茶々視点外伝 茶々視点・⑩話・武士らしからぬ男
私たちは、明智の残党が本丸に忍び込んだため、部屋から出ることを控えるよう母上様から命じられていた。
気がかりなのは、黒坂様と森力丸のことだ。
雨がしとしとと降り続く庭を、ぼんやりと眺めていると、戸が静かに開き、母上様が部屋に入ってこられた。
障子の向こうから差し込む薄暗い光が、母上様の穏やかな顔を柔らかく照らしていた。
「茶々、どうしたの? そんなに窓辺に立っていて、寒くはないのですか?」
母上様の声は、いつものように優しく、しかしどこか心配げだった。
私はふと我に返り、微笑みを浮かべて答えた。
「はい、この雨が、熱くなった心を冷やしてくれるようで……。なんだか、落ち着きます」
「ふふ、そうですか? でも、風邪を引かぬようにね。さて、気になっているだろうから話しておきます。黒坂様と森力丸のことよ」
母上様の言葉に、私たちは急いで畳の上に座り直し、背筋を伸ばして整列した。
お初とお江も、目を輝かせて母上様を見つめている。
「まず、森力丸だが、斬られた傷は深くはない。一月もすれば、元の暮らしに戻れるだろうとのことです」
母上様は穏やかにそう告げ、ふっと息をついた。
「そして、黒坂様ですが……」
母上様は手にしていた茶碗をそっと口に運び、一口含んだ。部屋には、雨の音と、茶をすする小さな音だけが響く。
一呼吸置いて、母上様は静かに言葉を続けた。
「黒坂様は、初めて人を斬られたそうです」
「えっ!?」
私は思わず声を上げた。
「甲冑ごと胴体を真っ二つにするような腕をお持ちの方が、初めてなのですか?」
驚きを隠せない私の問いに、母上様は一度目を閉じ、静かに頷いた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「黒坂様の素性については、兄上様からいくらか聞いております。だが、今はそなたたちに詳しく話す時ではないと思っています。ただ、彼は剣客であり、陰陽師ではあるが、武士ではない。あの一太刀で、初めて武士としての道を踏み出したと言っても過言ではないと思っています。だが今、彼は人を斬り、命を奪ったことへの後悔に苛まれている」
「でも、それは私たちを守るためだったのでは? 仕方のないことだったのでは?」
お初が、まるで私の胸の内を代弁するように、勢い込んで言った。
母上様は小さく首を振った。
「それでもです。人を斬るということは、初めてならばなおさら、心に重くのしかかる。痛みを理解する者になるか、それともその行為を楽しみとする者になるか……今、黒坂様はその狭間で戦っておられます」
「母様、それって……心の病なのでしょうか?」
お江が、首を小さく傾けながら、遠慮がちに尋ねた。
「そうかもしれないね。葛藤は、心の病とも言える。だが、これは薬では治せぬ病。自分自身で向き合い、乗り越えねばならぬも」
母上様の声には、どこか深い慈しみが込められているようだった。
私は思わず身を乗り出し、尋ねた。
「母上様、私たちに何かできることはありますか?」
母上様は、ほのかに微笑み、静かに答えた。
「そうですね……。しばらくは、そっと見守ってやりなさい。そして、黒坂様が庭で素振りを始めたり、いつもの様子を取り戻されたら、何事もなかったかのように、いつも通りに接するのです。決して、あの出来事に触れてはなりません。いいですね?」
「いつも通り、ですか?」
お江は少し戸惑いながら繰り返した。
「うっ、また足を滑らせて舐められるのかしら……」
お初が、半ば冗談めかして呟くと、お初がすかさず茶化した。
「ははっ、お初、そなたはまた黒坂様の布団を蹴飛ばして、足を舐められるつもりか?」
「お初、そなた、何!?」
私が呆れ顔で言うと、お初は慌てて手を振った。
「ち、違うの! あの時、あいつが寝てる布団を蹴ったら、うっかり布団の中に入っちゃって、そしたら足を舐められただけよ!」
「人を蹴るなんて、そなたらしいわ……」
私は笑いを堪えながら呟いた。
母上様は、くすくすと笑いながら、場を和ませるように言った。
「ふふ、なんとも賑やかな方ですね、黒坂様は。まぁ、足を舐めさせるかどうかはさておき、兎にも角にも、黒坂様から人斬りの話が出ない限りは、決してそのことに触れてはなりませんよ。いいね?」
「はい、わかりました、母上様」
私たちは声を揃えて答えた。
雨はなおも静かに降り続き、庭の木々を濡らしていた。
黒坂様の心に降る雨も、いつか止むことを願いながら、私はそっと窓の外を見つめた。




