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茶々視点外伝 茶々視点・①③⑧話・正虎、膝をつく

 城下のボヤ騒ぎが鎮まった夜、私は湯を使ってようやく煤を落としたものの、体の芯に残った熱と緊張はなかなか抜けなかった。


 鏡に映る自分の顔は、髪を整え直してもどこか強張って見えた。


 桜子が「御方様、お休み下さい」と何度も勧めてくれたが、私はすぐに床へ入る気にはなれず、行灯の下で町人地の被害を書き留めさせていた。


 炭小屋一棟、全焼。

 板塀三枚、打ち壊し。

 延焼防止のため壁を落とした家、二軒。

 濡れた家財、数知れず。

 怪我人はいたが、死者なし。


 死者なし――その一文を目にするたび、胸の奥で何かが少しずつほどけていく。


 家はまた建てられる。私はあの場でそう言い切った。

ならば、建て直すための手立てを、言葉だけで終わらせてはならない。


 「御方様」


 帳面を見ていた私に、蒲生氏郷が声を掛けてきた。


 「何です?」


 「打ち壊しにした家々の者、今は城下の詰め小屋へ移しております。炊き出しの汁と、乾いた布団も手配いたしました」


 「よろしい。明朝一番で、壊した家の持ち主を呼びなさい。帳面方もです」


 「はっ」


 私は筆を置き、蒲生氏郷を見た。


 「それと、今夜のうちに触れを出します。打ち壊しと復旧の費用は黒坂家が出すと」


 蒲生氏郷は一瞬だけ、視線を上げた。

 驚いたのではない。金の算段を一瞬で頭の中で動かした顔だ。


 「よろしいのですか?」


 「よろしいのです。私の命で壊したのですから。町人に“守るために壊したが、あとは知らぬ”とやれば、民心は二度とこちらへ寄りません」


 「御方様……」


 「火を止めるだけでは足りないのです。止めた後に、どう立たせるかまでが“守る”でしょう」


 蒲生氏郷は深く頭を下げた。


 「しかと」


 私はようやく床へ入った。

 だが眠りは浅く、夢の中でも火の粉が飛んでいた。


 翌朝は、妙に静かな朝だった。


 町人地から立ちのぼるはずの朝餉の煙が少なく、代わりに焦げた木と濡れた灰の匂いが風に混じって城まで上がってくる。

大津の風は、情け容赦なく匂いまで運ぶのだと、改めて知った。


 朝餉を済ませると、私はすぐに政所の広間へ出た。

 昨夜の打ち壊しで被害を受けた家の者たち、帳面方、工事方、町奉行役、柳生の手の者まで並ばせる。

皆、どこか緊張していた。

私が“昨夜の御方様”のままでいるのか、それとも元の“姫君”に戻るのか、量りかねているのだろう。


 私は上座に座し、まず壊した家の持ち主たちへ向かって言った。


 「昨夜は、黒坂家の命にて家屋と塀を打ち壊しました。延焼を防ぐためとはいえ、皆の暮らしを乱したこと、まずは私から詫びます」


 広間がしんと静まる。

 私はそのまま続けた。


 「ですが、あの時、あの判断は必要でした。命を優先したことに、後悔はありません」


 言い切ってから、一拍おく。


 「よって、打ち壊しによる復旧費用、家財で失われた物のうち必要最低限の補填、仮住まいと食の手配は、黒坂家が行います。帳面方、記しなさい」


 ざわ、と空気が揺れた。

 頭を深く下げる者、呆然とする者、泣き出す女までいる。


 昨夜、板塀を壊されると怒鳴っていた男が、今度は膝をつき、額が畳に触れるほど頭を下げた。


 「御方様……あの時は取り乱しました」


 「当然です。誰でも自分の家を壊されれば怒ります」


 「ですが、今こうして家族が揃って朝を迎えられたのは、御方様のおかげにございます」


 その声に釣られるように、他の者たちも次々と頭を下げた。

 私はその光景を見ながら、胸の奥がじんと重くなるのを感じた。

感謝されるのは嬉しい。

だが、同時に、これからは“感謝される側の責”も負うのだと、骨身に沁みる。


 「礼は受けます。ですが、次からは火の扱いに気をつけなさい。炭小屋の位置、藁束の置き方、夜の見回り――町に触れも出します。皆で守るのですよ。この城下を」


 「はっ」


 声は、昨日までより一段揃っていた。


 そのやり取りが終わった頃、広間の端で控えていた前田正虎が、すっと前へ進み出た。


 昨夜と違い、今日はきちんとした小袖に着替え、髪も整えられている。だが袖口にはまだ煤の跡が微かに残っていた。


 「御方様」


 「正虎殿。何です?」


 正虎はその場で膝をつき、深々と頭を下げた。

 その所作には、昨日よりもはっきりした意志があった。


 「昨夜の御働き、しかと見届けました」


