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旋灯奇談

旋灯奇談  第十話  真夜中のトキップ

作者: 東陣正則


   第十話  真夜中のトキップ


 バレンタインディも間近の日曜未明。昨夜来の雪が舞う中を太市は荒い息を吐いて自転車を走らせていた。担当の二百部余りの新聞の配達を終了、販売所に報告しての帰りである。しかし今日はいつにも増して眠い。販売所の専業スタッフが軒並みインフルエンザの餌食となり、ピンチヒッターを頼まれて、紙受けという配送トラックからの新聞の受け取り段階から仕事をしたせいである。なんせいつもより二時間以上早い、午前零時起きである。その寝不足もあってだろう、先ほど自転車をスリップ、ものの見事に転倒した。

 その際、路面に打ち付けた肘がヒリヒリと痛む。

 それでも白み始めた夜の底、何の痕跡もない白銀のカーペットにタイヤの痕を描いて走るのは楽しい。心が幼児に戻ったようで、あくび混じりの鼻歌が口から零れる。

 と前方に真新しい足跡。蛇行しながら道を横切り、児童公園の入り口に続いている。

 朝帰りの酔っ払いの通った跡かなと視線を流し、太市は自転車を止めた。

 六段ほどある階段の一番上、俯くようにして人が倒れている。体格からして子供だ。コートの襟が邪魔をして顔は見えないが、髪の刈り上げ具合からすれば男の子だろう。

 階段横の手すりに自転車を寄せると、太市は倒れた子供に駆け寄った。

震えるように肩が上下し、半開きの口から荒い呼気が漏れている。

「君、だいじょうぶかい」

 声をかけつつ横半身に倒れこんだ男の子の顔を覗き込み、太市は首を傾げた。

 小学校の高学年くらいと当たりをつけた男の子の顔が、もっと上、大人びた大学生のように見えたのだ。

 数度呼びかけるが反応がない。手袋を脱ぎ、額に指先を当てると、ハッとするほど熱い。かなりの熱だ。二月に入ってから近辺の小学校で学級閉鎖が相次いでいる。先にも述べたように、インフルエンザが猛威を振っている。もしかすると風邪で家族全員が寝つき、一番元気なこの子がコンビニにでも買い物に出かけて倒れた。そんな光景が思い浮かぶ。

 救急車を呼ぶべきか一瞬思案するも、やはり通報すべきと、ポケットのケータイに手を伸ばした時、男の子の唇が動いた。

「エンビアール……、アミーゴ、セ……」

「え、なに?」

 見ると外套のポケットに英字新聞が突っ込んである。ナニッ、外国の子?

「言葉、分かる? 救急車、呼ぼうか」 

 息の止まったような沈黙の後、熱で乾いた彼の口から白い吐息が吐き出された。

「そうか、ここは日本、だったな……」

 酒飲みの中年の男が漏らすような太い声だった。

「病院はダメだ……マズイ……」

 苦しげに言うと、青年のような彼は、そのまま起こしかけた顔を雪に埋めた。慌てて太市が抱き起こした時には、彼は完全に首をうなだれていた。

 

 美里さんは昨日から親戚の法事で家を空けている。長姉の万知さんは研修で京都、帰ってくるのは夕方だ。それに百会と千晶は、朝一で部の寒中げいこに出ている。それに加えて、ミニコミの事務所に使っている玄関脇の居間も、今日に限っては無人。誰も顔を見せないはず。実は暖房に年代物の石油ストーブを使っているのだが、タンクに穴が空いて、洩れた灯油の臭いが部屋中に回ってしまったのだ。油から分離した水がタンクを腐食させた結果だが、鼻を刺す臭いが抜けるまで、窓を開け放しておくしかない。

 つまり今日は、夕方まで家に誰もいないということ。

 太市は自転車を公園の入り口に残すと、その小学生のような体格の青年を家に連れて行くことにした。背負うと見た目以上に軽い。三十キロ弱といったところか。

 家までの間、青年はうわ言のように「ダメだ、病院は……」を繰り返していた。


 太市が居候している美里家は、戦後直ぐに建てられた木造二階建ての家を、二十年前に、今は亡き美里の親が購入したものだ。屋根にセメント瓦が使われていることからも分かるように、冬は隙間風が頭痛の種となる安普請の家だが、居間の模造暖炉や、タイル張りの流し台、外まわりに残る五右衛門風呂の焚口など、昭和を懐かしむ意味では愉快な家である。その美里家の狭くて急な階段を上がった二階奥に、太市の部屋はある。納戸を改造して作った天井の低い小部屋で、机代わりのコタツとビールケースを台にしたベッドのほかは、天井から衣類が数着吊るしてあるだけの、飯場の個室のように素っ気ない三畳間である。もっとも太市に言わせれば、物を持たない今流行りのミニマムスタイルの実践の場ということになるのだが、それはやせ我慢。貧乏暮らしの寒居である。

 その自室に太市は青年を担ぎ込んだ。

 ベッドのせんべい布団の上に彼を下ろし、コートを脱がせて、左肩に目が行く。セーターに赤い染みが浮いている。熱は風邪によるものと考えていたが、ケガのせいかもしれない。ただ痛みはないようで、青年は身を横たえると、脱力したように手足を伸ばした。

 蛍光灯の明かりの下で青年の顔を覗き込む。

 日焼けした肌が熱で火照り、顔全体が紅潮している。外で見た時は大学生に見えたが、改めて間近で見直すと、ふっくらとした顔立ちは中学生のようでもある。ただ長いまつげは女性。みけんの溝はくたびれた中年男を思い起こさせるし、目じりの細かい皺は中年女のソレで、年齢不詳の顔といっていい。ただ外見よりも、話しかけた時に彼は外国語で答えた。日系人、もしくは帰国子女ということか。

 青年の息が落ち着いてきたのを見て、太市は立ち上がった。そして彼のコートをハンガーに掛けようとして、足元、畳みの上に落ちた手の平サイズの四角い束に気づいた。濃紺の表紙に菊の模様、パスポートだ。むろん太市自身は外国旅行など無縁の身で、パスポートなど持っていない。以前、甲斐ご自慢の出入国のスタンプだらけのパスポートを見ていたから、分かったことである。

 輪ゴムで纏めたパスポートの束を手に取り、ゴムを外してカードのように広げる。

 一番上の日本のパスポート以外は、どれも外国のもの。国名を目で拾うと、カナダにUSA、コリアにブラジルに、それにタイ。

 了承を得ずに検めるのは気が咎めるが、一応開いて中を確かめる。

 そして目を疑う。顔写真がどれも同じなのだ。慌ててアルファベットで印字された名前に目を走らせる。マルコス・ヒロタ、こちらも同じだ。生年は2003年。ということは十五歳だ。出入国のスタンプが幾つも押してあるものもあれば、未使用のものもある。カナダのパスポートを開くと、カバーの内側に、アメックスのカードと二つ折りにした百ドル紙幣が数枚突っ込んであった。

「マルコと、呼んでくれ」

 振り向くと、ベッドの上の彼、マルコが、半眼の虚ろな目で自分を見ていた。太市は照れ笑いを浮かべると、束ね直したパスポートをコートの内ポケットに戻した。

「ブラジルの出身だ、家はサンパウロ、リベルダージ地区にある」

 マルコが息を整えるようにゆっくりと自己紹介を始めた。熱で上擦ってはいるものの、訛りのないごく普通の日本語だ。太市は彼が流暢な日本語を話すことに安堵すると、それでもブラジル出身と聞いて、気遣うようにゆっくりとした口調で応じた。

「ゴメン、パスポートを見せてもらった、連絡先が入っていないかと思ってさ」

「気にするな、助けて貰ったんだからな」

 話しながら肩の付け根をマルコが手で押さえる。

「血が滲んでるの、それ、ケガをしてるんじゃないかい」

「大したことはない、銃で撃たれた程度だ」

「銃!」

 声を裏返えさせた太市に、マルコが苦笑いした。

「冗談だよ……あ、しかし頭が霞む、こりゃエボラ熱かな……」

 どうやら冗談を言って体調の不備を誤魔化そうとしているようだ。

「最近の流行りはジカ熱だろ、ブラジル出身なら、特にさ」

 太市が調子を合わせると、マルコが痛みで歪んだ口元をほころばせた。

「いやこれは、きっとトイレ熱だな」

 言って眉を絞り体を起こしたマルコが、ドアに目を向ける。トイレに行きたいらしい。

「ここは屋根裏部屋で、トイレは下、案内するよ」

 マルコに手を貸しベッドの脇に立ち上がらせる。横になった体勢ではさして感じなかった背の低さが、立ちあがると際立つ。太市の胸元ほどしかない。青年っぽい顔なので、余計にそう感じる。

