茶々視点外伝 茶々視点・④⑥話・茶々と前田松
居間に私は前田利家の妻・松をお呼びした。
「急なお呼び出し――夫が、なにか失礼でもいたしましたでしょうか」
心配の色を隠せぬ面持ちで、松は静かに座に着かれた。
炉の湯気がほの白く揺れ、畳に春の光が薄く落ちる。
「そのようなことはございません。今日は別のご用件にて。――松は、黒坂様をご存じですか?」
「黒坂様……常陸守様でございますね。もちろん名はうかがっております。夫・利家は、あのお方は織田家を必ず日本一へ導く才覚の持ち主と評しておりまして……甥を与力に、と上様より仰せつかった折は、たいそう喜んでおりました。何でも、知のみならず武芸にも達者とか。それと――実は、屋敷が隣同士でして、毎日のように姫様方のお声が聞こえてまいりますのに、ご挨拶の折を決めあぐねておりました」
私たちの稽古の声――確かに、遠慮もおありだったろう。
「そうでしたか……」
「常陸様に、なにかおありで?」
「松に協力をお願いしたく。黒坂様は今や破竹の勢いで、織田家にまっすぐ生え出た一本の竹。ゆえに、邪魔する者、妬む者も多うございましょう。そうした輩が近づく折、黒坂家をそれとなく見守っていただきたいのです。同じく伯父上に可愛がられる前田家が昵懇であれば、無用の手出しは鈍りましょう」
「夫がそれを案じ、すでに慶次には申しつけております。あの子が可愛がる忍びが、見張りについております」
「……黒坂家は忍びが多うございますからね」
侍女が点てた薄茶と、小ぶりの干菓子が松様の前に置かれた。私は茶碗の縁にたつ泡の細やかさを見やりながら、廊下の足音に耳を澄ます。母上の歩み――私は正面の座から、自然に脇へと身を引いた。
松様が首を傾げられた刹那、襖がすっと開く。
「あら、松。久しゅうございますね」
「お市様。ご機嫌麗しゅうございます」
母上は上座に進み、やわらかく座られる。
「茶々、あなたが松を呼んだのですか?」
「はい。池坊のお師匠様が、『黒坂様を支えるに最もふさわしいお方』と仰せでして」
「なるほど、その話ね。私も頼もうと思っていたの。――松、あなたは甥御を黒坂家の預かりにして、うすうす感じておられるでしょうが、黒坂様は他の武将とは明らかに違います。しかも、後ろ盾となる親族がない。兄上はそれを案じて、早々に諸将を与力に付けましたが、それだけでは足りません。前田家は、甥御だけでなく、あなた自身も黒坂家を裏から支えてあげてほしいのです」
「夫・利家が男惚れするお方――承知いたしました。私のみならず、前田家一統、そのお役目お引き受けいたします」
「それはよかった。これで、茶々が嫁いでも安心ね」
「茶々姫様が……ご縁談まで」
松は驚き、私に視線を返される。その目は、どこか温かい。
「まだ、決まってはおりませんけれど」
「慶次は黒坂家のこと、まるで口にいたしませんので」
「軽い男に見えて、案外真面目なのですね」
「義に堅い、と申しますか。頑固なところの強い子でして」
松様の瞳に、一瞬、昔日の翳りがよぎる。前田慶次が一度、家を辞した――と伝え聞く件が脳裏をかすめた。
「松、私たちには遠慮なさらず、一度、黒坂様にお目通りなさいませ。あのお方は、とても気さく。きっと喜んでお迎えくださいます」
「そうでございますか。では、明日にでも伺ってみましょう」
「今日の用は済みました。もう下がってもよろしいですよ。――ああ、その菓子を包んで差し上げて。幼い姫子がおられたはず。土産になさると良い」
母上が気を利かせ、侍女に包みを持たせて送り出す。襖が静かに閉まると、母上は私に向き直り、ふっと目を細められた。
「茶々。前田の松を黒坂様の守りに据える――よく考えましたね。よい人選だと思いますよ」
私は深く一礼した。春の風が、庭の若葉を渡って、畳の香に溶けた。心の内で、一本の松がすっと立ち、揺るぎなく黒坂家の背を支える姿が見えた気がした。




