子も桃子も、すでに頭の中で動線を組み直している顔をしていた。


 台所を見終えた後は、湯殿へ向かった。


 大津城の湯殿は、雄琴温泉の湯を運び込んで沸かし直すという贅沢な仕様になっている。

 だが、贅沢と笑って済ませてはならないことを私はもう知っていた。湯は体を温めるだけでなく、人の気をほどき、病を防ぐ。ことに冬の大津では、それが城の調子を左右するほど大きい。


 真琴様は湯殿の板壁を軽く叩き、窯の位置を見てから言った。


「ここも大事。湯は贅沢じゃなくて必要。清潔と体温維持のため。あと、入る順番とか掃除の手順も決めたほうがいい」


「また細かいことを」


 思わず私が言うと、真琴様はむしろきょとんとした顔でこちらを見た。


「細かく決めてないと揉めるじゃん」


「……たしかに」


 それは反論できぬ。

 暮らしとは、小さなことで揉めるものだ。湯がぬるい、薪が足りぬ、桶が汚い。そうした些細なことが積もって、人の心は荒れる。


 侍女部屋も見た。

 これまでは「侍女は侍女部屋にいる」としか思っていなかった私だが、桃子たちに言わせれば、夜具の置き場、着替えを畳む棚、洗濯物を干す動線、夜番と朝番の者の寝る場所――そのどれもが大事なのだという。


「御主人様は、侍女部屋が狭いと機嫌悪くなるです」


 桃子が平然と言った。


「私、そんなこと言った?」


「言いましたです。『ここで暮らす人が窮屈だと、城全体が窮屈になる』って」


 真琴様は少しだけ考えてから、


「ああ……言ったかも」


 と返した。


 私はそれを聞き、胸の内で反芻した。

 ここで暮らす人が窮屈だと、城全体が窮屈になる。


 そうか。

 城とは、主が一人で住むものではない。侍女も、足軽も、台所の者も、みな少しずつ息をして、その息が重なって初めて城になるのだ。


 そこまで見終えた頃には、日もだいぶ高くなっていた。

 朝餉の仕度が整ったと桜子が告げに来る。


「御主人様、御方様、初めての“大津城の朝餉”でございます」


 その言葉に、私は少しだけ胸が躍った。

 大げさではなく、これはたしかに“最初の朝”なのだ。


 食事の間へ入ると、囲炉裏にはすでに火が入っていた。鍋から湯気が立ち、焼き魚の香りが漂う。

 膳には、炊きたての飯、味噌汁、干し魚、漬物、そして桜子たちが朝早くから仕込んだ菜の煮浸しが並んでいた。華美ではない。だが、あたたかく、整っている。


 真琴様は囲炉裏に手をかざして、心底ほっとした顔をした。


「……うん、これだね」


「何がです?」


「家って感じ」


 私はその言葉を聞いて、思わず膳の上へ視線を落とした。

 まだ出来たばかりの城。壁も新しく、畳も新しい。人もようやく配置が固まってきたばかり。けれど、こうして朝餉がきちんと整い、皆が自然に座れるなら――たしかにここは、ただの“新しい城”ではなく、“家”になりつつあるのかもしれぬ。


 お初とお江もやってきて、いつものように賑やかになった。


「今日の汁、出汁がいいわね」


 お初が言うと、桜子は嬉しそうに頭を下げた。


「昨夜から骨を煮出しておきましたので」


「マコ~、大津城でも桜子ちゃんのご飯食べられるんだね~」


 お江が無邪気に言う。

 真琴様は、すでに飯を半分ほど食べながら答えた。


「そこ、一番大事だからね」


「食のことばかり」


 私が少し呆れて言うと、真琴様は真面目な顔で返した。


「茶々、医食同源って言葉、忘れないで。ちゃんと食べるって、城を安定させることだから」


 ……また、その言葉だ。


 けれど今朝の私は、前より素直に頷けた。


「はい、わかっております。今日見て回って、よくわかりました」


「ほんと?」


「ええ。台所も湯殿も侍女部屋も、全部ちゃんとしていなければ城は落ち着きません。大津城を“暮らせる城”にするとは、こういうことなのですね」


 真琴様は少しだけ驚いた顔をし、それから笑った。


「うん、そういうこと」


 囲炉裏の火がぱちりと鳴る。

 湯気が上がり、朝餉の香りが広がる。

 その中で私は、ようやく実感した。


 城を築くのは、大工だけではない。

 ここで湯を沸かす者、飯を炊く者、掃除をする者、火を見張る者、そうした者たちみなの手で、城は日々“住める場所”へ育っていく。


 大津城での暮らしは、こうしてようやく本当に始まったのだった。

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