 低い天井を見上げたマルコが、ラテン系のように情熱的な眉をクッと上下させた。

「こりゃあ、ホビットには、おあつらえ向きの小部屋だな」

「ホビットって、あの映画のかい?」

「冗談を真に受けないでくれ、オレは小人症、身長が伸びない体質なんだ」

「小人症? ああ、あの人たちか」

 ようやく腑に落ちたとばかりに太市が頷いた。

 ホルモンの関係で身長の伸びが途中で止まったり、軟骨の異常や、遺伝的な理由で極端に身長が低くなる場合がある。この一万人に一人くらいの割合で生じる小人のような体格を、一般に小人症と称する。それは太市も知っていた。小学校時代、クラスにピコと渾名された、身長が一メートルに満たない女の子がいたのだ。それに西蔵町界隈で言えば、駅前の時計屋の主人が、子供のような体に特別仕立てのスーツを着込んで店に出ている。バリアフリーが進んで車椅子の人たちを街中で目にすることが当たり前になった今でも、小人症の人物と出会う機会は少なく、街中でそういった人を見かけると、つい好奇の目を向けてしまいがちだ。

 マルコを連れて階下に下りる。

 トイレと洗顔を済ませたマルコに、太市は朝食の残り、トーストとサラダを勧めた。しかし熱のために食欲が失せているようで、マルコは胸元から取り出した粉薬をオレンジジュースで飲み下すと、あとは口を付けなかった。

 二階の部屋を出てからここまで、マルコの一挙手一投足を見て、太市は嘆息した。小人症の大変なことを実感したのだ。階段もそうだが、椅子に座るのも降りるのも一苦労。熱も手伝ってか、マルコは椅子から降りる時に腰砕けに転げ落ちた。

 それでもマルコは廊下に出ると玄関を確認、他人に迷惑はかけられないから出て行くと言い出した。そのマルコを、太市は夕方までは誰も帰ってこないからと引き止め、無理やり二階の自室に連れ戻した。

 諦めたようにベッドに横になったマルコが、「そうだ、セル・フォンは?」と聞く。

 公園でマルコを助け起こした際に、太市は荷物や落し物がないか確かめている。コートのポケットを含め、モバイルに類するものは何も見当たらなかった。そのことを伝えると、マルコは、営業周りで成果の上がらなかった中年男さながらの渋面を作った。

「必要なら、ぼくのケータイを貸すよ、もっとも未だにガラケーだけどね」

「いや、ならいい」

 首を振って断ると、マルコは手の平を額に当て、ため息をついた。

「とにかく、このめまいが治まらないと、どうしようもない……」

 先ほど椅子から落ちたのも、目覚めてからしきりと眉間にシワを寄せるのも、めまいが原因らしい。目を固く閉じたマルコの体に、太市は厚手の布団を被せた。

 太市の納戸部屋は家の北側にあるため、日中でもかなり寒い。太市は、まだ温もりの残る湯たんぽをマルコの足元に差し入れると、十一時までには戻ってくるからと告げて家を出た。八時半から新聞部恒例の早朝ミーティングがあるのだ。

 

 公園の入り口に残してあった自転車を回収、学校に向かう。

 武道派の早乙女部長は、この業界には珍しく朝型人間で、なにかというと朝に集まりを設定する。朝型の生活をしている太市は平気だが、ほかの夜更かし部員は、いつもブーイングである。ただ早乙女部長の良いところは、予定の時間をきっちりと守ることだ。今日もピタリと二時間で打ち合わせを終了した。万一長引いた際には、家族の看病を口実に退席しようと気を揉んでいた太市は、肩を撫で下ろした。

 マルコの様態を気にかけつつ帰途を急ぐ。ところが焦って自転車を飛ばしたのが悪かった。道端に寄せた雪の山にタイヤを引っ掛け、横滑りにスッ転んでしまう。本日二度目の転倒。通りに人がいなかったのが救いで、見られていたら笑止ものだ。

 やれやれと自転車を引き起こす太市の耳に、賑やかな話し声が聞こえた。

 見ると転んだのは風呂屋のまん前、声はなごみ亭からだ。

 なぜ午前中に声が……と思い、はたと手を打つ。今日は朝風呂会の日だ。

 月に一度、地域の年寄りたちが軽食と酒を持ち寄り、朝風呂後の一杯としゃれ込む。さしずめ今日など、雪見で一杯。地区の酒好き話し好きが集まる寄り合いで、太市も前々から顔を出そうと機会を窺っていた。しかしさすがに今日はバッドタイミング。マルコのこともあるし、インフルエンザで寝込んだ甲斐に食事も届けなければならない。

 こればかりは仕方がない。男は諦らめが肝心と、後ろ髪を引かれるようにして自転車に跨り直した。その太市の背に「冷でよし燗してよしの極楽極楽、寄らないのか」と、徳三郎先生のご機嫌な声が飛ぶ。

 悪魔の誘いだ。天を仰ぐ太市の首が、風になびく葦のごとく風呂屋側に傾いていく。

 このままではダメ。一度なごみ亭に足を踏み入れれば、あとは推して知るべし。

 しかし、めったにない只酒を飲めるチャンスでもある。それに誘いというものは無碍に断るものではない。しかし……、しかしを重ねながら太市は、急いでマルコの容態を確かめ、もう一度出直すことで、意志薄弱の自分と手打ちをすることにした。

 酒好きの自分を呪いつつ、自転車のペダルに力を込める。

 と鼻面にぶら下がった酒の幻影に、ペダルを漕ぐ足の動きが加速。気もそぞろのに角を曲がろうとして車輪がツルッ、もんどりうって自転車ごと背中からひっくり返った。

 胸が詰って息ができない。両手を踏ん張り、背中の痛みが引くのを待つ。

 そのエビ反り悶絶状態の太市の目が、倒れた自転車のミラーに映る人の姿を捕えた。

 距離はあるが、こちらを見ている。鋭い探るような視線だ。

 視線を合わせないよう顔を背けると、太市は横目にその長身の人物を窺った。実はその男の立っている場所が、今朝マルコを助け起した児童遊園の階段だということに気づいたのだ。黒のトレンチコートを着込み、革の帽子を目深に押し被ったその男は、体型、それに帽子の縁から食み出た茶髪からして、白人ぽい。

 盗み見る太市の視線の向こうで、コートの男は、派手な音の正体が自転車の転んだ音だと分かると、何事もなかったように視線を足元に戻した。男が完全にこちらに興味を失くしたのを見定めたうえで、太市は胸元からケータイを取り出し、メールの確認をする振りをして男を撮影した。そして腰を抑えて立ち上がると、八つ当たりをするように自転車を蹴飛ばし、その場を離れた。

 気づかれないように写真を撮ったことに自信はある。が心臓はバクバクと鳴っていた。頭に思い浮かぶのはマルコが所持していたパスポートの束だ。同じ人物が六カ国もの国籍を持つことはない。あれは偽造パスポートに違いない。ということは、それを用いた良からぬことをマルコがやっているのではないか。

 その悪事を暴こうとマルコを追い掛けているのが、あのコートの男……。

 しかし、とも思う。

 熱とケガを抱えながらも陽気に振舞うマルコが、太市には悪事を働く人物に思えなかった。あの偽造パスポートは、悪事ではない何か別の用途に使うものではないか。

 ただ太市にはそれが全く想像できなかった。

 とにかく今は、早く家に戻ってマルコに問い質してみよう、「君は何者なのだ」と。

 そんなことを前のめりに考えていたせいで、またもや自転車ごとひっくり返ってしまう。雪の下にあった排水溝の口にタイヤを引っかけたのだ。本日四度目、全く嫌になる。通りがかりのチビが、こちらを見て大口を開けて笑っている。こういうときに使うんだろうな「シット!」と。なに、たまには英語も使ってみたい、それだけだ。

 そうイキがっていると、今度はポケットのケータイが鳴って、それに気を取られて、もう一度自転車ごと空を仰ぐ。

 今度こそ本気で使おう、「シット!」。

 ケータイの呼び出しは、インフルエンザで寝込んだ甲斐から。昼飯催促のコールだった。

 ケータイを耳に当てたまま心で怒鳴る。どうして四十度近い熱を出しながら、そんなに食欲がある。満腹中枢がウイルスに侵されたか。分かったから仔犬のように鳴くな、静かに寝てろ。思いつく限りの罵倒の言葉を頭に思い浮かべながら、ペダルを漕ぐ。


 ようやく家に到着、自分の部屋に駆け上がる。

 と、マルコの姿がない。

 コタツの上にメモが乗っていた。小学生並みの下手な字で「用を済ませてくる」と書いてある。話すのは問題なくても、書くのは苦手のようだ。やはり日系人か。

 しかし、せっかく酒の誘惑を断ち切って帰ってきたというのに、なんてこと。

 またもや「シット! シット! シット!」シットの嵐だ。

 拍子抜けだが、マルコのやつも、外に出られるということは、めまいが抜けたに違いない。とりあえずは祝福してやろうと、そう思い直して、こちらも「三時までには戻るから」とメモを残し、再び外へ。甲斐にエサを届けたら、なごみ亭の酒宴に直行だ。

