茶々視点外伝 茶々視点・⑧⓪話・大晦日
大晦日。
この夜は黒坂家屋敷で年越しを迎えることとなり、珍しく息抜きだと母上様も同行なさった。
庭には薄く霜が降り、松の枝に掛けた行灯が障子に柔らかな光を落としている。
広間の畳はひんやりとしていたが、長火鉢の赤がゆっくりと部屋を温め、炭のはぜる音が小さく弾けた。
「婿殿、なにか変わった物を食すとお江から聞きましたが?」
お江と二人、同じ表情でにこにこと言うので、私は思わず笑いを含んだため息をつく。
「母上様、珍しくお越しくださったのは、そのためで?」
少し恥ずかしかったが、真琴様にとって母上様は義母に当たる。
真琴様は肩の力を抜いた声音で、
「大歓迎ですよ」
と、いつもと変わらず答えられた。
「まぁ仕方ないわよね。織田家家中一の料理上手なんて言われている阿呆だし」
「これ、お初。義兄をそのように申すものではありません」
私がたしなめると、真琴様は気にしたふうもなく、
「ははは、気にしてないよ。……ただ、みんなの期待は裏切るかも。普通に蕎麦なんだよ。年越しそば。大みそかに長い“もの”を食べて、なが〜く生きられるよう長寿を祈るって言われていてね」
「え〜マコ〜そばなの〜? もさもさしたやつ?」
お江が残念そうに口を尖らせたところへ、廊下から桜子が姿を見せ、にっこりとほほえむ。
「失礼いたします。ご主人様、ご用意できましたのでお運びします。お江様、ご主人様が考案なされた蕎麦は美味にございますよ」
「桜子、用意よろしく」
「はい、ご主人様」
やがて長火鉢の上に鉄鍋が据えられ、ふつふつと立つ湯気とともに醤油の香りがふわりと広がった。
真琴様が黒坂家の常備調味料と定めた醤油――その香りは、冬の空気をたちまち温める。
漆の艶やかな大椀が載った膳が人数分運び込まれ、膝行で音もなく並ぶ。
桜子が柄杓をとると、長火鉢で煮ていた熱々の汁をとろりと注いだ。
注がれるたび、椀の面に細かな湯気が花のように咲き、障子が白く曇る。
「マコ〜、これが蕎麦? 野菜の汁をかけるの?」
「うん。蕎麦は小麦粉を二割ほど混ぜて薄く延ばし、細く切って一度茹でてあるから、のどごしがいいはずだよ。そこへ根菜と干し椎茸、葱などをたっぷり入れた“けんちん汁”をかけて食べる。俺の郷土名物、けんちん蕎麦。食べてみて」
箸先で麺をそっとすくい上げると、薄い湯気が頬を撫で、醤油と椎茸の出汁に、根菜の甘やかな香りが重なる。
口に運べば、するりと喉を滑り落ち、遅れて野菜の旨みが舌に広がった。
「あら……本当に、のどごしと申すのでしょうか。つるりと入りますね。それに、この野菜の旨みが出た汁が蕎麦に絡み、たいそう美味」
「マコ〜、おいしい!」
「……くっ。やはり織田家一の名は……美味い」
「お初。美味いときは素直に褒めなさい」
「しかし姉上様……」
「いいから、温かいうちに召し上がって。いくらでも用意がありますから。桜子たちも遠慮しないで」
下座には桜子・梅子・桃子の膳も運ばれ、侍女たちが手際よく給仕を分担する。
三人にも同じ椀が置かれると、ほほえみ合って箸をとった。
「ふふ。黒坂家では、侍女が一緒に食事をするという噂は本当なのね」
母上様が三人に目をやられるので、私は頷く。
「この三人は、真琴様がこの屋敷を賜った折から仕えている者たち。真琴様は妹のように可愛がっておられます。先ほど給仕していた侍女たちは、くノ一にて――普段は近くで、あのように」
「なるほど。あれが巷で噂の黒坂家の忍び衆」
「なんだか知らないうちに忍びの頭みたいになってるけど、俺……陰陽師で剣術家なんだけどな……」
「マコ〜、そんなことより、おかわり」
お江は遠慮会釈なく椀を差し出す。私は扇でその額を軽く小突いた。
ぱしり、と小気味よい音がして、座に笑いがひろがる。
湯気は絶えず立ちのぼり、椀の底からは、里芋のほろりと崩れる気配。
窓の外では風が竹を鳴らし、内では炭が小さくはぜる。
戦の世であっても、こうして一椀の温かさを分け合えば、人の心はほどけるのだ――私は椀を抱え、胸のうちで静かにそう確かめた。
年は越えようとしている。ながい“もの”の願いどおり、ながく、ながく。みなで生きるために。
皆で湯気を分け合いながら椀を空にした頃、庭の行灯に風が鳴り、火が小さく揺れた。
