二十三話 シニアディレクター 独白⑧
さて、俺は。
素直に勝ちが嬉しい気持ちもあったが、何より……オヤジに課せられていた、役目のようなものを全うできたということに安堵する気持ちが強かった。
野球観戦部が『きっかけ』である以上、『部』であることはさほど重要ではない。西九条真訪と彼女のトラキチとしての一面を認めて、その上に生じる関係を大切にすることこそが、『部員』となった俺と春日野道が成さなければならないことだった。
………全てが彼女のためではない。無論自分自身のためでもあったが、ともかくとして、野球観戦部を守ろうとして必死になった今日の俺は、それができていたのではないかと思う。単純にその意思表示ができれば良いというわけではない。上っ面のそれでは意味がなくて、意図せずとも滲み出すくらいの気持ちが必要だった。口先だけで誤魔化していく関係も選択肢にあったところを、俺は、春日野道は、それを甲子園口駅に捨ててきたからだ。
『全力のフォークあってこそのあのストレート』
オヤジのこの言葉の意味が、今、数倍に膨れ上がって実感として押し寄せる。ハナから保険に頼ったままでこの場に挑んでいたとしたら、俺はああまで必死に西九条を庇おうとはしなかっただろうし、香櫨園の犠牲に報いようとする闘志も生まれはしなかっただろう。
今、それを経てこの結果を目の前にし、互いの『野球観戦部』に対する想いを確かめる事ができた今、その大切さがよくわかる。
その気持ちこそが、西九条が求めていたもので。甲子園口で捨ててきたものの代わりに拾っていかなければならない……これからの俺たちに必要なものだったのだと思う。
言葉にすれば歯が浮いてきそうなものではあるが、けれどもそれは紛れもなく事実であるようで、溢れんばかりの感慨はその証拠と見て間違いないのだ。歯がとれようが顎が落ちようが、それが事実なのだから……仕方ない。
ーーー審理は大詰め、クライマックスとエンドロールの境目くらいまで進行している。残すところは原告側の主張だけ、あとは陪審員が可否の札を上げればそれで全ては終わりとなる。
ここに至るまで全ての主張を退けられた形になった魚崎たちに、もはや反撃の要素は残っていない。逆に今さら何を主張するのか、興味があるほどだった。
嘘は露見し、策略はことごとく裏目に出、追求はさして効果を生まず、逆に相手の流れを呼び込むことすらあり。
この状況下で、この残り時間で、重音部にできることなどあろうはずもなかった。化けの皮をはがされた狐はただの小動物でしかなく、人を惑わすこも、操ることも、もうできはしない。
却って、彼女が最後に何を言うのか興味すらあった。あの性格だからまず、自分の非を認めたりすることはないだろうし、そもそも非だなどと思ってはいないだろうし。なにも言わないのか、あるいはあくまで最後まで悪態をついて見せるのか。
はたまた、執念深い彼女の事、考えたくはないが最後まで腹に一物抱えてる可能性だって無くはないが。
西九条も春日野道も表情は固く、勝利は確信すれど最後まで気は抜かない、という意志が見えるなか、
ふらりと立ち上がった魚崎は、もはや傍聴席などまるで相手にせず、俺達だけにむかってこんなことを言った。
「私がぁ、甘かったのかもしれないわねぇ。
あなたたちのぉ、力量をはかり損ねたわぁ。手前二つで十分仕留められると思ったのにねぇ」
まだ魚崎は笑っていられるようだった。俺の心臓は変な脈を打って、全身に不快感を伝播する。負け惜しみや悪口ではないのが、却って不自然というのか、言い知れぬ不安を掻き立てる。
「それはおあいにく様だったな」
「ええ、ほんとにねぇ。今ごろは、審査会の時のバームクーヘンがなんたらとかいう部活と同じように、そこでメソメソやってもらっているはずだったのに」
陪審員席から千鳥橋が立ち上がり、机を叩いて魚崎をこれでもかというほどの憎しみを込めて睨み付ける。魚崎はそれに嘲笑で対応していた。もはや、自分の社会的権力も、信用も、立場も失墜したなかで、彼女はやりたい放題言いたい放題のようだった。
千鳥橋の妹はバームクーヘンを食えへん部を立ち上げたメンバーの一人だとさっき香櫨園だかが教えてくれたが。どうも、魚崎は自分を支持しなかった千鳥橋への当て付けのためだけに、それを言ったようだった。
「フン、とんだブーメランになったもんやな。」
千鳥橋を擁護するように春日野道。おそらく彼女らは面識がない。だが、春日野道としてはなにか自分に近しいものを感じたのだろう。陪審員で発言機会を持たない彼女のための、精一杯の援護と見てとれた。