 近くのスーパーでパンと惣菜を調達。熱にうなされ意識朦朧でエアーギターを弾きまくる甲斐の枕元に置いて、昼前、ようやく風呂屋のなごみ亭に駆けこんだ。

 風呂仲間が卓を囲んで、すでに宴も終盤。テーブルの上には、持ち寄りの大皿小皿にタッパの山が積み上がり、空いた一升瓶も右に左にゴロゴロ。上がりかまちに置かれた火鉢の上では、この日の目玉、デンさん差し入れの青森産殻つきホタテが炭火に炙られ、プクプクと煮立ったあぶくを弾けさせている。

 そして真打ち、お目当ての酒は、米どころ秋田の地酒、一白水成。

 デンさんは現役を引退後も時々スポットでトラックのハンドルを握っている。きょうび運送業界はどこも人手不足で、けっこうお呼びが掛かるのだそうな。今回は風邪でダウンした後輩の代理で、丸一日かけて東京青森間を往復。荷はホームセンターの特売に使うバッタもんの雑貨で、そのキャスター付きのカーゴ1ダース分の荷を届けた後、帰途立ち寄った秋田で仕入れた地酒と酒の肴を、なごみ亭に持ち込んだのだ。

 そのデンさんはと見ると、徹夜の走行明け、寝不足もあってか完璧にダウン。部屋の隅で大の字になっての高いびきである。坪庭側のガラス戸が共鳴してビリビリと震えている。

 太市を見つけた徳三郎先生が、駆け付け一杯とばかりに杯を差し出すと、もう一方の手で壁の棚を指差した。

 クリップボードに文庫本サイズの写真が留めてある。染みで蝕まれた汚れた写真だが、その写真に黙祷してから杯を乾してくれという。小学生らしき子供を間に挟んだ夫婦の写真で、左側の角刈り頭の人物がデンさんに似ている。

「もしかして、これって?」

「ああ、デンの一番幸福な時代の写真だ」

 徳三郎先生が、重々しく首をタテに振った。

 デンさんは三十のときに女房子供に逃げられた。原因はデンさんの酒に酔っての暴力、今風に言えば奥さんへのDVである。ただ情状酌量の余地がないことはない。

 野球が生きがいのデンさんは、高校卒業後、実業団のチームに所属してプロを目指した。ところが、もう一息でセミプロからプロへという時期に、女房が子供を授かってしまう。悩んだ末にデンさんはプロへの道を断念した。家族を路頭に迷わすことはできない、後は生まれてくる子供に夢を託そう、そう無理やり自分を納得させた。そして無事に男の子が誕生。デンさんはさっそく子供用のグローブを用意して息子の成長を待つ。しかしながら、デンさんの夢を打ち砕くように、息子に小人症が……。

 デンさんにとって辛かったのは、身近にデンさんと同じように野球への道を断念、夢を子供に託した同僚がいたことだった。親子で楽しそうに練習に励む同僚を見るのは、いかにも辛い。耐えられなくなったデンさんは、勤めていた運送会社を辞めた。

 もとより子供に責任はない。デンさんの鬱屈した不満は妻に向く。やがて夫の暴力に耐えられなくなった妻は、子供を連れて雲隠れ。五年後、妻から送られてきた離婚届にデンさんは判を押して返送、親子の縁はそれっきりとなった。

 デンさんの手元に残ったのは、デンさんの元を去った当時小学四年生だった息子の写真が一枚、それだけだ。

「デンのやつも息子が憎かったわけじゃない、その証拠に、デンの免許証入れには、ボロボロになった息子の写真が入れてあるからな」

 そしてつい最近のこと、音信不通の妻と子供の行方が判明した。妻と息子は三陸の海辺の町、妹夫妻の家に身を寄せていた。ただ悲しむべきことに……、行方が分かったのは、二人が大津波に呑まれて行方不明になった後だった。

 東北大震災の津波の後、瓦礫に混じって残された写真やアルバムを拾い集め、持ち主に返す活動が、ボランティアの人たちの手で行われた。写真の一部はネット上にもアップされ、その中にデンさんの妻の写真があったのを、元の同僚が見つけてデンに知らせたのだ。

 震災当時、デンさんの元妻は六十四歳、息子は四十一歳。

 津波で家を流された妻の妹夫妻は、実家のある秋田と山形の県境の町に身を寄せていた。今回、その家を訪問、デンさんは、泥に汚れた妻と息子、そしてデンの三人が写った写真を遺品として受け取った。それはまだ子供が小学校のピカピカの一年生、早く背が伸びろ伸びろといいながら、親子三人が背伸びをして撮った写真だった。

「それが、棚に置いてある写真だよ」

 きっと家族が幸せでいられる時なんて夢のような一瞬だろう。

 杯を手に、太市はそう思う。

 太市が小学五年生の時、太市の母は突然若年性のアルツハイマー症を発症、そのまま行方不明になった。母は「家族に迷惑を掛けたくない、私は死んだと思って」と言い残して姿を消した。父が必死になって捜し、母が成田からシンガポール行きの飛行機に乗ったところまでは突き止めた。しかしその後の足取りが掴めない。そして二年後、女房を捜すと言って、父は太市を一人日本に残し旅に出た。

 そうやって親子三人は散り散りになった。

 お前のことを忘れた訳じゃないと、時おり父はハガキを寄越してくれる。今のところ母の足取りで分かっているのは、バングラデイッシュのカラチまで。もし彼の国から出ていなければ、母はガンジスの河口の国にいることになる。しかし世界の最貧国と呼ばれる国で、記憶が失われていく女性がどうやって生きて行けるというのか。

 母はまだボクのことを覚えているだろうか。そしてこの先親子三人が顔を合わせて一枚の写真に納まることがあるだろうか。

 太市はその茶色いしみで縁取られた写真に手を合わせた。

 

 太市の黙祷を押し破るように、デンさんの奇声が狭いなごみ亭の部屋中に轟く。目を覚ましたようだ。

「あー、またかよ、おい誰かこの酔っ払いを、どうにかしてくれ」

「飲みすぎだよ、一升半は飲んでるぜ、まあ自分の持ってきた酒だからいいけどよ」

「誰か、アパートに連れて帰ってやれ」

「誰が!」

 声と同時に、部屋にいた全員の視線が太市に注がれる。

「ぼ、ぼくがですか?」

 思わず自分で自分を指差す太市に、間髪入れず「駄賃だ、一本もって行け」と、徳三郎先生が手じかの一升瓶を頭上に掲げた。

 朝風呂会のこの席では、自分は一番の若輩者、それに成り行き上ここは頷くしかない。

 寝言のようにブツブツと文句をごねるデンさんを、太市は気合い一番背中におぶった。デンさんも引退して早や四年、筋肉が落ち、更には元々細身ということもあって、見た目以上に軽い。足を踏ん張り、担ぎ上げて、なごみ亭から外へ。

 雪の日の冷風で目が覚めたのか、デンさんが太市の背中で揺れるように身震いをする。

「八十のジジイじゃねえ、下ろせ」

 酒に掠れた声で怒鳴ると、デンさんは降りて自分の足で歩き出した。しかし融けかけた雪の残る濡れた道。太市は足元のおぼつかないデンさんに付き添うことにした。

 団地裏の木造モルタルの安アパートへ。

 デンさんが自分の部屋に入るのを見届け、これで大手を振ってなごみ亭で酒が飲める。

 そう思って太市が勇んで踵を返したその時、デンが太市の腕を掴んだ。

 強引に太市の腕を引き寄せながら、痰の絡んだ声を太市に耳にぶつける。

「とっておきの酒があるんだ、迎え酒を付き合え」

 酒は魅力だが、酔っ払いの相手はゴメンだ。そう思って断ろうとする太市に、

「山廃仕込みに、いぶりがっこで一杯。どうだ。それに怪異譚向けの、いいネタがあるぞ」

 詰め将棋の王手のごときお言葉である。それに怪異譚の締め切りが近いのは確かだ。ここはあっさりギブアップするしかない。そう判断して、太市はデンさんの部屋、四畳半一間の敷居を跨ぐことにした。

 田从なる初物の酒を冷で相伴しつつ、デンさんの話に耳を傾ける。それは怪異譚とは少し趣を異にするものの、十分、いや十二分に太市の身を乗り出させるに足る興味深い話だった。つい数時間前、デンさんが山形から東京への帰途に起きた出来事である。

 その「事件」といった方が良い出来事……。

 

 思い出の写真を受け取ったデンは、秋田と山形の県境に住む友人宅に立ち寄ったのち、後輩の四トントラックを東京に向けて発進させた。ちなみに後輩のトラックは銀鮫号なる名称で、外観をウロコステンレスで飾り立てた美しい車体をしている。