 私は黙ってその先を促した。


 「火を前にして、迷いなく人を割り振り、家を壊し、道を開き、命を優先する。……あれは武辺者にも真似できぬ働きにございます」


 広間の空気がまた静まった。

 正虎は顔を上げ、真っ直ぐ私を見た。


 「父上や利家様が、なぜ黒坂家を重く見るのか。昨夜、わかりました。強いだけでは人は従いませぬ。守るべき順を知る者にこそ、人はついて行くのだと」


 慶次の嫡男の口から、そんな言葉が出る。

 私は少しだけ目を細めた。正虎はもう、ただの礼儀正しい若武者ではない。

昨夜一晩で、火の色と人の声を知った顔になっていた。


 「……正虎殿」


 「はっ」


 「礼は受けましょう。よく走り、よく働きました。若武者として上々です」


 正虎の顔が、ぱっと明るくなる。

 だが私は、そこですぐに言葉を継いだ。


 「ですが」


 その一語で、正虎の背筋がぴんと伸びた。


 「次は、走り出す前に一言、許しを取りなさい」


 「……っ」


 「昨夜、あなたは私の命で動きました。けれど最初に飛び出した時、もしあれで火に呑まれていたら、前田家にも、慶次にも、そして真琴様にも、私はどう顔向けすればよかったのです」


 正虎は唇を引き結び、視線を落とした。


 「夢中で……」


 「それはわかります。若さとは、そういうものです」


 私は少しだけ声を和らげた。


 「ですが、若武者とは“ただ走れる者”のことではありません。主の許しを得て、役目を持って動ける者が、真の武者です」


 正虎は、深く頭を垂れた。


 「……次は必ず」


 「ええ。次は必ず、そうしなさい」


 その返事に、私はようやく頷いた。

 怒るだけなら簡単だ。だが、若い者は怒鳴られて育つのではなく、“次に何をするか”を教えられて育つ。真琴様が人を見る時、きっとそうしてきたのだろう。私も、それを真似ているだけだ。


 お初が、少し離れた所から小さく笑った。


 「姉上様、ちゃんと“御方様”してるじゃない」


 「お初、聞こえていますよ」


 「わざとよ」


 広間の空気が少しだけやわらいだ。


 昼過ぎ、触れが城下へ出された。


 昨夜の打ち壊しは御方様の命によるものであり、復旧費用は黒坂家が持つこと。

 火の用心の触れ。

 今後の炭置き場の取り決め。

 井戸水と火桶の見回りについて。


 それらが町々へ伝わるのは早かった。

 黒坂家の忍びが“町人の顔”であちこちにいたこともあるだろう。夕刻までには、城下ではすっかり別の噂が広がっていた。


 ――黒坂の御方様は、火を止めるだけでなく、壊した家まで立て直すらしい。

 ――黒坂家は、命だけ取って後は知らぬ、という家ではない。

 ――殿がおらずとも、この城は回る。


 私はそれを、直接ではなく、窓の外で話す女たちの声で聞いた。

 城下の女たちは、良い噂も悪い噂も広めるのが早い。ならば、その口がこちらへ向いた今を、無駄にはできない。


 「御方様」


 桜子が、湯気の立つ茶を差し出しながら言った。


 「町の者、皆、御方様のお話をしております」


 「悪い話でないなら良いのですが」


 「良い話です。……皆、安心しております」


 その一言が、何よりも重かった。

 安心――それを与えられたなら、昨夜、火の前へ出た意味はあった。


 私は茶碗を受け取り、ふっと息を吹きかけた。


 「まだ安心するのは早いわ。家は建て直さねばならぬし、炭の置き場も見直し、火の触れも徹底させる。……やることは山ほどあります」


 「はい。でも、皆、御方様の言うことなら聞く気になっております」


 私は茶をひと口含んだ。少し苦い。だが、その苦さが妙に心地よかった。


 大津城の御方様。

 そう呼ばれることに、私はまだ慣れない。

 けれど昨夜から今日にかけて、確かに一つ、城の中で何かが変わった。私を見る家臣の目も、町の者の目も、もう“真琴様の妻”だけではない。


 私は、そのことを嬉しいと思うと同時に、少しだけ怖いとも思った。

 だが怖いからこそ、立たねばならぬ。


 「正虎殿」


 私はふと思い出して、窓の外へ目をやった。

 前田家の若武者は、昨夜の煤を落とした顔で、きっと今ごろ父に向ける言葉を考えているだろう。


 あの子は使える。

 そして、育てれば前田家と黒坂家を繋ぐ、太い橋になる。


 私は心の中で、静かにそう結んだ。

 火の夜は去った。だが、その夜に生まれた縁と信は、これから先の黒坂家を支える柱になっていく――そんな予感がしていた。

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