だが、魚崎は当然、そんなことでは怯まない。眉ひとつ動かさない。
「冗談言わないでくれるかしらぁ?春日野道。私にはぁ、重音部が潰れたからといって何一つ悲しむ要素が存在しないわぁ。
殊更にどうでもいいの。遊ぶ場所がひとつ減っただけ。欲しければまた作るし、必要なければ捨て置くのよぉ。」
扇子でも扇いでいるかのようにさらりとそんな事を言ってのけた魚崎。おそらく、彼女は強がりを言っていない。本当にそう考えているのだろう。
端の方で絶望的な表情をしている打出と魚崎はなんとも気の毒な事だが、事実として、彼女にとっては部も、部室も、部員も、暇潰しの道具のひとつでしかなく、この先もそうでしかない。
「あなた達みたいにぃ、集団に固執するようなことはしない主義なの。重音部は都合が良かっただけ。負け惜しみに聞こえたらありがたいのだけれどぉ、私にはそもそも負けたからといって失うものはないわぁ。ある種の保険ね。
それでも、入学したての一年生風情に負けるとは思ってなかったけれどぉ」
「あなたは別に負けてはいないわ。
ただその孤高の女王気取りが、勘違いだった事が証明されただけ。
自分では気づいていないのかもしれないけれど、自滅したのよ。私達は溺れかけの頭を押し込んだに過ぎないわ。」
きっぱりと言いきったのは西九条。そこでようやく魚崎の表情に怒りの火が灯った。たぶん、奴にとって一番不快な事は、『相手にされていない』ということなのだろう。自分の行動を一人芝居と揶揄されたに近い今の状況は、発火に十分な条件を持っていたに違いない。
が、それがわかっても西九条は全く引く気配がなかった。動揺のひとつも見せずに、魚崎からの殺気をその身に受け続けていた。彼女は彼女で、魚崎のスカしたような態度が気にくわなかったのだと思う。
独特な色を持つクールな煽りは、確実に魚崎のピンポイントを捉えたようだった。
「ずいぶん生意気………小娘風情が言ってくれるじゃあない?」
「その小娘という言葉自体があなたの矮小な心と器の小ささを示しているわ。悪政の下で踊らされていたそこの二人が、今は気の毒にすら思えるわね。
いい?たかが公立高校の生徒会長程度のそこまで人間が、少し力を与えられていい気になって、本来より自分を大きく見積もって好き放題やった結果、そのツケが回ってきて自分の首を絞めた。
ただそれだけの話よ。そう考えれば……女王気取り、という言葉も間違っていると言えるかもしれないわね。
確か、浪費癖のせいで国民に殺されてしまった、国家権力を自分のものと勘違いの皇后がフランスにいたわね。
あなた、それにそっくりよ。本物の女王様のようだわ。」
マリ・アントワネットか。派手な宮廷衣装のイメージと共に、その名前が頭に浮かぶ。学校権力を自分のものと過信して、好き放題やった彼女には確かに共通する部分もある。にしても、ものすごい嫌味だなぁと俺は………感心した。
なんというか、魚崎が怒りを露にすることで、この審理、原告側と被告側がようやく同じステージに立てたような気がする。もはや今さら遅い話ではあるが、こちらが必死に戦っている間、魚崎は彼女の言葉通りなら、背水に橋を架け、いくらでも退路に引く準備はある、くらい気持ちでかかってきていたということである。
まさに遊ばれていた、というところだろうか。そのまま終わるのはあまりにも癪だったから、ようやく見られた魚崎のなりふり構わぬ怒りの表情は、何となく俺に足りていなかった何かを与えてくれたような気がした。
「減らず口とはまさにこの事ねぇ、さっきまで死に体だった癖に、勝ちを拾って威張り散らすだなんて、卑しいこと……!
そこまで言って……タダですむと思っているのかしらぁ………!?」
「ええ、思っているわ。だって、あなたが重音部に固執しなければ確実にあの部はこの後潰れてしまうもの。けれどあなたは、さっきどうなってもいいと言っていたし。
今さら何を恐れる必要があるのかしら。」
西九条がそれを意図していたのかどうかはなんとも言いがたかったが、彼女の言葉は徹底的に魚崎の自尊心に傷をつけていく。
明らかに数分前とはその表情の険しさに雲泥の差がある。何も寝た子を起こすような真似をしなくても良いのではないか……と俺は思わなくなかったが、だが、このまま終わられるのではたまらない、という西九条の気持ちも十分理解できたので、黙っていた。
………ただ、勝てばいいという法廷ではないのだ。