茶々視点外伝 茶々視点・①②③話・婚礼の儀
大津城大手門をくぐった私は、そのまま輿に乗ったまま本丸御殿の玄関前へと移された。
夕刻の冷えた空気に、まだ新しい材木と土の匂いが混じる。
遠くで太鼓が一つ、控えめに鳴り、城内のざわめきが一瞬だけ引き締まったのがわかった。
――ここから先は、私個人の“嫁入り”ではない。黒坂家と織田家の名を背負う、ひとつの儀だ。
玄関前には黒坂家の家臣団が、烏帽子に大紋の正装で居並び、畳に額が触れるほど深く頭を下げていた。
仮祝言はすでに済ませ、安土の黒坂屋敷にも出入りしていた。
だから今さら、と言ってしまえばそれまでだ。けれど、この城で、この家臣たちの前で、きちんと“けじめ”を結ぶことが、黒坂家にとっても、そして私にとっても必要なのだと、輿の中で胸の奥が静かに納得していた。
襖が開かれ、私は玄関から広間へ通される。
磨かれた板の間、白く新しい障子、畳の青い香り。
歩くたびに衣擦れが微かに鳴り、それさえも広間の静けさに吸い込まれていく。
広間には黒坂家の重臣が座して揃い、目線は上げぬまま、しかし気配は鋭い。
上段の間では――やはり烏帽子大紋の正装をした真琴様が、背筋を正して待っていた。
私は上段の間の近くまで進み、ゆっくりと三つ指をつき、頭を下げる。
この一礼に、浅井の血も、織田の名も、茶々としての私も、すべてを畳に預けるような心持ちがした。
すると、巫女装束をまとった梅子と桃子がそっと近づき、私の手を取って上段へ導く。
指先が冷たい。
――緊張しているのは私だけではないのだ。
私は真琴様の隣へ座を移し、間髪入れずに三三九度の杯となった。
盃が差し出される。漆の艶が灯りを受け、赤黒く光る。
いつもなら、ほがらかに笑って軽口の一つも挟む真琴様が、このときばかりは口をきゅっと結び、真面目な顔で盃を受け、静かに酒を飲んだ。
喉仏がわずかに動くのが見える。
――ああ、この人もまた、背負っているのだ。城主として、織田の軍師として、そして私の夫として。
私も盃を受け取る。
酒の匂いが鼻をくすぐり、腹の底がじんと温まる気がした。
ひと息で飲み干すと、ほんのりとした苦みが舌に残り、それが不思議と心を落ち着かせた。
森力丸が一歩進み、よく通る声で告げる。
「これにて、黒坂家と織田家が結ばれましてございます」
その言葉に合わせるように、重臣たちが揃って声を出す。
「千秋万歳」
畳が震えるほどの響きではない。
だが、揃った声には確かな重みがあった。
“ここに、主君の正室が定まった”――その事実を、家臣たちが受け入れ、支えると誓った音に聞こえた。
真琴様はその瞬間、大きく息を吐いた。
「ふぅ〜緊張した。これで本当に夫婦だね。茶々、至らない大将を支えて欲しい」
肩から力が抜けたようなその声に、私の胸の奥も少しだけほどける。
私は背筋を正し、家臣たちを見渡して言った。
「はい、もちろんです。みな、良い機会です。私は黒坂家のかかさまとして殿を盛り立てます。困り事があれば遠慮なく私におっしゃって下さい。織田信長の姫である地位を、存分に使い解決してみせます」
言い切った瞬間、家臣たちの気配が一段引き締まったのがわかった。
――恐れではない。期待だ。
真琴様は苦笑して、いつもの調子を少しだけ取り戻す。
「はははははっ、そこは信長様頼りなんだ」
「真琴様、使える者はなんでも使うのですよ」
「はい、わかりました……みな、茶々は俺の名代。政にも関わって貰う。よいな」
「「「はっ」」」
重臣一同が頭を下げ、短く、迷いのない返事が返ってきた。
私はその音を聞きながら、胸の内で小さく息を整える。
――これで私は、ただの“嫁”ではない。
黒坂家の柱として、この城の中に立つのだ。
この後、祝宴が開かれ、大津城は夜更けまで灯りが消えることなく、盃と笑い声と楽の音が絶えることはなかった。




