茶々視点外伝 茶々視点・⑥⑤話・大津城視察・安宅船
安宅船での大津城視察が決まった翌朝、黒坂家からの使者が「さっそく本日」と告げに来た。
「まあ、突然なこと。けれど琵琶湖の風は気まぐれ。冬も近いゆえ、風を読むのが難しいのでしょう。――茶々、支度は?」
「母上様、私たちはいつでも」
「では、黒坂様の家臣とはぐれぬよう気をつけて行ってらっしゃい」
見送られて黒坂家の屋敷へ向かうと、中庭に家臣らが勢ぞろいして私たちを待っていた。
「マコ~、お待たせ~」
お江がいつもの調子で真琴様に抱きつくと、真琴様はひょいとお江を肩車になさって、
「さて、行きますか」
と笑った。
安土城の麓にある湊から、私たちは安宅船に乗り込む。船板に染みた松脂と焚き継いだ火の匂いが鼻をかすめ、薄い冬陽の下、湖面は鉛色にさざめいていた。真琴様は「寒いから」と船室に入り、お江ははしゃいで廊を駆け回る。私は高欄に出て、ひととき小谷の方角を見やり、それから進路である大津の方へと視線を移した。風が次第に強まり、頬が刺すように冷たくなる。
「お江、お初、冷えてきました。中に入りなさい」
「は~い」
お江が甲板から駆け下り、お初がそれを追う。私も続いて船室に入ると――
真琴様が桶を抱え、顔色は紙のように青ざめていた。
「……真琴、船酔い?」
「マコ~、おえぇぇぇ、する?」
お初とお江が近づくや、真琴様は堪えきれず吐きはじめた。二人が思わず一歩退いた代わりに、私は真琴様の背へ回って手のひらでゆっくりさする。
「真琴様、大丈夫ですか。――力丸、桶を替えなさい。お初は水を。お江、戸を少し開けて外の風を入れて」
次々に声を飛ばすと、皆、息を合わせるように動いてくれる。お初が水を運んでくるのと入れ替わるように、若武者の真田信繁が小さな丸薬を取り出した。
「御大将、真田家に伝わる腹の薬。これを服せば、少しは楽になりましょう」
私は思わず森力丸の顔を見たが、力丸は「大丈夫」と目で返す。黒坂家家臣となって日は浅い信繁への、私なりの確認だった。真琴様はためらわず丸薬を口に含み、水で流し込む。
やがて吐き気はいくぶん静まり、彼の肩の力が抜けた。
「真琴様、横になられては?」
「うん、そうさせてもらう」
ご自身の腕を枕にしようとするので、私はそっと真琴様の頭を膝へ導いた。
「――えっ、茶々の膝枕?」
「祝言こそまだですが、夫婦です。このくらい当然でしょう?」
「う、うん……。茶々の匂い、落ち着く……」
吐き疲れたのだろう、まぶたが重く降り、呼吸が浅く整ってゆく。私は指先で汗を拭い、前髪を耳へ払った。
「すけべったらしい顔して寝てる」
お初がぼそりとこぼす。
「お初、言葉を慎みなさい。仮にも義兄となるお方ですよ」
「……はい」
お初は肩をすくめ、しゅんと俯いた。開け放たれた戸口から、冷たい湖の風がひと筋、私の頬と真琴様の髪を撫でて通り過ぎた。




