第100話 人物設定紹介(1585年)
1585年登場人物・予定人物設定(正月で1歳追加します。)
主人公
黒坂 真琴
1999年11月29日生まれ 20歳
タイムトラベルにより1582年6月2日に本能寺に出てしまう。
実家の鹿島神道流免許皆伝(古流剣術)と母方の陰陽道を習得
未来の知識により、火縄銃の改良・建築技術の向上など数々の功績から恩賞として官位を授かる。
現在、年間20万石相当のお金で雇われている。
趣味・料理
織田信長の客分でありながら姪で養女になった茶々と結婚、織田家一門衆に列する。
近江の琵琶湖主要六城の一つ大津城城主となる。
従五位上常陸介
↓昇進
正四位下参議・常陸守
↓昇進
従三位中納言・常陸守
織田 信長
1534年5月12日 生まれ 51歳
正二位右大臣・右近衛大将になるが辞任
1582年6月21日本能寺の変で死ぬはずだったが、タイムトラベルした黒坂真琴に助けられる。
征夷大将軍になるべく官位を再び受ける
正二位左大臣・右近衛大将(しょうにいさだいじん・うこんのえたいしょう)
足利義昭死亡により征夷大将軍に就任
正二位左大臣・征夷大将軍(しょうにいさだいじん・せいいたいしょうぐん)
琵琶湖主要六城の一つ安土城を本拠地とする。
京の都では銀閣寺城を住まいとする。
織田 信忠
1555年?月?日 生まれ 30歳
織田信長嫡男・織田宗家
1582年6月21日本能寺の変で二条城で死ぬはずだったがタイムトラベルした黒坂真琴のおかげで助かる。
亡命中の室町幕府征夷大将軍、足利義昭とそれを庇護する中国毛利輝元を総大将として討伐
従三位中納言・左近衛中将(鎮守府将軍)
↓昇進
従二位右大臣・右近衛大将
岐阜城城主・嵐山城城主
三法師
1580年?月?日 生まれ 5歳
織田信忠の嫡男・信長の孫
織田 信孝
1558年4月22日 生まれ 27歳
織田信長の次男
従五位下侍従
伊勢神戸城城主
四国長宗我部攻め総大将
織田 信雄
1558年?月?日 生まれ 27歳
織田信長の三男
従五位下侍従
松ヶ島城城主
織田 信澄
1555年?月?日 生まれ 30歳
織田信長の甥
従五位上修理大夫
琵琶湖主要六城の一つ、大溝城の城主
羽柴 秀吉
1537年2月6日 生まれ 48歳
中国地方毛利輝元対方面軍団長
中国毛利輝元を討伐
長門・周防の二か国を拝領
従五位下筑前守
↓昇進
正四位下参議・長門守
柴田 勝家
1522年?月?日 生まれ 63歳
織田家筆頭家老
越後地方上杉景勝対方面軍団長だったが上杉景勝が織田信長の家臣となったため、毛利攻めに加勢。
越中・能登・越前の三か国を拝領
従五位上・越前守
↓昇進
正四位下参議・越前守
前田 又左衛門利家
1539年1月15日 生まれ 46歳
柴田勝家付き与力・毛利攻めに加勢。
黒坂真琴の安土城屋敷隣は前田利家屋敷。
加賀一か国を拝領
従六位下能登守
↓昇進
従四位下右衛門督・加賀守
琵琶湖主要六城の一つ、賤ヶ岳城の城主
前田 松
1547年7月25日 生まれ 38歳
安土城の屋敷が隣同士なうえに、前田慶次が黒坂家に仕えているのと、長男・前田利長の妻が織田信長の娘、永姫であるため黒坂真琴とは縁者となる関係のためなにかと気にして手伝ってくれる。
前田 利長
1562年2月15日 生まれ 23歳
前田利家の嫡男
姫路城城代
従五位下兵部少輔
佐々 成政
1536年2月6日 生まれ 49歳
柴田勝家付き与力・毛利攻めに加勢。
若狭一か国を拝領
正六位下若狭守
琵琶湖主要六城の一つ、牧野城の城主
森 蘭丸(成利)
1565年?月?日 生まれ 20歳
織田信長側近・赤母衣衆筆頭
1582年6月21日本能寺の変で死ぬはずだったが、タイムトラベルした黒坂真琴に助けられる。
琵琶湖主要六城の一つ、長浜城城主
正六位下左馬助
森 坊丸(長隆)
1566年?月?日 生まれ 19歳
織田信長側近・黄母衣衆筆頭
1582年6月21日本能寺の変で死ぬはずだったが、タイムトラベルした黒坂真琴に助けられる。
従六位下刑部少丞
藤堂 高虎
1556年1月6日 生まれ 29歳
織田家家臣作事奉行(銀閣寺城築城)
高山 右近(重友)
1552年?月?日 生まれ 33歳
高槻城城主
織田家家臣作事奉行(嵐山城築城)
黒坂真琴家臣
森 力丸(長氏)
1567年?月?日 生まれ 18歳
織田信長側近小姓から黒坂真琴の与力になる。
黒坂真琴家臣・筆頭家老
1582年6月21日本能寺の変で死ぬはずだったが、タイムトラベルした 黒坂真琴に助けられる。
黒坂家家臣の中で唯一、真琴の秘密を知っている。
従六位下右兵衛少尉
前田 慶次利益
1541年?月?日 生まれ 44歳
前田利家の義理の甥(血縁なし)
黒坂真琴家臣・家老
黒坂家安土城屋敷留守居役
柳生 新左衛門宗矩
1571年?月?日 生まれ 14歳
柳生石舟斎の息子
黒坂真琴家臣・家老(右筆)
真田 幸村(信繁)
1567年2月2日 生まれ 18歳
黒坂真琴家臣・家老
蒲生 忠三郎氏郷
1556年?月?日 生まれ 29歳
黒坂真琴家臣・家老
大津城築城奉行・町造奉行
黒坂真琴屋敷住み込み下女
桜子18歳(黒坂真琴、側室希望者、茶々の許可待ち?)