 山形縦断道に出るための国道に入る。昨日から降り出した雪もそれほどではない。これなら楽勝と高をくくっていると、突然の渋滞にぶつかる。大型トラックが下り斜面でクラッシュ、道を塞いでいた。四輪タイヤの内側のタイヤにチェーンを巻かず、スリップしたらしい。普段なら年の功、急ぐ阿呆の事故連鎖と気長に復旧を待つデンだが、すでに荷は搬送済み、空荷の回送便である。帰京の時間を気にする必要のないこともあって、デンはカーナビ頼りに、一度も通ったことのない県道に銀鮫号を乗り入れた。

 道の状態はいい。元スーパー林道の峠越えの道らしい。雪も止んでいる。このまま行けば案外早く高速に乗れると口笛を吹いていると、前方が淡い霧に覆われてきた。山頂に発生した霧が降りてきたようだ。所々にあるトンネルの中にまで霧が流れ込んでいる。

 霧を巻きながらトンネルを抜けると、舗装した道が途切れ、切り立った崖沿いの道となった。左側はガードレールのない崖である。工事半ばで放棄された道らしい。

 カーナビに頼って失敗したかと、舌打ちしながらアクセルを緩めようとした時、ヘッドライトの中、目の前に乗用車の側面が浮かび上がった。慌ててブレーキを踏み込む。間一髪、バンパーが乗用車に触れそうな位置で銀鮫号は停止した。

 突然目の前に車が現れたのは、相手側の乗用車がライトを消していた上に、車体がブラックだったからだ。コンマ一秒気づくのが遅れたら追突していただろう。改めて見ると、車種はプリウス。路肩の落石に車をぶつけたらしく左前部がつぶれ、ボンネットが捲れ上がっている。そのボンネットの脇で人影が立ち上がった。

 ペンライトを振りながら運転席に近づいてきたのは中年の婦人だった。

 事故車を運転していたらしいその婦人は、車の外に降り立ったデンに歩み寄ると、困惑に安堵の色を織り混ぜた複雑な表情で会釈をした。

 事情を聞くと、走ったことのない山道に乗り入れ、疲れもあって運転を誤ってしまった。ケータイの圏外らしく警察もロードサービスも呼べない。二時間待っても、ほかの車が通らない。いったいどうすればと思案していたところに、やっとデンの車が通りかかったのだという。確かに目の前のプリウスの壊れようでは、自力で走るのは無理、業者に回収を頼むしかないだろう。気を利かせて先にデンが声をかけた。

「東京に戻る便だ。道なりなら送ってやるぜ、もっともタバコのヤニの染み付いた座席なんで、居心地がいいかどうかは保障できないが」

 差し出した助け舟に諸手を上げて喜ぶはずと思いきや、目の前の婦人は逡巡するように視線をプリウスの後部座席に向けている。

「荷物があるんなら荷台に積めばいい、回送の便で空気を運んでいるだけだ」

「荷台に人を乗せても問題ないのですか」

 おずおずと切り出す婦人に、なるほどとデンは納得した。同乗のケガ人でもいるのだろう、その人物も一緒に運んでもらえるかどうかを心配しているのだ。

「荷台に人を乗せるのは法令違反だが、別に気にするこたーない」

 そう言って手招きしかけて、デンは、もしやと婦人の顔を覗き込んだ。

「まかさ、死体なんてことは、ない、よな」

 婦人が苦笑して、合図でも送るように右手を挙げた。

 プリウスの背後から人の頭が一つ、二つと突き出る。さらに三つ。

 婦人の前に五人の男児が並んだ。いや子供ではない、みな顔は大人だ。

「乗せてもらいたいのは、この方々なんですけど」

 婦人が控えめに伺いをたてた。


 午前一時。工事途中の山道を抜けて、見覚えのある幹線の国道に出る。

 助手席には婦人が座り、小人症の五人は後ろの荷台に乗ってもらう。通常、バンボディ型と呼ばれるトラックの荷台に窓はない。しかし後輩の四トントラック銀鮫号は、後部観音扉の上部に、換気用の小窓が一対備わっている。外の光を取り込まないブラインドのような窓だが、完全密閉の荷台ほどには閉塞感は感じないだろう。

 小人の男性陣五人には、がらんとした荷台で、クッション用の毛布や運送用のパレットを枕に適当に寝転がってもらった。

 車を走らせながら婦人とやり取りして分かったのは、荷台の五人は、東京の某芸能プロダクション系の小劇団の団員であるということ。通常は田舎周りの大衆演劇の一座に客演、いわゆるドサマワリをしているのだが、客層やプログラムの構成によっては出番がない。合間を埋めるように都会のアンダーなクラブにも出演。小人のダンスや、アクロバットを織り交ぜた寸劇は、もの珍しさもあって結構受けるのだという。婦人は五人のマネージャーで、今回は札幌での仕事を終えての帰りである。

 スケジュール帳らしき厚手の手帳を捲りながら、婦人が「助かった」を繰り返す。いざとなれば、自分がケータイの圏内か、近くの町まで歩き、移動の車を手配しなければと考えていた。その必要がなくなり、あろうことか、全員一緒に東京まで連れて行ってもらえることになったのだ。

「先ほどは失礼しました」

「なにが?」と、デンが上機嫌に聞く。孤独な夜のドライブに、眠気覚ましの話を聞かせてもらえそうな一行が同乗することになったのだ。それがデンとしては、この上もなく嬉しいのだが、デンの気持ちなどまるで気づかぬようで、迷惑をかけているとばかりに婦人が畏まって言う。

「後ろの人たちに後から出てきてもらったことです」

 便乗を頼む際に、最初から全員が姿を見せていなかったことを気にしているのだ。それはそうかもしれないと、デンは笑った。めったに車の通らない霧の峠道、そんな場所で小人のような連中がゾロゾロと出てきたら、止まった車も気味悪がって逃げ出すだろう。

「なあに、今日は気分が良かったんだ、小人でも河童でも、ヤーさん以外なら誰でも相乗りOK。あんたたち、運が良いぜ」

 彼らにとっては事故にあったのだから、とても運が良いとは言えないはずだが、それはさておき、デンは免許証入れから写真を取り出すと、中の息子を指で示した。

「せがれのお導きさ。小人症だったんだよ、オレの息子は」

 なるほどと婦人が得心のいったように大きく頷いた。

 婦人はひとしきり謝礼の言葉を繰り返すと、ようやく気が済んだのか鼻歌を口ずさみ始めた。がその頃からである。何かが可笑しいと、デンが思い始めたのは……。

 婦人の鼻歌に、時々声とは違う可笑しな音が混じる。

 車の運転をしていると音に敏感になる。車両の不具合は、まずは音の異変で知るものだ。

 数秒おきに聞こえるそれは、何か重い物を引きずるような音にも感じられる。鳴っている場所は、探る間でもなく婦人の側からだ。間違いない、今もまた鳴った。

 デンは運転席の右上に目を向けた。そこに鏡がある。

 この銀鮫号の持ち主は二十代後半の若者で、助手席にガールフレンドを座らせた際、運転をしながら彼女の顔を眺めることができるようにと、そこに鏡を取り付けた。

 ハンドルを握りながら、横目でその鏡を見やると、婦人は鼻歌を歌いつつ、モゾモゾと体を揺すっている。

「トイレなら、あと五分でインターの入り口、我慢できないようなら路肩に止めるが」

「いえ、違います、これはクセなんですよ」

 慌てた様子で答えると、婦人がぎこちない動作で服の袂を整えた。

 遠慮しているのかなと思いつつ信号で停止、再度鏡に目をこらし、思わずデンはハンドルに乗せた手を浮き上がらせた。信号横の街灯が窓越しに車内に差し込み、婦人のコートの裾を照らしている。そこになんと手が突き出ているのだ。もちろん婦人の左右の手は膝の上に重ね置かれたままだ。

 信号が青に変わった。何事もなかったように車を発進させながら、デンはある情景を思い起こしていた。かつてデンがアングラ演劇に凝っていた時に見た光景である。

 交差点を抜けると、デンはゆっくりとトラックを路肩のスペースに寄せた。

「どうされました」

 訝しげに窓の外を見やる婦人に、デンがハンドルを指先でトントンと叩く。

「気持ちは分からないでもないが、しかしなあ……」

 デンが婦人のコートの裾に向かって怒鳴った。

「おい、そんなところで居眠りをするな、寝るなら後ろの荷台に行け」

 顔色を変えた婦人の足もとが、不自然に揺れる。

「もう、あなたが、いびきなんか、かくからよ」

 歯噛みをするように言って婦人が自分の股の間をパンと叩く。するとコートの裾を割って、アフロヘアーの少女が顔を突き出した。


 助手席に婦人と肩を寄せ合うようにして、同じくらいの身長の少女が並ぶ。窓側が婦人、運転席側が少女で、座席から投げ出した二人分、四本の短い足が、車の震動に合わせて揺れる。何が起きたのか。

