茶々視点外伝 茶々視点・①③⑦話・御方様の陣――茶々、火を断つ
南町へ駆けつけた時、火はまだ“町を呑む火”にはなっていなかった。
だが、そうなる一歩手前だった。
炭小屋の軒先から赤い舌が覗き、乾いた板壁をじりじりと舐めている。
風は琵琶湖から真横に吹きつけ、火の粉を細かく千切っては隣家の屋根へと運んでいた。
人の叫び、桶の水が跳ねる音、泣く子の声、怒鳴り声――夜の町はすでに半ば戦場のようだった。
私は提灯を脇へ預け、まず風の向きを見た。
火は南東へ流れている炭小屋の隣、古びた板塀の家二軒、その先に藁束を高く積んだ納屋。
あれに移れば、一気に広がる。
「柳生の者! 火元の南東側、二軒を切り離します!」
私が叫ぶと、すでに町へ散っていた忍びたちが人垣の奥から現れた。
庭師姿、町人姿、奥女中姿――だが手にした鳶口の扱いは、素人のそれではない。
「その家の家財を運び出せ! 箪笥より人、布団より子ども! 運び出したら板塀を落としなさい!」
すると、家の主らしい男が真っ赤な顔で飛び出してきた。
「待て待て待て! 何をする! うちの壁を壊すな!」
怒鳴り声が、火の音より鋭く耳へ刺さる。
だが私は止まらなかった。足も止めなかった。男の正面まで進み、真正面から言い切る。
「家はまた建てられる。命は戻りません」
男が言葉を失った、その一拍の隙に私は続けた。
「今ここで壊せば、隣十軒は守れる。壊さねば、あなたの家も隣も、その先も燃えます。泣くのは後でなさい。今は家族を連れ出すのです」
周囲のざわめきが、一瞬だけ止んだ。
その男の目が、怒りから恐怖へ変わるのがわかった。ようやく、火が“自分の家だけの火”ではないと飲み込んだのだろう。
「……っ、母ちゃん! 子どもを表へ出せ! 箪笥はいい、帳面だけ持て!」
その声を合図のように、人が動き始めた。
「お初!」
「わかってる!」
お初はすでに女子供を北へ流していた。泣き叫ぶ幼子を抱え、老婆の肩を押し、町の女たちへ「火を見るな、歩け、立ち止まるな」と飛ばしている。
普段は棘だらけの物言いだが、こういう時は早い。
「正虎殿!」
「ここに!」
前田正虎は、顔を煤で黒くしながら井戸端から駆け戻ってきた。
「水桶の列は!」
「二列にしました! 北の井戸から南へ一列、東の井戸から裏手へ一列! ですが、野次馬が――」
「前田家の名で蹴散らしなさい。見物人は火より邪魔です」
「はっ!」
正虎は、返事だけは立派にして走っていく。
あの若武者、命じればちゃんと動く。父親より扱いやすい――などと思ってしまったのは内緒だ。
水桶の列がようやく回りはじめ、炭小屋の火へばしゃばしゃと水が浴びせられる。だが火の勢いは、消えるより先に横へ走ろうとしていた。
「藁束を離しなさい! 屋根へ上がれる者、火の粉を払え! 濡れた莚を持ってこさせるのです!」
「御方様!」
桜子が息を切らして戻ってきた。後ろに梅子と桃子、さらに町女姿のくノ一が数人。手には濡らした布、桶、手拭い。
「台所から大鍋の蓋を持ってきました! 火の粉避けに使えます!」
「よい働きです。藁束と屋根の間へ立てなさい! 桃子は子どもの顔を見て回りなさい、泣き疲れて崩れる子がいる!」
「はいなのです!」
その時だった。
甲高い泣き声が、騒ぎの向こうから上がった。
「まだ子が中にいるぞ!」
誰かが叫ぶ。
私の背中に冷たいものが走った。見れば、火元の二軒隣、半ば煙に包まれた家の格子窓に、小さな手が見えた。
「どこの子です!」
「炭屋の末っ子だ! 婆さまが外へ出したつもりで……!」
火はまだ家そのものには回っていない。だが、軒へ火の粉が降り続けている。
風向きひとつで呑まれる。
「濡れ布を!」
私は桃子から手拭いをひったくり、近くの桶に突っ込んで口元を覆った。
「姉上様!」
お初の声が、今度ばかりは怒鳴りに近かった。
