八番 キャッチャー 部室②
真剣そのもので、ともすれば高圧的とすら言える視線を送って来ていた西九条の表情が、ふっと和らいだ。
俺はそれで、今の三つの質問すら彼女の策中にあったことを悟る。もはや一挙一動まで読まれているような感覚。とても敵いっこないと、再度思う。
「そのこころは?」
「野田さんは昨日の試合、初回から五回………つまり違う選手の顔を使い分けていた期間ね。その間に、持てる力のほぼ全てを使いきったわ。残り四回との比率は………そうね、八対二、といったところかしら。」
「………?
それと俺の諦めと何の関係が……」
「わからない?
武庫川監督は、野田さんの全力を序盤に見せつけ誇示することで、
到底敵いっこないという印象を相手に与えようとしたのよ。」
にっ、と口角を上へ持ち上げて不敵に笑った西九条。さすがの俺も、それを聞いて話の全体像が見え始める。
「逃げ切り型って、そういう意味か……」
「ええ。主にピッチャーの話。
実際、大物スターズは序盤戦、ストレートは完全に差し込まれていたし、カーブには全くタイミング合っていなかったし、カットボールにはバットがかすりもしなかったわ。
あれでは……とても試合に勝つ勝たないの話ができた状態ではなかったのではないかしら。」
「圧倒的戦力差を見せつけてそもそも勝ちへの意欲を削ぐ……ってことか。」
あのチームに俺がいたらどうなるだろう。恐らくは………自分も含めて塁にランナーすら出ない状況では、勝ちへの手がかりを探すことすら諦めるかもしれない。まして……
「しかも状況はノーヒットノーランだったわ。勝つ勝たないの前に、ヒットが一本出なければそのまま屈辱的敗北を喫することになる。
そうなるともう、チームとして勝ちに向かっていく気持ちはなくなるわ。とにかく一安打。皆がそれをめざしはじめるでしょう。そうすると……」
「チームに連携がなくなると。」
「フォアボールですら頭から消えるでしょうね。実際……スコアブックを見ればわかることだけれど、大物スターズへのカウントは空振りとファールがかなり先行して、結果的に投手有利のものになっている。
なりふり構ってられなくて無理に打ちに行ってる証拠。」
「焦りが冷静さを失わせるのか……」
「そういうことになるわね。短期間で実力の差を見せつけることで戦意を勝ちから反らせる。
野球はチーム全体の精神状態がプレーに非常に濃密に関わってくるスポーツよ。一気に相手の戦力を削ぐのに、これ以上有効な手段もないわ。」
「………なるほど。わかったよ。いたいほどよくわかる。全部、今俺が経験したことだ。
つまり、最初の五回で勝負は決していた。全力をつぎ込んで相手の戦意を喪失させて、残り四回、一体感を失った相手にたいして残る力で抑えにかかる……
ハナから勝てっこないと感じている相手は、知らない間に打てそうな球すら打てない先入観に苛まれて、結果本当に打てない、と……」
「九割がたはそれで正解だけれど、武庫川監督のリードに関して言えば、もうひとつ注目しておくべき点があるわ。」
そう言った西九条はこの上なく痛快、といった様子で、
例の、凄い野球選手を目の当たりにしたときの輝く瞳を僅かに見せていた。
若干、俺に向けたそれよりは控えめだったのが………俺としては少し嬉しかった。
「野田さんは十分ノーヒットノーランを達成できる可能性があったのに、できなかった。最終的に大物スターズが放ったヒットの数、覚えているかしら?」
「一本……だっけ?」
「打った時の事を覚えてる?」
「……いや」
「ここよ。」
西九条はスコアブックのある一点を指差した。五回の表、二死ランナーなし、とある。
それで俺も思い出した。確か、この試合唯一大物スターズベンチが盛り上がりを見せた場面だった。
「これが?」
「この回、この時だけ、武庫川監督の配給が異様に甘くなったわ。カウントスコアを見て。」
とんとん、と細く綺麗な指でスコアブックを叩く西九条。
通常スコアブックは、打者に起こった出来事と、ストライク、ボール、ファールといった情報を記号で記しておくものである。逆に言えば、本来ならそれ以上の情報はない。
が、彼女の記すそれはもはやプロチームのスコアラーレベルのもので、球種、コース、ファールなら飛んだ方向まで、詳細かつ性格に記しているのである。まぁなんとも、見上げた根性である。
「………三球目にヒッティングで………その前の二球が、ストレート。特注書きで、球威に欠く……」
「わざと打たせたのよ」
満を持して、とばかり西九条が言う。
さすがにその意図を推察するまでのことはできず、俺は思わず首をかしげた。西九条は嬉々としてその理由を説明し始める。
「いい?キュウソネコカミという言葉があるでしょう?」
「それはバンド名だ」
「意味は同じよ。
人間追い詰められたとき、火事場のクソ力を発揮するという意味。」
「まあ、知ってる。」
「例えば九回表まで、ノーヒットノーランが続いてたら、大物スターズの選手たちの気持ちはどうなったと思う?
死ぬ気で一本ヒットを打とうと思うんじゃないかしら。」
「まあ………そうだな。」
「野田さんは前半の五回でほぼ全力を使って、残りの二割で最終回までを乗りきろうとしている。実際九回はかなり球威が落ちてきていたわ。
そんな状態で死に物狂いでかかってこられたら……」
「わかった。
武庫川監督は、敢えてあちらにヒットを打たせることで、
安心させたんだ。その後ヒット一本のために相手が実力以上の力を出さないようにするために。」
「そう、その通り。」
西九条が大きくかぶりを振る。なんて連中だ、と俺は思った。
こんな作戦を展開できる武庫川も武庫川だし、恩師の作戦を忠実に実行し得る実力を持つ野田も野田だし、
それを完璧に読みきる西九条真訪に至っては頭のなかが異次元だとしか思えない。
参った。これは……これは、あまりにも楽しい。
未踏の地で、宝を探し当てるような高揚が、体を貫いていく。
「結論としては……大物スターズの完膚なきまでにやられた敗因は、相手の術中にはまって戦意を喪失し、勝利を諦めてしまったことにあるの。最後まで気を抜かず全力でやれれば……余力のない野田さんを打ち崩すのは、必ずしも不可能ではなかった。」
「………そうなるか」
「ええ。
若干青臭い言い方になってしまうけれど、野球っていうスポーツは諦めたら負け。
諦めないってこと、それができるかできないかが勝敗を決めることだってあるし、それができるチームっていうのは……
単純に、強いのよ。」
ふ、とため息をひとつ、テーブルの上のペンを手に取った西九条は、そのままスコアブックに『QED(証明終わり)』と記した。音楽準備室という狭い空間に展開されていた野球場は、試合を終えてそのページを閉じる。