 実は峠の事故現場でプリウスの横から姿を見せた婦人は、小人症の婦人を、別の小人症の娘が肩車で担ぎ上げた姿だった。上から丈の長いコートを羽織れば、パッと目には一人の大人の女性としか見えない。落語の二人羽織は人が前後に重なる形だが、この場合は人が縦に繋がった形である。トラックの助手席にはデンが運転席に回ってくる間に素早く乗り込み、婦人が助手席に正座。二人羽織の土台役を務めていた少女が、座席の下に体を折り曲げてしゃがみ込む。コートの裾からは少女の膝から下しか見えないので、よもやデンも、二人が一人の人物を演じているとは思いもしなかった。あの不可解な音、いびきの音に気づくまでは……。

 学生時代にデンは、場末の小劇場で、小人症の役者が演じる二人羽織の芝居を見ている。小人症だけでなく障害を持つ人も参加して演じられたその芝居は、人の恥部を曝け出すようなおどろおどろしさに満ち、デンの中に強烈な印象を刻み込んだ。今回、コートの裾を割って覗く第三の手を見た瞬間、その時の画像がフラッシュバックで脳裏に蘇ったのだ。

 なお、これは余談だが、六十年代の学園紛争華やかなりし時代に学生時代を送ったデンは、機動隊に暴行を加えて警察に追われる身となり、北海道に渡って牧場に身を寄せた。当時はそういう学生が珍しくなかったのだが、縁は奇なもの、その牧場でデンは後に妻となる女性と知り合った。

 おそらく、小人ばかり七名も事故車の周りにいたら、止まった車は、その異様な光景に、そのまま通り過ぎてしまったろう。だからショウで披露する芸を使い、二人羽織で大人、それも女性の姿を装って車を止めたのだ。一人でも大人がいれば、たとえ小さい者たちが連れだって顔を見せても、引率者とその関係の一団に見える。

 婦人が弁解がましく言い訳を重ねる。

 車に乗せてもらえることが決まった段階で直ぐに正体を明かそうとしたのだが、あれよあれよと乗車を勧められ、機を失ってしまった。足元から吹き上げてくるヒーターの温風で、土台役を演じていた娘が居眠りを始め、それに自分も座席に膝を折って座ったために痺れが酷く、堪え切れずに告白しようとした矢先に、娘のいびきをデンに気づかれてしまった。本当に自分は、人を騙すそうなどという気は少しもなくて……、

 くどくどと言い訳を並べる婦人と比べて、土台役をしていた少女は、不自然な姿勢から解放されて、嬉しそうに何度も伸びをしている。横目で見る限り、少女としては肩幅の広いがっしりとした体つきで、胸も大人並みに膨らんでいる。顔は少女っぽいが、歳は三十か、もっと行っているかもしれない。

 土台役の娘の肘を叩いて、あんたも謝りなさいと、婦人が声を抑えて促す。その説教めいた注文に、娘がため口で何か言い返す。激しい口調だ。

 女の言い合いなど聞きたくもないと、デンはラジオのスイッチを入れた。

 女性アナウンサーの落ち着いた朗読が車内に流れる。ラジオ深夜便だ。それを聞き流しながら、デンは、そういえばと彼女たちが乗っていたプリウスの車内を覗いた時のことを思い起こした。運転席が身障者向けに改造してあった。いくらなんでも二人羽織で運転をやるわけには行かない。一人で運転するとしたら、足元のレバーを改造するか、手で操作できるタイプの車でなければ無理だ。もしかしたら運転していたのは、婦人ではなく、後ろに乗っている男性陣だったかもしれない。

 深夜便の放送が朗読から音楽に代わった。

 軽快なサルサのリズムが流れ、それに合わせてデンが口笛を吹く。

 婦人はくどいほどに謝罪の言葉を並べていたが、デンは全員が小人症の人間であったことを、全く気にしていなかった。なんせ七人の小人である。

 現役時代、デンは日本各地をトラックで走り回っていた。それは現役を引退し、風呂仲間との将棋だけが楽しみとなった今とは正反対の、刺激に満ちた旅回りの暮らしだ。話題に事欠かない毎日ともいえる。いま現在、普段の生活で人と話を交わす際に何が辛いといって、話題が昔話になることだ。同じネタの蒸し返しばかり。若い連中が日々新鮮な話題を酒の肴に持ち出してくるのを見るにつけ、老境に入った自分が思い知らされ嫌になる。そんな錆びの浮き出たような日々に一石を投じる新鮮なネタ、それが手に入った。なごみ亭に集まる連中をオーッと唸らせる話題の提供者側に、久々、自分が回れるのだ。これが嬉しくないはずがない。それに、うまい具合に明日は月イチの朝風呂会。

 たんまりと仕込んだ酒と肴に、七人の小人。自分が会の主役になるのは、当たり前田のクラッカー。と、これは古すぎる言い回しか。

 皆の反応を想像すると思わず頬が緩む。

 しかしながら、デンが、にやついていられたのも、ここまでだった。

 ハンドルを握るデンの目が、サイドミラーに映る車のライトを注視する。

 運転の仕事を続けていると、無意識に後続の車をチェックするようになる。見ていないようでも見ている。後ろの乗用車が、この十分ほどの間、ピタリと後ろに付けて変わらないのをデンは感じていた。五分ほど路肩に寄せていたはずなのに、また後ろに付けている。ということは、あの車もどこかで停止、こちらが来るのを待っていたということだ。百パーセント同じ車とは断言できないが、車の少ない深夜の時間帯、可能性は高い。

 後方に注意を払いつつ車を走らせる。

 時計が零時を回り、目の前にインターの入り口が迫ってきた。高速に乗れば車線が増える。横に並んで誰が運転しているか見てやろう。

 そう考え、チラチラとサイドミラーで後方を見やるデンの横で、中年の婦人と、いかり肩のアフロの娘は、頬を寄せ合うようにして話を交わしている。小声だがガールズトークのような会話の弾み具合からして、どうやら喧嘩腰の言い合いに決着がついたらしい。

 ヘッドライトの照らす前方の闇を見つめながら、アフロの少女がデンに話しかけてきた。カーナビを操作してもいいかと聞く。サービスエリアの位置を確認したいらしい。すでに見知った道に入り、デンはカーナビを見ていなかった。

「好きにしてくれ」

 気さくに答えると、少女が投げキッスを返して寄こした。

 コートの裾から顔を見せた時も髪を弄るだけで何も言わず、婦人に謝るように促されても無言だったので、人見知りか社交性の欠けた若輩者かと思っていたが、要は自分の関心でしか喋れない今風の娘ということなのだろう。

 少女は慣れた調子で画面を操作、画像を広域図に移行すると、チリチリのアフロヘアを苛つくように片手で掻き回した。

「んー残念、サービスエリアを過ぎてるな。次のは四十五キロ先か……」

 少女がブツブツと御託を並べる横で、婦人のポーチの中で軽快な音が響く。モバイルの呼び出し音、ディズニーのティンカーベルのテーマだ。

 連絡を待っていたらしく、婦人は素早く腰のポーチからピンク色のスマホを抜き取ると、相手に応じた。と婦人の声を聞いて、思わずデンは顔を助手席に向けた。話す言葉が外国語、それも英語ではない、初めて聞く言葉だ。

 デンがラジオの音を絞った。会話の邪魔にならないようにとの配慮もあるが、その実、婦人の会話をしっかり聞いてみたかったのだ。

 婦人は流暢にしゃべり続けている。

 その中国語のような声調のある言葉をBGMに、高速に乗るインターのカーブに入る。変わらず後ろの車もついてくる。車種が分かった、ダークグレーのクラウン。

 後ろにピタリと着けたクラウンを注視しながら、隣のチリチリ頭の少女に聞く。

「おい、隣のおばさん、何語を喋ってんだ」

 一瞬の沈黙のあと、「もちろん、小人語!」と、少女が冗談めかして返答。少女は直ぐに話題を逸らすように、運転席の上を指差した。

「これさ、なに映すの?」

 運転席の左上、普通車ならバックミラーのある場所に横長のモニターが取り付けてある。

「ああ、それはバックカメラ……」と、話しかけたデンを遮り、「これか」と言って、少女がダッシュボードの物入れに突っ込んであったリモコンを取り上げた。

「おい、いじって壊すなよ」

 横目でデンを睨みつけるや、アフロの少女が拳を固めた肘を上に突き上げた。

「フン。これでも、幼稚園の時からケータイを持たされてる世代だよ」

 チリチリの髪を軽く振りまわすと、少女が手にしたリモコンを上に向けた。そして盤面のボタンを素早く操作。八インチのモニター画面に電源が入り、夜の高速道が映し出される。画像の角度からしてカメラは荷台の左側上部に取り付けてある。

