茶々視点外伝 茶々視点・②④話・伯父上への反発
安土城の回廊は、冬の匂いがする。庭の砂をかすめる風が、どこか冷たく乾いていた。私は母上様の御居室へ向かう途中、襖の向こうに伯父上の声を聞いた。
「年明け、都で馬揃えを行う。――常陸も連れてゆこうと考えておる」
「兄上様、あの方を派手な場へお連れ出しなさるのは、まだ早うございましょう。それに……あの御方は“帰りたい”とお考えなのでは? 人前にお出しするは――」
(帰りたい? どこへ……常陸の鹿島?)
私が思わず息を呑んだ気配を、伯父上は見逃さなかった。
「誰か、そこにおるのか」
観念して襖の影から進み出る。御座敷の中央に膝をつき、正座し、深く頭を垂れた。
「茶々、盗み聞きなどはしたないことですよ」
母上様の静かな叱責に、私は額を畳に近づける。
「申し訳ございません。通りかかりました折、黒坂様のお話が耳に入りまして……。無礼をお許しくださいませ」
伯父上は扇を持つ手をゆるりと上げ、口の端だけで笑った。
「なんじゃ、茶々は常陸が気になるのか」
「興味……と申しますか。剣の師にございますゆえ、心に留めております」
「そうか、そうか」
不敵な笑みが、しばし消えない。胸の奥がむずがゆい。
「伯父上様。黒坂様を安土からお連れ出しになれば、私どもは稽古が叶いませぬ」
「ふっ、そうか」
織田信長――この国の主は、にやりと笑って私を見る。
「では、その鍛えた剣で、儂の首でも取りに来るか?」
「兄上様、冗談が過ぎまする。そのようなこと、私は教えておりません」
母上様の声が少しだけ荒くなる。伯父上は扇をぱちりと閉じ、肩を竦めた。
「戯れ言よ。許せ」
私は視線を逸らさず、胸の内を言葉に変えた。
「……私は、あなた様を父上――長政様の仇と見なしております。けれど、それはこの戦国の理。恨みはあれど、首を取ろうなどとは考えませぬ」
伯父上の目が、ふっと細まる。
「その真っ直ぐな目、長政にそっくりよのう……市」
母上様は小さくうなだれ、言葉なく頷かれた。伏せた睫の陰に、うすい翳りが落ちる。
私は、いま言うべきことを言うと決めた。
「いずれにせよ、黒坂様を表舞台に立たせるのは時期尚早に存じます。せめて黒坂家中の守りが整うまでは、武将として扱うのはお控えいただきとうございます」
母上様の声音がきりりと締まる。伯父上は短くため息をつき、手を払った。
「わかった、わかった。――この度の馬揃えに常陸は連れていかぬ。安土留守居の役を与える。それでよかろう」
言い置くや、伯父上は踵を返して御座敷を去った。戸の合わさる音が、静けさを残す。
二人きりになると、私は堪えきれず問う。
「……黒坂様は、国に戻るおつもりゆえ、織田家の客分でおられるのですか」
母上様は、かすかに首を横に振られた。
「少し違います。ただ、あの方は――私たちと“同じ戦の世”を生きる者ではございません。いつか、ご本人の口から聞く日もありましょう。けれど今は、他言無用。そして、そのことを黒坂様にお尋ねなさるのも、お控えなさい。茶々はこれまでどおり、あの方に接するのです」
それでおしまい、と言わんばかりに、母上様は立ち上がり、父上の位牌の前へ移られた。香が焚かれ、細い煙がまっすぐにのぼる。掌を合わせる母上様の横顔は静かで、どこか遠い。
私はしばし跪いたまま、胸のざわめきを落ち着ける。やがて辞儀して御座敷を下がり、廊下に出る。
庭へ目を遣ると、灰色の空から、ふいに雪が舞い降りはじめていた。白いものがひとひら、またひとひら、苔むした石の上に淡く溶ける。
――常陸は“帰りたい”という。けれど、どこへ。何処から。
問いは増えるばかりだ。それでも、いまは剣を取り、日々を重ねるほかない。
雪の気配を吸い込んで、私は歩を返した。




