茶々視点外伝 茶々視点・①③⑨話・新しき年、新しき城の女主人
正月の慌ただしさが少しだけ落ち着き、城下の炭小屋跡にも新しい木材が運び込まれ始めた頃――真琴様が上洛先より大津へ戻られた。
その報せが届いた時、私は政所で帳面を見ていた。
火事の打ち壊しに伴う補填、炭置き場の新たな取り決め、井戸番の割り振り、そして町人地の見回り強化。目を通すべき書付は山のようにあり、桜子が淹れてくれた茶も、半ば冷めていた。
「御方様、御主人様の行列、まもなく大手門をくぐると」
桃子が弾んだ声で告げると、私は筆を置いた。
胸の奥が、ふっと軽くなる。――帰ってくる。それだけで、城の柱が一本増えるような気がするのだから不思議だ。
私は政所を出て、御殿の玄関口まで足を運んだ。
冬の空は青く高く、湖風はまだ冷たい。だが、城内の空気はどこか浮き立っていた。
家臣たちの足取りは軽く、侍女たちの頬もわずかに紅い。主の帰還とは、それだけで城を明るくするものらしい。
やがて、馬の足音と人々の声が近づいてきた。
先触れに続いて、見慣れた毛皮姿――いや、今日は熊ではなく、さすがに都帰りらしく少しだけ整えた装いの真琴様が、大津城へ戻ってこられた。
「ただいま~……って、やっぱり京の都は寒かったよ」
開口一番がそれである。
私は思わず口元が緩みそうになったが、なんとか抑えた。
「お帰りなさいませ、真琴様。まずは御帰城、お疲れ様でございました」
「うん、茶々もただいま。……なんか、皆の顔が少し違う?」
真琴様は玄関口で家臣たちを見渡し、首をかしげた。
その“違い”に、すぐ気づくところがこの人らしい。城の空気が少し変わったのだ。火事の夜を越えて、皆の目がひとつ深くなった。
私に向く視線もまた、以前と違っていた。
真琴様は着替えもそこそこに、囲炉裏のある食事の間へ移ると、温かい茶を片手に私へ向き直った。
「で、聞いたよ。城下で火が出たんだって?」
「はい。炭小屋からのボヤでしたが、風が強うございましたので」
「被害は?」
「死者はおりません。怪我人は出ましたが、いずれも命に別状なし。炭小屋は焼けましたが、延焼は最小限で食い止めました」
私は簡潔に答えた。
だが真琴様は、それで済ませる顔ではなかった。
「誰が指揮したの?」
問いの意味はわかっている。
けれど、私が口を開く前に、お初が横から言った。
「姉上様よ。城中の者が一瞬固まった時、真っ先に動いたのは姉上様」
「お初」
「何よ、本当のことでしょ。私だって認めるわよ、そのくらい」
お初はそっぽを向いたまま言う。だがその声には、妙な照れと誇らしさが混じっていた。
正虎も、ちょうど登城していたらしく、隅で控えていたが、一歩進み出て頭を下げた。
「常陸様。御方様の御指図なくば、あの夜、町はもっと焼けておりました」
真琴様は私を見た。
その目に、驚きと、安堵と、少しばかりの嬉しさがいっぺんに浮かぶ。
「……そっか」
それだけ言って、茶を一口飲む。
それから、ふっと笑った。
「もう大津城は、俺一人の城じゃないね」
その言葉に、私はほんの少しだけ息を呑んだ。
嬉しい。だが、それ以上にこそばゆい。面と向かって認められると、どこへ顔を向けてよいのかわからなくなる。
「最初から、そのつもりでした」
私は、できるだけ平然とそう返した。
けれどたぶん、少しだけ声が柔らかくなっていたと思う。
真琴様は、囲炉裏の火を見つめながら、静かに続けた。
「城主がいなくても城が揺るがないって、すごく大事なことなんだよ。茶々がいてくれてよかった」
「……真琴様が普段から“人に任せる”ことをしているからですよ。皆、命じられた時に動けたのです」
「でも、最後に腹を括るのは人だからね」
その言い方が、いかにもこの人らしかった。
私の働きを褒めながら、城全体の話へ広げてしまう。誰か一人の手柄ではなく、城の力として見ているのだ。
そこへ桜子が温め直した汁物を運んできて、
「御主人様、お戻り早々ですが、御方様は本当に大働きだったのです」
と、いつになくはっきり口を挟んだ。
「桜子」
「だってそうでございます。お方様は火の前へまで出て」
「えっ、火の前まで!?」
真琴様が急にこちらを見る。
しまった、と思ったが遅い。
「必要だったのです」
「必要でも、危ないことは危ないでしょ」
困ったような、怒ったような顔。
それを見て、私は少しだけ笑ってしまった。
「真琴様も似たようなことをよくなさるではありませんか」
「俺は一応、力で逃げられるけど……茶々は」
「私も逃げられます。お初も正虎も、柳生の者もおりました」
「……それでも、心臓に悪い」
そう言って肩を落とした真琴様に、皆が小さく笑った。
大津城の囲炉裏の火は、こうして人の緊張までほどいていく。
その夜、城下ではすでに噂が広がっていた。
黒坂の御方様が火を止めた。
城主不在でも、この城は揺るがぬ。
黒坂家は家を壊して終わりではなく、立て直しまで面倒を見る。
私はその噂を、直接は聞かなかった。
聞かぬでも、城へ届く町人の態度や、家臣たちの報告の端々でわかる。人心がこちらへ少し傾いたのだ。火事ひとつで変わるものではないが、火事ひとつで見えるものは多い。
真琴様はその晩遅くまで、正虎やお初の話も交えながら、火事の一部始終を聞いていた。
時に笑い、時に眉をひそめ、最後には「で、補填の帳面は?」と、そこへ話が戻るのもまた真琴様らしい。
「すでにまとめてあります」
「さすが」
「最初からそのつもりでしたから」
「うん、それもう二回目」
そんなやりとりをしているうちに、ようやく“帰ってきた”という実感が城全体に馴染んでいった。
そして翌朝。
私はまだ夜の名残が残る刻に目を覚まし、一人で天守へ上った。
寒い。だが、嫌な寒さではない。大津の冬の朝は、目が醒めるように澄んでいる。
天守最上階から見下ろす城下は、まだ淡い藍色に包まれていた。屋根の並び、曲がる町道、炭小屋跡の黒い染み、そこへ新しく運び込まれた材木。さらに向こうには、冬の琵琶湖。
夜明けの光が東からゆっくりと差し、町と城を同じ色で照らしていく。
私は欄干に手を置いた。
ここへ来たばかりの頃は、この城がまだ借り物のように感じられていた。
真琴様の城。義父の意向で与えられた場所。私はそこへ“嫁いだ”だけの者――そんな気持ちが、どこかにあった。
けれど今は違う。
火事の夜、家臣たちが私を見た目。
町人が頭を下げた朝。
正虎が膝をつき、真琴様が笑って「もう俺一人の城じゃないね」と言ったこと。
それらが全部、この城の石垣のように胸の内へ積み上がっていた。
「……今年は」
朝日に向かって、私は小さく呟く。
「この城を、私も育てる年になります」
城を守るだけではない。
町を整え、人を束ね、火を防ぎ、家臣に顔を覚えられ、民に信じられる。
その全てを積み重ねていく年になる。
夜明けの光が、ようやく大津城の屋根を金に染めた。
その光を受けながら、私は静かに目を細めた。
新しき年。
新しき城。
そして――新しき、黒坂家の女主人としての私。
大津城の朝は、もう誰かの背に隠れて迎えるものではなかった。




