美女と醜女のあいだで
ストーリーがないのはすみません。ただ描写したかっただけです。
20時55分発、上海浦東空港から成田空港へ向かう中国東方航空のボーイング機。
中国の大型連休中で、ほぼ満席、空港に到着した時間が遅かったこともあり、座席は後方の42列Bだった。エコノミークラスは通路を挟んで左右三列シートで、Bは左側の真ん中を意味する。二時間半のフライトで、身動きの取りづらい席で、気分も滅入り、飛行機への乗り込みも、最後尾だった。ざわめく機内の狭い通路を、荷物を上の棚に押し込む乗客をかき分けつつ進むと、果たせるかな、一つだけ空いている席、二人の女性に挟まれた席が、自分が詰め込まれるべき場所であった。
公共の移動空間は、劇場である。通勤通学列車の席とり争いや、座席リクライニング、中年男の体臭に、響く赤子の泣き声。乗客は、密封された空間で、パーソナルスペースを確保し、安寧を求め、それぞれが暗黙のうちに不可侵協定を結び、異質なモノへの意識を共有する。
エコノミーのシートは狭い。奥の座席に座るためには通路側の客にスペースを空けてもらわなければならない。通路側に座っていた”美女”は、こちらの意思を認めると、ホットパンツから伸びる細い太ももに入った猫の刺青(シールなのか彫りなのかはわからない)をちらりとみせて、すっと譲ってくれた。座ろうとすると、奥の席の”醜女”が、携帯をこちらの座席まで伸ばして自撮りしているところだった。
”美女”は搭乗待合いロビーでも人目を引いていた。それは惜しげもなく露出された脚であり、周囲にまとう柑橘系の香水であり、なによりもPS済みの加工写真から飛び出したような顔だった。少女マンガのように顔面の大半を占める眼、シャープにとがった顎、不自然に伸びた鼻梁、病的に蒼白な顔色、整形手術と化粧技術の粋が、体現されていた。女心のわからぬ男からみれば、それは滑稽であるが、それでも彼女を”美女”と称さねばならない。スマホの写真アプリが自動で修正を加えた先にある画一的写真は、主観を排除した美しさの指標であって、”美女”はその体現者なのだ。その極めて人工的な美しさを持つ顔は、表情が変わらない。最上の美は、すでに頂点であるから、動いてはいけない。唯一無二の理想の美。
こちらが隣に座る女性を勝手に”美女”認定したとき、同時に、より大事なことに思い至った。外見が完璧な人工物である人の人間性は、もう外見からは何も判断できない。外見の個性を捨ててしまった人に残されたものは、その内面、心しかない。彼女は、絶対の美を体現したことで、第一印象がなくなった。この人形のような美女を評価できるのは、殻に閉じ込められた彼女の内なる心だけだ。
反対隣の醜女は、最初心証が悪かった。ただでさえ狭いこちらの空間を、なんの悪気もなく侵してくる。自撮りで手を伸ばす程度ならば、たとえば、初めての海外、初めての飛行機で浮かれてしまった上での行動だろうと酌量できるが、明らかに狭い空間にいらつき、脚の置き場を持て余したあげくこちらの領域を侵犯して、脚をのばしていた。世間擦れしたエゴイストの反社会的行動であれば、まだ恨み憎むだけですむ。しかし、醜女は、共通の文化を持たぬ、断絶があるようだった。座席のスペースに対する暗黙のルールがない。厚顔無恥とは違う空っぽの無垢があった。こちらの常識を当てはめることができない。彼女に対していると、動物園で優雅に暮らす猿の、檻で区切られた彼岸と此岸の、いったいどちらが囚われているのかという、自分自身の足下が揺らぐ危うさがあった。おそらく、中国の農村の娘なのだろう。相撲取りを思わせる腫れぼったい頬をした醜女に、はじめて親しみがわいたのは、飛行機が滑走路へ移動を開始したときだった。醜女の身体から苛々がきれいに消え、かわりに不安感が立ち昇ってきた。滑走路へ移動する機体の振動に怯え、そわそわ外を伺う。金属の塊が空を飛ぶ。この不安は、共有できる。
醜女と同時に美女にも変化があった。初めて感情の揺らぎがあり、彼女もまた静かに不安をまとった。それは醜女とは全く違うところからきていた。美女はそれまで音漏れするほどの音量で音楽を聞いていたが、携帯の電源を切らねばならなくなり、イヤホンを耳から外した。揺らぎはその瞬間だった。イヤホンは音楽を聞くためではなく、遮断するためのものだった。イヤホンを外した瞬間、身の内側が晒されてしまったのだ。彼女はブランケットを首筋までかけ直し、眼を閉じた。その動作はやけに儀式めいていた。離陸から成田空港着陸までの間、美女が対外的に示した行動はただ一度、指先に苛立ちをのせてリクライニングを倒したときだけだった。彼女は後部座席を気にせず、素早く倒した。それは窮屈な姿勢に耐えられないという、彼女の内面を行動で示した唯一の機会だった。
同じく窮屈に苛立つ醜女は、座席が倒れることを知ると、身体を揺すって倒そうとするのだが、倒れない。そこで、隣で日本語の小説を開き読んでいる(ふりをした)日本人の男(私)に、いきなり中国語で尋ねた「イスはどうやったら倒れる?」。こちらが中国語を話せる前提であるのはまだしも、呼びかけの感動詞「すみません」も「あの」もなかった。肘掛けの横にあるボタンを無言で押してやると、静かに倒れる背もたれに満足したようだった。謝辞はなかった。この両輪の花と、直接接点を持ったのは、このとき限りだった。
機内食の食べ方も二人は特徴的だった。美女は赤いネイルに挟まれた人差し指と親指の腹で、器用にピーナッツの粒を口に入れる。醜女は警戒心を露わにワッフルの袋に記載された成分表を眺めたあとカバンに放り込んだ。
照明が絞られ、機体は下降をはじめた。いつものように、少しのあいだ気流に揺れたが、二人の感情に揺れはなかった。
着陸し、密室から開放されると、美女はいつの間にかいなくなり、醜女は放心したように座席から動かなかった。
イミグレを抜け、独り都心に向かう電車の中、先程の一期一会にも満たない二人を思った。奇妙なことなのだが、強く意識していたはずの女性的なことは消え失せ、残ったのは、人間は社会のなかで生きている、ということだった。人工美も野生性も社会に組み込まれた一つの因子だ。自分はなんとも無自覚に社会に漂っている。そんなことを思った。