だが私は振り返らない。
「柳生の者二人、私と来なさい! 正虎殿、裏へ回って戸を叩け! 子を窓から離すな!」
「は、はい!」
私は煙の濃い路地へ踏み込んだ。熱い。まだ火そのものは来ていないのに、風が熱を運んでくる。目が痛み、喉が焼ける。だが立ち止まれば、その一呼吸が子の命を削る。
格子の近くまで進むと、中で子が泣き崩れていた。まだ小さい。三つ、四つか。
「そこで動くな!」
私が叫ぶと、子はかえって大きく泣いた。
くそ、真琴様ならもっと上手いこと声をかけるのだろう。だが私は私のやり方でやるしかない。
「正虎殿! 裏戸は!」
「開きません! 閂です!」
「鳶口で落としなさい! 急げ!」
鈍い音が二度、三度。裏口の木が割れる。
その瞬間、風が一段強く吹き、軒先に火が走った。
周囲の息が止まるのがわかった。
私は子のいる窓の下まで詰め寄り、格子へ手をかけた。熱い。だが折れるほどではない。
「戸が開いたら、子を抱えて走らせなさい! 私が前の火を払います!」
自分でも何を言っているのかと思った。だが口が勝手に命じる。
柳生のくノ一が濡れ莚で軒の火を叩き、私は窓際へ上がろうと一歩踏み出した。
「御方様!」
誰かが悲鳴のように名を呼ぶ。
その直後、裏口が内側からがたんと開き、正虎が煤まみれになった子を抱えて飛び出してきた。
「出た! 出ました!」
「下がれ!」
私は即座に押し返すように命じ、柳生の者と共にその場を離れた。
次の瞬間、軒の一部がばさりと崩れ、火の粉が地へ散った。
もし一拍遅れていたら、と思うと膝が笑いそうになった。
だが、まだ終わっていない。
「水を前へ! 今崩れたところに集めるのです! 家を落とすなら今!」
私の声に、桶の列が一気に前へ詰める。
壊すべき壁が落とされ、火の走る道が断たれていく。
水が、土が、濡れ莚が、火を囲む。
燃える炭と板の匂いに混じって、泥の匂いが強くなってきた時――ようやく、火の赤が低く沈んだ。
誰かが「止まった……」と呟いた。
その一言で、張り詰めていた空気が一斉に緩む。
泣き声も、怒鳴り声も、今度は生きている者の音として聞こえた。
私はその場で深く息を吸い、咳き込んだ。喉が痛い。目も痛む。だが、立っている。
正虎が、救い出した子を母親へ渡し終え、私の前へ戻ってきた。顔は煤だらけ、袖も焦げている。
「御方様……」
「怪我は」
「ありません」
「ならよし」
それだけ言うと、正虎は不意に膝をついた。
その動きに、周囲の町人たちの目がこちらへ集まる。
「今宵の働き、しかと見ました。御方様の御指図なくば、町は焼けておりました」
私は一瞬、言葉を失った。
ここで重ねる言葉は、私のためではなく、今この町に残る者のためのものだ。
「礼は後でよろしい。怪我人を集めなさい。家を壊した者には、あとで必ず黒坂家から補償を出します。帳面を付けなさい。泣いている者がいても、誰も黙らせなくてよい。ただ、一人も置いていくな」
すると、さっき家を壊されると怒鳴っていた男が、泥だらけのまま私の前へ出てきて、深く頭を下げた。
「……御方様。家は、また建てられる。さっきの言葉……その通りでございました」
その後ろで、女たちが抱き合い、子どもを抱きしめ、年寄りが何度も手を合わせていた。
誰かがぽつりと呟く。
「黒坂の御方様が、火を止めた」
その声は、火の消えた町に思った以上によく響いた。
そして、二人三人と、それを繰り返す。
「御方様が止めた」
「殿のお方ではない、御方様だ」
「城を守る御方様だ」
私は、胸の奥が奇妙に静かになるのを感じた。嬉しいのとも違う。恐ろしいのとも違う。
ただ、“立った”のだと思った。
黒坂家の奥に座るだけの者ではなく、この城と城下を預かる者として。
夜の風はまだ冷たかった。
だが、火の匂いはもう、終わりかけの炭の匂いに変わっていた。




