茶々視点外伝 茶々視点・③⑧話・黒坂家の風呂事情
饗応の翌日。
黒坂様はさすがにお疲れだろう――そう思って屋敷へ向かうのをためらっていたのに、お江は朝餉を終えるや、さっと身支度を整え、
「マコの屋敷に行ってきます~」
と、風のように出ていってしまった。お初もそれを追う。
私は遅れて出立する。もし黒坂様の容体が優れなければ、早めに二人を切り上げさせねば――そう考えながら。
ところが着いてみれば、黒坂様はいつもどおり。お初やお江と庭で笑い合い、疲れの影はどこへやら。
「黒坂様、お疲れはございませんか?」
「昨日ね、帰って風呂入って“揉んでもらって”、すっきりだよ」
黒坂家の風呂は、引っ越し早々に造り替えたという大釜の湯。蒸し風呂とは違い、温い湯に身を沈めるたび、体の芯からほどけていく――あの不思議な心地よさ。
この屋敷では、御主人が入ったのち侍女・家臣も順に入るのを許されているせいか、桜子三姉妹の身なりは、どこぞの姫と見紛うほど整っている。
今日も、三人の髪は見事に艶めいていた。
縁側に腰をおろすと、桜子が香り高い煎茶を運んでくる。
私の前にそっと置いて立ち上がる拍子、黒髪がさらりと揺れた。
「あなたの髪、綺麗ね」
「と、とんでもございません。茶々姫様に比べれば、私など……」
「過ぎた謙遜は、かえって嫌味よ」
「い、いえ本当に……私は姫様の足元にも」
「はいはい、わかったわ。それより、何か手入れしているの?」
「……御主人様が生活の道具一式を揃えてくださいまして。椿油を沁み込ませた“つげ櫛”がございまして、それを」
「――大名の姫並みの扱いね」
「御主人様いわく、『働き相応』とのことにて……ありがたい御方です」
「そう……」
「それとお風呂も、“一日一度は湯に浸かれ”と。『温もりは病を遠ざけ、肌にも良い』と仰せで……こればかりは御命でございますゆえ、お叱りなきよう」
「責めてはいないわ。家人は主の命に従うもの。黒坂様がそう仰るなら、それに従いなさい」
「はい」
(私、そんなに厳しい言い方をしたかしら……)
湯気のようにやわらかな茶の香を啜りつつ庭を眺めていると、
「今井屋の使いでござ~い」
裏木戸のほうから声。桃子が応対している。
「雄琴の湯を運んできた次第で」
「ああ、それならこちらの“風呂用の樽”に入れておいてください、なのです」
――湯を“運ぶ”? 私は裏へ回り、覗く。大きな樽から、いくつもの瓶へと“水”が移されていく。
「おっ、なんでぇ、姫様。裏に用かい?」
前田慶次がひょいと顔を出す。
「湯を運ぶと聞こえたので、気になって」
「ああ、うちの大将が今井屋を使って“運び湯”してもらってるのさ。時期で場所は違うが、温泉を仕入れて大釜で温めるって寸法よ。当たりの湯だと肌はつるつる、芯まで温まる。姫様方も浸かっていきなせぇ」
「慶次、慶次はどこ行った?」
「おっと――大将に働かされる前に出かけねぇと」
慶次は裏木戸から風のように消え、代わりに黒坂様が現れた。
「あれ、茶々? どうしたの、こんなところで」
「“湯を運ぶ”と聞いたので」
「ああ、時々ね。運送費は払ってるけど」
「そこらの水、ということは?」
「だからこそ“信用できる今井屋”を使うんだよ。温泉は匂いでわかるし、ものによっては色もある。“湯の花”って成分が浮いたりね」
「……昨日、奥州の御三方にも温泉の話をしておられましたね」
「ははは。あれくらい、温泉が好きなんだよ」
「黒坂様は、伯父上様より“織田家領内勝手自由”のお許しを得ているはず。美濃にも湯はありますし、確か筑前が預かる姫路の近くにも良い湯があると聞きますが?」
「美濃――岐阜のほうなら“下呂温泉”だね。姫路の近くなら“有馬の湯”。……行きたいけど、安土を留守にするのはね」
「なにか、お役目が?」
「饗応は終わったけど――ほら、三人(茶々・お初・お江)の剣、見ないと」
「私たちを……気にかけてくださっているの?」
「そりゃ、ね。いちおう師匠だし。責任はある。区切りがついたら……雄琴の湯くらいなら、行くかも」
――私たちを放っておけない? 私たちに“気”がある――?
きゅん、と胸の奥で小さく電が走った。
春先の風よりやわらかく、けれど確かに心臓をつまむような痛み。私は湯の香にまぎれてしまいそうなその鼓動を、そっと押さえた。