 しなやかに動く少女の指に合わせて、画面が拡大、その画面が今度は四分割に変化する。

 デンが肩を竦めた。ガラケーから一向にスマホに踏み出せないでいるデンとは、電子機器に対する親和度がまったく違う世代なのだ。

 玩具を手にしたように嬉々とリモコンを操る少女の横で、相変わらず婦人はモバイルを手に、抑えた声で話を続けている。

 トラックが高速の流れに合流。間にワゴン車を一台挟んでグレーのクラウンも続く。

 デンは学生時代、ラジオの短波放送を聞くのを趣味にしていた。トラックの運転手になってからも、折に付け世界各国の放送を聞いていた。だから中国語にせよアラビア語にせよ、世界の主たる言葉は耳に馴染んでいる。ところが、いま婦人が喋っているのは、どう聞き耳を立てても初めてきく言葉だ。当然のことだが意味は分からない。しかし、きつい口調の混じる話し振りは、何か深刻や事態でも起きているように受け取れる。仕事の予定に変更でもあったのだろうか。

 そんなことに思いを巡らしつつ、デンがまた視線をサイドミラーに向けたとき、耳が婦人の会話のある単語を捉えた。

 まさか……。そう思って、今度は運転席右上の例の丸いミラーで、婦人の様子を盗み見る。デンの耳が、またその単語を拾う。

 信じられないとばかりに小さく首を振るデンの横で、少女が口笛を鳴らした。

「へえ、これ暗視機能も付いてるじゃん」

 声に釣られてデンもバックカメラの映像に視線を走らせる。少し画像は乱れているが、後続のクラウンが昼間のようにくっきりと見て取れる。

「すごーい、偏光処理もできる。ほら運転席の人の顔が……」

 言いかけて少女が、画像に目を貼りつけたまま声を呑みこんだ。そして、それまでと打って変わった厳しい表情で、婦人の横腹を突いた。

「チーフ、あいつらだ」

 モバイルを耳に当てた状態で、婦人が体を折るようにして画面に顔を寄せる。その顔が一瞬にして強張るのをデンは見て取った。

「何、どういうことだ、あいつらって」

 デンもハンドルを握ったまま、首を横に振って画像に目を走らせる。映っているのはクラウンの運転席。そこに骨格のはっきりした西洋人風の顔がある。着ている服は、軍属が着るような胸ポケットの付いた制服だ。瞬間、デンの脳裏をあることが過ぎった。

 押し黙ったまま画面を睨みつけている婦人と娘に、デンがその言葉を口にした。

「あんたら、もしかしてトキップなのか」

 二人が宇宙人にでも遭遇したような顔で、デンを睨んだ。


 話に聞き入っていた太市が、初めて口を挟んだ。

「なに、そのトキップって?」

「ああ、この言葉を知ってる連中は、まずいないだろう」

 デンは一息入れるように、湯飲みに注いだ酒を飲み乾すと、太市にトキップとは何かを話し始めた。

 そのトキップ。モンゴロイドから派生した北方系の民族には、ネネツやユカギール、アイヌなど多数の少数民族が含まれる。その一つに、ほとんど名を知られていないトキップ族なる一族がいる。北東アジアの森林地帯に住む少数民で、特徴は身長が極端に低いということだ。どのような民族であれ、体の小さな者は、同じ境遇の者と婚姻を結ぶことが多い。それが繰り返されるうちに、極端に背の低い特徴が遺伝的に固定されて一族をなした、と通常は解釈されるが、蒙古族とは全く系を異にする一族とみなす専門家もいる。現生の人類に広く見られる小人症との違いは、小人症の者の多くが体長に比して頭部が大きくまた足が短いのに対して、トキップの場合、プロポーションはモンゴロイドのそれであるということ。ただ小人症の者でも、同じタイプが散見されるため、外見で小人症の者との区別はつかない。

 山棲みの民であるトキップは、他の民との交流を嫌い、密かなネットワークの中で暮らしている。まれに人里に下りるトキップもいるが、その場合は彫刻や籠造りなどの職能人として人の家に入る。小柄な体格で屋根裏に居候をすることがあり、それが後に座敷ワラシの伝承とも結びつく。

 なおトキップという呼び名だが、言語は隣接する民族同士、語彙が重なることが多い。一族の名を現すトキップという呼称は、コノハズクを意味し、アイヌ語のコノハズク、トキットに繋がる言葉である。ではなぜコノハズクか。実はトキップは夜目が利く。この特殊な身体能力ゆえに、トキップは人類として稀な、夜行性の民として生きてきた。

 精確な統計はないが、現存するトキップの民は、日本北部からシベリア東部にかけて二千人規模ではないかと見られている。なお北海道にはコロボックルの小人伝説があるが、コロボックルは親指サイズ。哺乳類の身体機能がそのサイズでは成立不能で、あれは架空のおとぎ話である。


「あなたは何者!」

 助手席で睨む婦人と少女に、デンが慌てたように弁明する。

「間違わないでくれ、女房がアイヌだったんだ」

 先にも説明したようにデンの息子は小人症である。その息子の頭を撫でながら、女房が「まるでトキップのようね」と口にした。トキップ族という者がこの世にいることをデンが耳にした瞬間である。もっとも女房も詳しいことは知らず、実際のトキップには、一組の夫婦者に会ったことがあるだけ。デンの女房が出会ったトキップ族の夫婦は、独自の言葉を駆使していたという。

「あんたがケータイに向かって話す中に、トキップという言葉が出てきた。三度ほど聞き取れたかな。それでもしやと思ったんだ」

 浮かし加減の腰を落とした少女が、信じられないと首を振った。

「私、一般の人からトキップという言葉を聞くの、初めてだわ」

 デンが謙遜するように小さく首を竦めた。

「感心するのはいいが、後ろのクラウンのことを忘れないほうがいいぜ」

 慌てて画面に視線を戻す少女の横で、婦人もモバイルを操作。早口で話し始めた。

「ずっと付かず離れずでくっついてくるから、変だとは思っていたんだ。その様子じゃ、あまりご対面したい相手ではないらしいな」

「気づいてるならどうしてもっと早く教えてくれないのよ」

 画像に目を喰い付かせながら、横手で少女がデンの腿をつねった。本当に怒っているらしく、小鼻をヒクヒクと膨らませている。

「そっちだって、二人羽織を隠してただろう」

「それとこれは別の問題よ」

「おしゃべりしてるときじゃないでしょ、やつらの様子はどう」

 婦人の問いかけに、少女が眉間にしわを寄せた。

「えーと、日本語では何だっけ、そうそう、金魚のふんだ」

 火急の際の冗談、婦人は呆れたようにモバイルの尻で少女の頬を突いた。そして体を倒して運転席のデンに顔を向けると、声高に呼びかけた。

「このままだと、あなた様に迷惑がかかるかもしれません。私たちは次のサービスエリアで降りて、高速バスに乗り換えます」

「オレは別にそれでも構わないが、問題は後ろの連中がサービスエリアまで待ってくれるかどうかだな」

 話の意味が分からないとばかりに首を傾げる婦人に、デンが顎を振ってサイドミラーを示した。

「あんたらモニターの画面しか見てないから気がつかなかっただろうが、横の車線を走っているトレーラーにも、似たような連中が乗ってるんだ、おっと、もう一台増えた」

「まさか」

「おそらくクラウンの連中と同じ穴の狢だな。トレーラーで前後を挟んで無理やり高速を下ろし、どこかに誘導するつもりだろう」

 婦人が窓から外を覗くのと、トレーラーの一台がこちらを追い越して前に出るのが同時だった。続く一台は逆に後方に下がった。婦人が目つきを変え、慌ててモバイルを操作、早口で話し始めた。また知らない言葉……、いやこれはロシア語だ。

 少女がデンの膝をさすりながら言う。

「迷惑の大盤振る舞いになるかもよ」

「迷惑と思うなら、最初から乗せたりしないさ。これも死んだ息子の導きだと思って付き合ってやるさ」

 デンがハンドルから離した左手で、ナビの下に吊るしたマイクを揺すった。

「荷台に繋がるマイクだ。それを使って、俺の言うことを後ろの連中に伝えてくれ、ロシア語でも何でもいいぞ」

「どういうこと」

「急ぐんだ、時間がない」

 デンは車を内よりの車線に寄せると、後続の車を睨みながら、ある思いつきを口にした。

 

 数分後。

 デンが少女に耳打ちする。少女がそれをロシア語に翻訳、伝言ゲームのようにマイクに向かって荷台の連中に呼びかける。婦人も相変わらずモバイルを手に話し続けている。

 高速の降り口まであと五百メートル。デンは奥歯をかみ締め、幸運を祈っていた。後ろの連中が仕掛けてくる場所が、次のインターでないことをだ。一応内側の車線を保って走っているから無理なアタックはしてこないと思うが、油断はできない。