桜子が気を利かせて柚子皮の細切りを載せた徳利を持ってきて、私は二杯目の蕎麦にひとかけ落とす。香りが立つ。
母上様が目を細め、
「これが“薬味”というものね」
と面白そうに頷かれた。
「婿殿、これは腹持ちもよく、体も温まりますね」
「うん。冷える夜は、とくに根菜の滋味が効くんですよ」
お江は三杯目を所望し、お初は
「そんなに食べては太るわよ」
と言いながら自分の椀をそっと桜子に差し出し、山の幸を少しだけ足してもらっている。
口より先に身体が正直だ。私は扇でお初の肩をつつき、二人で小さく笑った。
食後、長火鉢の火を落とし、皆で縁側に出る。
湖からの風は刺すようだが、空は澄み、星が近い。
真琴様が肩衣を私の肩にそっと掛け、
「風邪ひかないように」
と小声で囁かれた。やさしい重みが胸の奥に沈む。
「このあと、寺で鐘を突くらしいよ。百八……とまではいかないけれど、幾度か。人の煩いを払う、という作法なんだ」
母上様が首を傾げる。
真琴様は言葉を選びながら、未来の風習を“古き良き作法の別伝”のように説明する。
それを聞きながら、私は思う。
未来を知る夫は、いつも私たちが呑み込みやすい形に言い換えてくれる。
押しつけはしない。ただ、灯を置いていく。
「だったら、まず家の煩いから払いましょうか」
私は扇を閉じ、皆のほうへ向き直る。
「来る年の“ほう・れん・そう”。――報告、連絡、相談。黒坂家の法度といたします」
森力丸が「はっ」と膝を正し、桜子たちも面白そうに復唱する。
お江は「ほうれんそう……おひたし?」
と首を捻り、お初が額を押さえた。笑いが走り、寒気が少し和らいだ。
やがて門のほうで灯が揺れ、前田慶次が面を覗かせる。
「準備は整ったぞ、殿。炊き出し用の鍋も、寺社に運ぶ餅も、夜明け前に出せる」
「慶次、ありがとう。酒は控えめで頼むよ」
「そこが一番難題でしてな」
母上様がくすりと笑う。
「任せておきなさい、慶次殿。今宵は茶々の顔を立てるのですよ」
「はは、では御方様の顔に免じて」
庭の向こう、町のほうからかすかな鐘の音が流れ込んだ。
誰かが初めの一打を試しているのだろう。私は思わず手を合わせる。
父上様、祖父様――。戦の世を渡る私たちを、どうか見守ってください。
黒坂家を、これから育てます。私が、この家の“かかさま”として。
「茶々」
呼ばれて振り向くと、真琴様が小さな火入れを手渡してくださった。
南蛮渡りの工夫らしく、掌にすっぽり収まる鉄の器に炭が仕込んである。
指先からじんわりと温が広がる。
「ありがとう、真琴様」
「来年は、日の出を琵琶の水面で見よう。皆で。……それと、大津の台所に“掘りごたつ”を入れたい。あれなら皆が温かく食べられるから」
「ほうれんそうの次は、こたつ、ですか」
「うん。あったかいのは正義だから」
私が吹き出すと、母上様も肩を震わせた。
笑いが重なるたび、家の輪郭が濃くなっていく気がする。
やがて、二の鐘、三の鐘。静けさの合間合間に、規則正しい音が沁みてくる。
屋敷の内外で働く者たちも手を止め、頭を垂れた。
寒夜の空気は透きとおり、吐く息が白くほどける。
「行こうか」
真琴様の声にうなずき、私たちは外套をまとって門を出る。
配る餅は桜子たちが荷駄に整えた。
鍋は湯気を洩らし、鶏のうまみが路地に香る。
慶次が先を歩き、柳生宗矩が後ろを固める。
お初は口をきゅっと結び、お江は袖で鼻先をこすりながらも足取り軽い。
鐘の音がひときわ大きくなったとき、私は小さく息を吸い、胸のうちでそっと唱える。
――今年は、黒坂家の年。民のため、家のため、そして夫のため。私は“報告・連絡・相談”の先頭に立ち、灯を絶やさぬ。
境内の灯が見えた。
雪こそ積もらぬが、霜が玉砂利を銀にしている。
私は一歩、また一歩と進む。
隣で真琴様が、ほんの少しだけ私の袖口を持った。
ほどけないように、と子どものように。
百八つには届かぬ鐘の音でも、今夜は十分だった。
響きのたびに、胸に残っていた澱が薄れていく。
新しい年が、ほんの少しだけ、近くなる。
「茶々。あける前に、言っておきたい」
「はい?」
「来年も――よろしく」
「ええ。来年も、再来年も。その先もずっと」
鐘が、ひとつ、冬空に解けた。