梅子17歳
桃子15歳
お市
1547年?月?日 生まれ 38歳
織田信長の妹
大津城本丸西御殿を住まいとする。
茶々
1569年?月?日 生まれ 16歳
主人公、黒坂真琴の正室・妻
お市の娘、浅井姉妹の長女
織田信長の養女となり、黒坂真琴と結婚。
大津城本丸東御殿を住まいとする。
お初
1570年?月?日 生まれ 15歳
お市の娘、浅井姉妹の次女
大津城本丸西御殿を住まいとする。
お江
1573年?月?日 生まれ 12歳
お市の娘、浅井姉妹の三女
大津城本丸西御殿を住まいとする。
柳生 石舟斎宗厳
1527年?月?日 生まれ 58歳
柳生新陰流開祖
織田家家臣
真田 昌幸
1547年?月?日 生まれ 38歳
従五位下安房守
織田家家臣・上田城城主
徳川 家康
1543年1月31日 生まれ 42歳
従五位下三河守
↓
従三位権中納言・三河守
織田家同盟者・浜松城城主
伊達 輝宗
1544年?月?日 生まれ 41歳
従四位上左大弁・奥州探題
織田家家臣
伊達 藤次郎政宗
1567年8月3日 生まれ 18歳
伊達輝宗嫡男
伊達 小次郎政道
1568年?月?日 生まれ 17歳
伊達輝宗次男
最上 義光
1546年2月1日 生まれ 39歳
従四位上右大弁・羽州探題
織田家家臣
最上 義康
1575年?月?日 生まれ 10歳
上杉 景勝
1556年1月8日 生まれ 29歳
従五位下侍従・越後守
上杉謙信の家督を受け継いだ義理の息子
織田家家臣
直江 兼続
1560年?月?日 生まれ 25歳
上杉景勝の執政
長宗我部 元親
1539年?月?日 生まれ 46歳
従五位下宮内少輔
大友 宗麟
1530年?月?日 生まれ 55歳
九州の大名
織田家同盟者
立花 宗茂
1569年?月?日 生まれ 16歳
九州の大名
織田家同盟者
島津 義久
1533年3月4日 生まれ 52歳
従五位薩摩守
九州の大名
九州統一を目指している。
黒田 官兵衛
1546年11月29日 生まれ 38歳
羽柴秀吉家臣
山内 猪右衛門一豊
1546年?月?日 生まれ 39歳
織田家家臣、羽柴秀吉の与力
丹羽 長秀
1535年10月16日 生まれ 50歳
織田家家臣・柴田勝家に並ぶ重臣・長宗我部攻め中
滝川 一益
1525年?月?日 生まれ 60歳
織田家家臣・柴田勝家に並ぶ重臣・関東管領職
九鬼 嘉隆
1542年?月?日 生まれ 42歳
織田家家臣・水軍奉行・石山本願寺の戦で鉄甲船を作って活躍
現在、南蛮寺紹介の南蛮人とともに日本式軍船安宅船ではなく南蛮式ガレオン船を建造中
相馬 義胤
1548年?月?日 生まれ 37歳
織田家家臣・相馬小高城城主
南部 信直
1546年4月1日 生まれ 39歳
織田家家臣・津軽三戸城城主
佐竹 義重
1547年3月7日 生まれ 38歳
常陸笠間城城主
織田信長に恭順の意を示している。
佐竹 義広
1575年?月?日 生まれ 10歳
佐竹義重の次男
北条 氏政
1538年?月?日 生まれ 47歳
従五位下相模守
後北条氏第4代当主・小田原城城主
北条 氏規
1545年?月?日 生まれ 40歳
第3代当主・北条 氏康の五男
黒坂家出入り商人
今井 宗久
1520年?月?日 生まれ 65歳
津田 宗及
15??年?月?日 生まれ 6?歳
千 宗易(利休)
1522年?月?日 生まれ 63歳
ルイス・フロイス
1532年?月?日 生まれ 53歳
ホルトガル人・宣教師
南蛮寺総代
蘆名 盛隆
1561年?月?日 生まれ 死亡
織田家家臣・会津黒川城城主
明智 光秀
1528年?月?日 生まれ 死亡
タイムトラベルした黒坂真琴により討ち取られる。
足利 義昭
1537年12月15日 生まれ 死亡
従四位参議・征夷大将軍
織田信長により京の都を追放となり、毛利輝元の庇護を受けて鞆城で虎視眈々と復権の機会を窺っている。
追放はされても、征夷大将軍は辞職せず最後は月山富田城で討ち取られる。
毛利 輝元
1553年2月4日 生まれ 死亡
月山富田城籠城の末、討ち取られる。
琵琶湖主要六城(架空)琵琶湖を中心とした水運を活用した首都を作るために、黒坂真琴が提案。
安土城・織田信長
大津城・黒坂真琴
長浜城・森蘭丸
大溝城・織田信澄
牧野城・佐々成政
賤ヶ岳城・前田利家
京都新城(架空)
銀閣寺城・京での織田信長の住まい
嵐山城・京での織田信忠の住まい
現登場人物・登場予定人物をまとめておきます。
(官位官職・領地は架空物語りです、かなり無理があります。
また、武将の名前の呼び方は皆が知っている呼び方を優先しました。
真田幸村は真田信繁ですが、幸村が一般的に知られております。
細かいところを言えば伊達も「だて」ではなく「いだて」と政宗本人がバチカンに宛てた手紙に書いております。)