 軍の関係者だとすれば、その道にかけてはプロだろう。自分の下手なドライブテクニックが通用するかどうか。追跡していることをこちらがまだ気づいていないと向こうが思ってくれていれば良いが。そのことからすれば、チャンスは一度きりだ。

 若い頃は無謀な運転もやった。しかしバイクを引っ掛け、免停を食らってからというもの安全運転に徹してきた。それを神様が見て多少の免責をくれるとありがたい。

「後ろ、用意ができたそうよ」

 言うなり、少女がデンの腿をパンと叩いた。

 あと三百メートルで降り口、「ヨシ!」と、アクセルに力を込める。

 後ろのクラウンも合わせてスピードを上げる。画像で左車線にいるトレーラーは後方二百メートルにつけている。前のトレーラーは、この際、関係ない。

 降り口まであと五十メートル。ここだ。

「ハウ」と小さく気合を入れるように息を吐くと、デンは少女の腕を鋭く突いた。

 少女が「ゴーッ!」とマイクに向かって呼びかける。その瞬間、トラックの後部扉、通気用の小窓が付き破られ、その四角い穴から後方に向けて小型の投光機の光が投じられた。荷台の内側に取り付けてある、荷の上げ下ろしの際に使う照明だ。

 突然の光にクラウンの走行が乱れる。

 その隙をついてデンがハンドルを切る。ブレーキをかけながら一気に左斜線から路肩の避難帯に。ハザードランプを点灯させ、停止と同時に、ギアをバックへ、そして後進。脇を追走のトレーラーがブレーキをかけたのだろうタイヤを軋ませながら追い抜いていく。しかし後続の車のために直ぐには止まれない。

 けたたましい警笛の音をかい潜るようにしてバック。左にハンドルを切って降り口に突っ込んだ。荷台の側面が路肩の壁に当たって、火花を散らす。

 猛スピードで降り口のカーブを抜けて一般道へ。

 さらに細かい道を幾つか曲がり、道路脇に木が生い茂る暗がりに車を止めた。

 車と共に息を潜めてあたりの様子を窺う。デンの指が握り締めたハンドルをコツコツと時計の針のように叩く。五分ほど様子を見るが、追ってくる車はいない。

 さらに五分。

 身を縮めていた婦人が軽く伸びをすると、前方のコンビニの明かりに視線を投げた。

「トイレを借りに行ってもいいかしら。緊張でちょっと……」

 デンが指の動きを止めた。

「もちろんさ、それより二人羽織で行くのか」

 婦人と少女が顔を見合わせ、プイと互いに顔をそむけた。少女が愉快気に言った。

「これは別々よね。でも私も行ってこよ。後ろのエトロフのジイサンたちに差し入れも買ってきたいし」

「じゃあ、おれにもデリバリーしてくれ、カフェオレをラージで」

 子供のような背丈の女性が二人、手を繋いでコンビニに向かうのを運転席で見送ると、デンは車体のチェックに車を降りた。案の定、車体側面、ウロコステンを挟み込んだサイドバンパーに、派手な引っかき傷が付いていた。しかしあの状況、このくらいで済んで上出来だろう。タイヤの具合も確認。こちらは問題なし。十分ほどで二人は戻ってきた。

 渡された熱いカフェオレを、二口ほど飲み下す。強張った肩の緊張が温かい飲みものに融けていく。もう一口。そして車を発進させようとエンジンにキーを入れたところで、デンは意識が遠退くのを感じた。

 

 気がついた時には午前二時。車を止めてからちょうど一時間が経過していた。

 助手席に座っていた女性陣も、荷台のロシア系らしきトキップの連中も姿を消していた。彼らを乗せる前と変わりなく、毛布が丁寧に折り畳まれているのを目にすると、まるでこのトラックに彼らが便乗していたことが嘘のように思える。

 まさか、本当に夢のことだったのだろうか……。

 思いついてドライブレコーダーのデータをモニターに再生。あの追跡の車たちが映っているのではと期待するが、データ無しの表示しか現れない。最初からスイッチが入っていなかったのか、それともデータが消されてしまったのか。

 全ては霧の中、だった。

「なんだよそれ、この話、夢の話なの?」

 口を尖らせた太市に、デンが湯呑みに酒を注ぎながら首を振った。

「これだけなら、オレもお前に話を聞かせたりしないさ。さっきの女房から聞いた話には、続きがあるんだ」

 怒ったようにデンが湯呑みの中の酒を呷った。

 そしてデンが話し始める。トキップの秘められた財宝の話について……。

 

 ひっそりと暮らしていたトキップ族の運命が変わったのは、前の戦争の時である。

 トキップの前途に暗雲が垂れこめた。

 日本軍が、極寒の地で行う作戦に、当地での生活に長けたアイヌやオロチョン、そしてトキップなどの少数民族を引き入れたのだ。なかでもトキップは、体が小さくかつ夜目も利くため、諜報活動で大いなる貢献をした。ただ裏舞台でのトキップの活躍とは関係なく、日本は敗走を続け戦争に敗れる。その敗戦のみぎわに日本軍からトキップに重大な任務が課せられた。秘匿物資の内地への回送である。しかしながらトキップは海の民ではない。船に不慣れなことが災いして、秘匿物資を積んだ船をオホーツクの海に沈めてしまう。

 全ては暗い海の底に、と思われていたが……。

 どこからともなく情報が流れる。

 命を受けたトキップが、安全を期して、船を途中で千島のいずれかの島に寄港させ、そこに財宝を陸揚げした。あるいは、途中で荷を別の船に積み替え、内地にたどり着いた後、北海道の廃坑の中に運び込んだ。よくある伝説まがいの財宝譚とも思えるが、敗戦直後の道内を米ソの諜報部員が、しゃかりきに何かを探して走り回っていたのは事実だ。しかし真相を知っているはずの肝心のトキップの一族は、完璧に自分たちの所在を闇に隠してしまった。森の奥深くに逃げ込んだのか、それとも小人症の人間として都会の雑踏に紛れこんだか。情報の出所を含め、財宝の在り処は分からず仕舞いに終わった。そして戦後の占領期も終わり、諜報関係のスタッフも彼の地を離れる。

 ただ米ソの関係者が祖国に戻った後も、地道に情報を求めて道内を歩き回る者がいた。それがアイヌの某氏、デンの女房の祖父にあたる人物である。彼は隠された財宝を見つけ出し、アイヌ再興の資金にと考えていた。

 しかしその女房の祖父も、財宝に行き着くことなく、戦後十年の節目に亡くなる。

 今回の事件に出くわし、デンの脳裏にいの一番に浮かび上がったのが、その隠匿物資の話だった。もしかすると、あれは事実なのではないか。

 独自の言語を話す小人と、それを追う軍関係らしき白人系の男たち。小人のなかにはロシア語を話す者もいる。この小人たちはトキップに違いない。

 考えうるシナリオはこうだろう。戦後八十年の今に至って、トキップの掠め取った秘匿物資の在処が判明した。そして、財宝を巡る争奪戦が始まったのではないか。

 確たる証拠はない。残されたのは車の側面についた傷だけだ。

「全ては霧の中……か」

 そこまで話すと、デンさんは深酔いした顔を膝の間に埋めた。

 

 話を聞いての帰途、太市は考え込んだ。

「霧の中?」、果たしてそうだろうか。

 自分がいま匿っている小人症の青年マルコは、六通のパスポートを持っていた。それに事件に巻き込まれたようなケガも。もしマルコが、デンさん話すところのトキップだとしたら、昨夜デンさんが遭遇した小人の一団とも、何か関係があるのではないか。

 まさかとは思うが……、

 考えながら家のドアを開ける。

 と太市の目に、玄関に並んだ姉のヒールと、百会の女らしからぬズック靴が飛び込んできた。その瞬間、太市は一歩足を後ろに引いた。帰宅時に太市は仇敵の百会が家にいるかどうかを確かめる。その習慣が太市を惨劇から救うのだが、この時もそうだ。

 太市が重心を後ろに移動した刹那、竹刀が鼻先を掠めた。

「てめえ、私の部屋に入ったな」

 目の前に刈り上げの短い髪を逆立て、百会が怒りの形相で立っていた。手にした竹刀がブルブルと震えている。

 百会の部屋は二階の西側。百会はドアにカギをかけ、姉や妹、それに母親の美里さんでさえ中に入れない。百会の部屋は何人たりとも立ち入ることを許されない、この家の聖域、ブラックボックスなのだ。もっともドアに取り付けてある大きな南京錠は、立ち入り禁止の意思表示で、カギが本当に掛けられることはない。ただ禁を破った時の百会の怒りを思えば、あえて愚を犯す家族はいない。

