茶々視点外伝 茶々視点・⑧③話・真琴疲労困憊
真琴様がお戻りになったのは、門灯が風に揺れて影を長く落とす頃だった。
「お帰りなさいませ、真琴様」
「ただいま~。ふぅ……今日はさすがに疲れたよ」
私は膝をついて迎え、すぐに段取りを告げる。
「梅子が湯の仕度を整えております。すぐお入りになりますか?」
「うん、先に汗を流してから、ゆっくりしたい」
湯殿へ向かわれる背に、湯気の白さが追いかけていく。ほどなく、木桶の鳴る音と、ほっと漏れる息が襖越しに届いた。湯上がりの真琴様が居間へ戻られると、囲炉裏の炭がぱち、と小さくはぜる。桜子が淹れた甘酒から湯気が立ち、ふわりと麹の甘さが広がった。
「いや~、年賀の挨拶でいろんな人に声をかけられてね。人と会いすぎて、名前と顔が踊り念仏。頭の中で評定が開かれてる」
軽口を交えながらも、目の下にはかすかな影。私は扇を伏せて笑みを返す。
「その手合いは力丸にお任せあれ、でございます。義父上様の小姓として太刀持ちを務めていた男、織田家中の面々は帳面よりも確かに覚えております」
「なるほど、その手があったか。困ったら“歩く人名録”に聞こう。そうそう、徳川家康とも対面したよ。俺の知る歴史だと、征夷大将軍になって日の本に二百六十年の平和をもたらすっていう大人物だけど……今日の印象は、思ったより静かというか、力を溜めてる感じかな」
「以前うかがったお話ですね。三河守殿はしたたかな御仁。油断は禁物にございます。義父上様の厳命で、奥方と御子を手にかけてもなお従う男……心の奥底に波を隠す術をお持ちでしょう。明智の謀反にも、匂いだけは漂っておりますし」
「うん。そこは気をつけるよ」
甘酒の椀を空にすると、そのまま畳へ横になられた。私は座を移し、そっと頭を膝に迎える。黒髪がするりと掛かり、湯上がりの温かさが伝わってきた。
「真琴様、お疲れなら、ここでお休みにならずに寝所へ参りましょう。桃子、支度は?」
次の間から、桃子の元気な声。
「お方様、布団はもう敷いてありますです。寒がりのご主人様のため、湯の入った瓶でぬくぬくに温めてありますなのです」
「ご苦労さま。――ほら、温かな布団が待っておりますよ」
「ん……大丈夫、ちょっとだけ……」
そう言いながら、寝息がふわり。早い。さすがは大名級の寝落ち――いや、私の膝は枕ではなく、橋頭堡なのですが。
「……仕方ありませんね」
私は膝の下の温もりを名残惜しみつつ、桃子と二人でそっと抱き起こす。見た目は細いのに、意外と重い。武具一式よりは軽い、と自分に言い聞かせ、足音を立てぬよう寝所へ運ぶ。
布団に横たえると、湯の瓶であたためられた綿の柔らかさが、ふんわりと真琴様を包んだ。襟元を整え、額にかかった前髪を指先で払う。眠り顔は、戦や政のときの鋭さが嘘のように幼い。私は火消し蓋をそっと掛け、囲炉裏の炭をひとつ、ふたつ、形よく寄せた。
「――おやすみなさいませ、真琴様。明日も、私が段取りいたします」
障子を閉めると、冬の夜気がかすかに鳴る。私は灯芯を少しだけ短くして、部屋の明るさを落とした。外では見回りの足音。内では、穏やかな寝息。大津への道も、織田の天下も、そして黒坂の家も――この静けさを守るための営みなのだと、胸の内でひとつ柏手を打った。




