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茶々視点外伝 茶々視点・⑨⑦話・雄琴温泉②

夕餉ののち、真琴様の船酔いもすっかり治まり、温い茶で指先まで色が戻ったころ、襖の向こうから宿の者が声をかけてきた。


「常陸様、湯の仕度が整いました。当宿自慢の庭を眺めつつ入る湯にて、日頃のお疲れを流していただければと存じます」


 私はすぐに柳生宗矩を見やる。


宗矩は短く一礼し、警護の配置は万端という合図で顎をわずかに引いた。


障子の外では足音が二、三。見張りの入れ替えまで抜かりない。


 ところが当の真琴様は、私たちの心配など露ほども気に留めぬ顔で笑う。


「冷えたから、先に湯に入ってくるよ。――って、先に入りたいなら譲るけど?」


「一家の主を差し置いて入れますか?」


 私がそう返すと、真琴様は肩をすくめた。


「だよね、そう返ってくると思った。……でも本当に冷えて痛むところはない? 無理はしないでね。冷えて体痛むとかなら先に入って。主とか関係なしに何より優先するのは弱っている人だからね」


「あなた、私たちを何歳だと思っているの。年寄り扱いなんて一万年早いわ。真琴より年下よ?」


 お初がぴしゃり。


真琴様は


「冷えと年は別問題だろうに」


と小声でぶつぶつ言いながらも、羽織を引っかけて廊下へ出ていった。


「まったく……母上様がおいでなら順番を譲るのも礼でしょうけれどね、姉上様」


 とお初が私にからむ――そのとき。


「湯の順番ってなに? マコと一緒に入る~!」


「お江、待ちなさい!」


 私の制止も聞かず、お江は嬉々として走り出す。


私は思わず桜子に目を向けたが、桜子と梅子は息ぴったりに薄絹の包みを掲げていた。


「湯あみ、持ってきておいてよかったわ」


「ですです、よかったのです、姉様」


 二人とも、そのまま湯殿の方へついと滑っていく。


「桃子、二人を止めて。お江もよ」


「え? お方様、御主人様のお背中をお流しするのは、私たちの日常です」


「……あなたたち、真琴様と“なにを”しているの?」


 お初が低い声で問うと、桃子は瞬きを三度。


「なにを、とは……? 御主人様はなにもなさいませんが?」


「お初、その問いは桃子に酷よ。ともかく、お江を――」


「お方様が湯殿に行かれるなら、こちらを。御主人様は“男と女が同じ湯に入るときは男は褌、女は湯あみ”と定め、黒坂家の法度にすると仰せです。一糸まとわぬ姿での湯入りは、固くご禁制に」


「湯あみ……?」


「はい。肌を隠し、礼を守るための衣でございます」


「……あの人、また余計な“法度”を思いついて。――いえ、今回は悪くないかも」


 私は桃子の差し出す“湯あみ”を受け取った。


薄手の木綿に細い紐が二本。


軽いのに、手の中でささやく気配がある。


これなら、同じ湯でも恥ずかしさはひとまず救われる。


お初は半眼でそれを見つめ、ぼそり。


「“一糸まとわぬ禁止”って、つまり真琴は……いや、考えるのはやめましょう」


 廊下に出ると、床板は磨き上げられ、灯明が庭の雪洞と呼応して揺れている。


角をひとつ曲がるごとに宗矩の配下が影のように控え、無言で道を示した。湯殿の戸を開けると、ほわり、と白い湯気が押し寄せ、檜の香りが鼻先をくすぐる。外の庭には石灯籠、苔むした手水鉢、そして黒松の影。湯面に映る灯りが、冬の月のようにふるえていた。


「――湯あみ、着付けますね」


 桜子が手早く紐を結び、梅子が裾を整え、桃子が湯桶を温める。


侍女三人の呼吸は、湯気よりもあたたかい。


 私は深く息を吸い、湯殿の戸口で一度だけ背筋を伸ばした。


黒坂家の“妙な法度”とやらも、今夜ばかりは悪くない。だ


って――同じ湯けむりの下、堂々と、肩まで温まっていられるのだから。


「行きましょう。長湯はしないでね、お江」


「はぁい! マコの背中、競争で洗う~!」


「競うな。丁寧に、だ」


 思わず笑いがこぼれる。


北風の夜に、湯気は天井へ、笑いは心へ。


私は湯あみの紐をそっと確かめ、湯の縁に足を添えた。

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