茶々視点外伝 茶々視点・④⑧話・黒坂真琴と松の出会い
静まり返った場に、前田慶次の大笑いが響いた。
「ぬははははははっ、そりゃあめでたい話だな、大将!」
私は黒坂様がどう返すのかと顔をじっと見つめた。
けれども、黒坂様は沈黙のまま……。
「慶次、声が五月蠅い。筒抜けですよ」
「げっ、松。何しに来た?」
慶次が座を下げ、すっと距離を取る。
廊下では前田松が畳に手をつき、深々と頭を下げていた。
「失礼いたします。前田能登守利家が妻、松にございます。本日、変わった匂いで通りが騒がしく、これを鎮めるため――大変失礼とは存じましたが――台所方を覗かせていただきました」
屋敷に来たとき騒がしかった外の者達は臭いが気になったのだろう。
「御大将、案内はそれがしがいたしました」
森力丸が恭しく一歩進み出て、許可の下での来訪であったと添える。
「前田の松様、キターーーーーーーーーーー」
黒坂様が思わずはしゃいだ声を洩らし、柳生宗矩が「ごほん」と咳払いでたしなめる。
場が整うのに合わせ、黒坂様はすぐ姿勢を正し、丁重に名乗った。
「失礼いたしました。黒坂常陸と申します。以後、お見知りおきを」
「慶次の様子も気になりまして、勝手に上がらせていただきました。まことに申し訳ございません」
「お気になさらず」
松は静かに息を整え、ことの次第を続けた。
「前田家は実は隣屋敷でして、本日はいつもよりいっそう賑やかでなにか騒ぎが起きているのではと心配になりまして・・・・・・」
「――あっ、豚を仕留めたから、あの断末魔か。……それに鶏も多いから、朝は迷惑でしたよね?」
「とんでもないことでございます。前田家はもとは荒子という田舎にて百姓どもと共に野良仕事をいたしておりました。鶏は飼い慣れておりますし、かえってお気遣いくださり、卵や肉のお裾分けまで頂戴いたしまして」
黒坂様が視線だけで桜子に問うと、桜子は小さく会釈した。
主の命を待たずともよい範囲で、うまく取り計らっていたのだろう――黒坂様が、どれほど桜子を信じ任せているかが、ささいな合図で伝わる。
胸の内に、言葉にならぬ靄がほんのりとかかった。
「松様も、よろしければカレーライスを。まだあるよね、桜子?」
「はい、御主人様。初めてお作りしましたゆえ加減がわからず、多く作ってしまいましたので」
「だったら松様に急いでお願い。みんなもおかわりして食べてよ」
桜子が梅子へ目で合図し、膳が運ばれてくる。
「梅子ちゃん、私におかわり~」
お江が場を和ませるかのように言う。
桃子が座を整え、松は広間の端正な位置に座り直した。
私へは深い会釈だけで、例の件には触れない――その分別が、かえって頼もしい。
「どうぞ、熱いうちに」
すすめられた南蛮薬膳の香りが、するすると鼻梁を抜ける。
「まあ……なんと複雑なお味。とても美味しゅうございます。これは手が止まりませぬ。食べれば食べるほど、食欲が増してゆきますわ」
「松よ、少しは遠慮せい」
慶次が茶化すと、松は横目でぴしゃりと頬を張るような鋭さを一瞬だけ見せ、それからすぐ黒坂様へと向き直り、にっこりと微笑んだ。
そのまま、器の底が見えるまで、きれいに平らげた。




