茶々視点外伝 茶々視点・①③⑥話・夜の風、火の匂い――城下のボヤ騒ぎ
その夜の風は、昼間とはまるで別物だった。
日が落ちた途端、琵琶湖から吹き上がる冷気が大津城の板戸を鳴らし、廊下の隅に置いた火鉢の熱まで薄めていく。私は政所から居間へ戻り、桜子が淹れた煎茶でようやく一息ついていた。
真琴様は上洛中。
城の夜は私が預かる。そう頭ではわかっていても、こうして静まり返った御殿に身を置くと、主の気配がないことがひどく広く感じられた。
お初は母上様のところへ顔を出しに行き、お江はとっくに眠っている頃だろう。
桜子と梅子は台所の片づけ、桃子は湯殿まわりの見回り。
私は今日届いた炭の帳面と、城下へ回した火鉢の注意書きを見比べていた。
火の扱いには気をつけよ。
薪と藁を近づけるな。
夜半は火桶の見回りを怠るな。
昼に城下を見て回ったばかりの私は、どうにもそこから目を離せずにいた。
町はまだ若い。
人も物も足りず、慣れぬ者が慣れぬやり方で冬を越そうとしている。
事故は、そういうところから起きる。
――起きる。
そう思ったその時だった。
どこか遠くで、鐘とも違う、木を打つ鋭い音がした。
ひとつ。
ふたつ。
間を空けず、みっつ。
火急を知らせる打ち鳴らしだと、身が先に覚えた。
私は座を蹴るように立ち上がった。
廊下の向こうでも、足音が一斉に走り出す。
「御方様!」
障子が開き、力丸が飛び込んでくる。顔色が変わっていた。
「城下、町人地の南寄りに火の手です!」
「大きいのですか」
「まだ大火ではありません。炭小屋からとのことですが、風が……」
その言葉と同時に、板戸が一度、どん、と鳴った。
風だ。湖からの強い夜風。火にとっては最悪の相手。
私は迷わず廊下へ出た。外気の冷たさと共に、鼻先を刺すような焦げた匂いがわずかに混じる。
遠く、城下の空が低く赤い。まだ小さい。だが、火は小さいうちが一番危うい。
皆が“まだ大丈夫”と思い込むからだ。
廊下の角では、家臣たちが二、三人固まっていた。
誰に命を仰ぐか、その一瞬で足が止まった顔をしている。真琴様がいない。
蒲生氏郷も今夜は外曲輪の見回りへ出ている。普段なら誰かの声が飛ぶ場面で、静寂だけが先に落ちた。
私はその真ん中へ歩み出た。
「聞きなさい」
自分でも驚くほど、声は低くまっすぐ出た。
「これは“城下の火”です。城内だけを守れば済む話ではありません。今から私が指図します。疑問はあと。まず動きなさい」
全員の視線がこちらへ揃った。
その瞬間、私は“迷ってはならない”と腹を括った。
「力丸、鐘と太鼓はまだ使いません。城全体を騒がせれば混乱が大きくなる。だが各詰所には伝えなさい。城門を閉じるな、出入りだけ厳しく整理せよ、と」
「はっ!」
「柳生の者を呼びなさい。町中の道を知る者、井戸の位置を知る者を前へ」
闇のどこから現れたのか、庭師姿だった男と奥女中姿の女がすでに廊下の柱影に膝をついていた。私はその顔を見て頷く。
「井戸水を汲む者を集めなさい。桶、柄杓、天秤棒、あるだけ出して南町へ送る。井戸の近い家から順に繋げて、水を止めないこと。水を運ぶ者には、道を塞がぬよう片側通行にさせるのです」
「承りました」
「佐々家から来ている手の早い者は?」
「五十、城下に待機しております」
「その半分を火元の周囲へ。火が移りそうな家の板塀と軒を落とさせなさい。家を守ろうとして町を焼くな。泣く者がいても、今は叱られて構いません」
その言葉に、一人の若侍が息を呑んだ。
家を壊す。口で言うのは簡単だが、住まう者には命に等しい。けれど、迷っている間に火は走る。
「女子供を避難させる者は、お初のところへ人をやって呼びなさい。女の泣き声は女が抑えるほうが早い。母上様には御殿から出ぬよう申し上げて。お江は絶対に外へ出してはなりません」
「はっ!」
「そして、門は閉じない」
私はもう一度言った。
「閉じれば、逃げたい者が城門に殺到する。出入りを整理しなさい。入る者、出る者、荷を運ぶ者――全部を分けて、道を空けるのです。黒坂家の兵が邪魔だったと後で言わせるな」
そこまで言った時、廊下の向こうから駆けてくる足音がした。
「茶々様!」
前田正虎だった。
正月の挨拶のあとも、父たる慶次の名代として城へ詰めていたらしい。
息を弾ませ、けれど顔は真剣そのものだ。
「火事と聞きました。何をすればよいですか」
私は一瞬だけ、年若いその顔を見た。
止めるべきか。だが今、走れる足は一つでも多いほうがいい。
「正虎殿、城下の南町へ先に行きなさい。井戸の位置がわかる者と共に、道を空けさせるのです。水桶の列を乱す者がいれば、前田家の名で叱りつけなさい。あなたは“前田家の若武者”として動くのです」
「はっ!」
「ただし、火に近づきすぎてはなりません。あなたの役目は斬ることではなく、人を動かすこと」
「承知しました!」
正虎はきびすを返し、そのまま走っていった。
その背を見て、お初がちょうど廊下の端へ現れた。髪も結い直さぬまま、すでに脇差を差している。
「姉上様、聞こえました。避難ですね?」
「そう。母上様の御殿へ先に一人つけて、そのあと南町へ。女子供を北へ流しなさい。泣く子は抱えてでも。火を見せるな」
「わかりました」
お初は短く返し、部屋へ飛び込むように消えた。
普段は口が先に立つくせに、こういう時の足の速さと理解の早さは助かる。
私は自分も外へ出るべく、袖をからげた。桜子が走って追いついてくる。
「御方様、どちらへ!」
「現場です」
「危のうございます!」
「だからこそ行きます。誰が責を負うのか見せねば、人は本気で動きません」
桜子は言い返しかけて、飲み込み、代わりに私の肩へ濃い羽織を掛けた。
桃子が小さな提灯を持って続き、梅子は濡らした手拭いを持ってきた。
女たちの動きももう“城の火急”の顔になっている。
大手へ向かう途中、私はもう一つ命じた。
「伝令を走らせなさい。蒲生氏郷にも、城下南町のボヤ、茶々が現場へ出る、と。あと、真虎殿が勝手に飛び出したとも」
「最後のは必要ございますか?」
私の側近侍女が眉をひそめる。
「必要です。後で利家殿に“預けた嫡男を焼いた”と言われたら困ります」
その一言で、緊迫した廊下にかすかな笑いが落ちた。
笑いは一瞬で消えたが、その一瞬だけでも、皆の肩から余計な力が抜けたのがわかった。
城門を出ると、夜気の中に火の匂いがはっきりと濃くなった。
南町の方角に、橙の明かりが低く揺れている。火柱と呼ぶにはまだ細い。だがその上を、風に煽られた火の粉が舞っていた。板塀、藁束、軒の乾いた木――どれか一つにでも飛べば、それで終わる。
もう、迷っている暇はない。
私は提灯の光を前へ押し出すように歩を早めた。
大津の夜の風が、頬を切るように吹きつける。
火の匂いは、もう鼻先だけではなく、喉の奥にまで入り込んできていた。