 身に覚えの無いことだった。

「な、何のことだよ」

 後ずさりをしながら伺いを立てる太市に、百会が阿修羅のような顔で迫る。

「てめえ、しらばっくれるのか、これが落ちてた、私の部屋によ!」

 百会が足で蹴飛ばしたのは、太市が普段被っている毛糸の帽子だ。

「思い知れ!」

 言うなり裂帛の気合で竹刀が太市の喉元に突き出された。

 ギャーッと悲鳴を上げかけ、ごくりと唾を呑み込む。竹刀の先端が太市の頬を掠めて後の壁を突いていた。

 ヘビに睨まれた蛙のように体の固まった太市の鼻先二十センチ、竹刀の胴に扇子の柄が当てられていた。いつ姿を見せたのか、姉の万知が扇子を使って百会の太刀筋を逸らせたのだ。扇子を回すように返して万知が竹刀を払う。

 命拾いをしたと思うと同時に、足が萎えて腰が砕けそうになる。

「うーん、怒りに任せて剣を振るから、太刀筋が汚れているわね」

 伸びやかに言って百会に体を寄せた万知が、扇子の先で自身の頭をチョンとはたいた。

「ごめんね百会。あなたの部屋に入ったのは私。電気が付けっ放しにしてあったから、消しに入ったの。洗濯物を抱えた格好だったから、その時に落ちたんだと思うわ」

「うそ、姉さん、こいつを庇ってそんなことを言ってるんでしょ」

「そんなことないわ、それより今日はあなたの誕生日よ。怒ると、せっかくの美人が台なし。今度、手合わせをしてあげるから、それで勘弁して」

 百会が意外そうに顔を上げた。

「え、手合わせをしてくれるの?」

 眦を決した怒り心頭の百会が、口角を引き上げ満面に笑みを浮かべる。今は薙刀を専門にしている姉の万知だが、高校時代には剣道部の部長を務めていた。その太刀筋は舞のごとく美しく、それを見て百会も剣道を始めたという経緯がある。

「わかった、でも、もしこいつが本当に私の部屋に足を踏み入れたことが分かったら、その時は、喉を突き一発でしとめるよ、血反吐を吐かせてやるんだから」

「はいはい、見届けさせてもらうわ。そんなことより、あなた合宿から帰ったままでしょ、シャワーを浴びてきなさい」

 汗で照かった百絵の肌を見て、万知が扇子の先を洗面所に向ける。万知は、母親の美里でも手に負えない百会の、唯一のご意見番なのだ。

 姉に促されて百会が風呂場へ。仕切りのドアが閉まるのを待っていたように、万知が太市の耳を掴んで引っ張った。そしてこちらへ来なさいと、太市を台所に引き込んだ。二人きりになるや、万知が普段見せない厳しい顔で太市を見据えた。

「太市君、どうして百会の部屋に入るなんてバカな真似をしたの、自殺行為でしょ」

 澄み切った真剣な表情。美人は怒った顔も美しいなと思う間もなく、万知の平手が太市のホオをピシャリと打った。

「これは百会の代わり。人の個室に許可なく入るのはルール違反よ、反省なさい」

「でも、ボクは……」と言いかけ、太市はあっと口を半開きに開けた。

 あいつだ、と思ったのだ。

 太市は、万知に平謝りに謝ると、階段を駆け上がって自室に飛びこんだ。

 

 マルコはまだ帰っていなかった。と押入れに人の気配が……。

 ここか! と思い切り引き戸を開けて、太市の体が強張る。中に女性が横たわっていたのだ。一瞬、死体という言葉が頭を過ぎり、慌てて戸を閉める。

 その押し入れの引き戸が、最後の数センチのところでピタリと止まった。ピンク色のマニキュアを塗った指が戸に掛かっていた。中から声がした。

「僕だよ、分からないかな」

 男っぽい太い声。マルコだ。

 縮こまった手足を解すようにして、押入れからストレートヘアーの女性がはい出してきた。服装も女学生っぽいチェックのスカートに刺繍の入ったセーター。間近に顔を寄せて、ようやくそれがマルコだと確証が持てた。化粧をしているのだ。髪はカツラか。

「お、お、お前だな、百会の部屋に入ったのは」

 上からのしかかるようにして問い詰める太市を、マルコはうざったそうに押し返すと、苦悶の表情で「無理をしすぎた……」と零し、胸を押えた。

 わざとらしい仕草だが、確かに息は荒い。それに瞼が小刻みに痙攣している。調子が悪いのは本当だろう。実際、ヤンの手を握ると熱い。太市が部屋に運び入れた時よりも上がっている。呆れたように太市が問い質した。

「その体でどうして外に出たんだ、おまけになんだよ、その格好は……」

 マルコが息を継ぎながら「これさ」と言って、ポケットからスマホを取り出した。

 今後のことを考えると、連絡用のスマホがないと身動きがとれない。だから無理を承知で駅前の代理店まで出向くことにした。その際、百二十センチの身長では、どう見ても小学生に見えて、契約を断られる可能性がある。そこで少しでも年齢を上に見せるために女装をしたのだ。

 説明を聞いて、なるほどと頷く。メークもあるが、やや丸顔の顔立ちからして、今着ている夢見る乙女とでも言った服装と合わせれば、小柄な女子高生には見える。

 立っているのが辛いのだろう、マルコが柱に寄りかかって体の力を抜いた。

「焦ったぜ、玄関に女ものの靴が並んでいたから、女装に使えそうな服や化粧品くらい揃っているだろうと踏んでいたら、何もないんだからな」

 そうだろう。性同一性障害の千晶は論外として、美里さんも万知さんも、化粧はライトメイクで、ファンデーションに地味な口紅を付けるていどだ。それに百会も、千晶とは別の意味で、女らしい格好とは無縁の暮らしをしている。

「しかし、じゃあ、その服はどこで?」

 目の前の乙女チックな服に視線を向けると、マルコが手で階下を示した。

「剣道の胴衣を引っ掛けた姿見の後ろに、ゴスロリのコレクションがあるとは思ってもみなかった」

「胴着って……、ちょっとまて、その服、百会の部屋にあったのか」

 なんとウィッグに付け爪にカラコンまで、あらゆる変装の、否、化粧品が俳優の控え室のごとく揃えられていたという。おまけに姿見の横のボードには、可愛い衣装を着て撮った写真のコレクションが……。

 ウソだろう、あり得ない話だ。あの刈上げターミネーター頭の百会が、ゴスロリファッションに填まっているなんて。

 かつて父親に強姦されかけた百会は、それ以来男性不信に陥り、自分の中から女性的なものを排除するようになった。男装の麗人で有名な川島芳子と同じである。千晶が女でありながら心が男なのと比べ、百会は自身の女性の部分を否定して男っぽく振舞っている。しかし、それは見せかけだったのか?

 百会が自分の部屋に親さえ入れない、その理由がこれか。

「あ、しかし、ということは」

 太市は絶句した。彼女が秘密にしている服を持ち出し、化粧品を使いまくったのだ。

 バレれば、百会は間違いなくそれを太市のしわざと見なすだろう。

「まずい、本当に殺される」

 頭を抱えた太市に、マルコが訝しげな目を向けた。

「どうした、何かまずいことでもあるのか」

「なんてことを……」

 太市がわなわなと指を震わせマルコの胸倉を掴む。とそのマルコの胸ポケットで、真新しいスマホが軽快なボサノバのリズムを刻み始めた。タイミングを計ったような着信に、気勢をそがれて太市が掴んだ手を離す。

 マルコは太市に背を向けると、スマホに向かって流暢な外国語で話し始めた。

 英語ではない。マルコの故郷ブラジルの言葉、ポルトガル語らしい。胸が痛むのか、時々息を継ぐように声を詰らせている。恨みつらみを投げつけてやりたいが、電話中ではそうも行かない。それに話すほどにマルコの表情が重苦しくなっていくのが、見ていて分かる。

 仕方なくマルコの会話に耳をそばだてる。その太市の指先がピクンと反応した。ついさっきデンさんから聞いた言葉を耳が捉えたのだ。なに、トキップだって!

 

 深刻な表情で会話を終えたマルコに、太市が皮肉めいた言葉を投げつけた。

「楽しいお誘いでも来たようだな」

「お前、性格悪いな」

 即座に切り返され、思わず太市は相手が病人であることを忘れた。

「これを見ればもっと楽しくなるさ」

 言って自身のケータイを相手の鼻先に突きつける。ケータイの画面には、先ほど公園で映した黒いコートを着た白人の男が映っている。

 それを見たとたん、マルコの顔色が変わった。

 が、マルコは直ぐにその緊張を内に押し戻すと、無言で半眼の視線を窓の外に流した。

 無視されたと思った太市が、「なら!」とばかりに、留めの一手、マルコにあの言葉を投げ付ける。

「マルコはトキップなんだろう」

 その瞬間、とても高熱にあえぐ病人とは思えない鋭い身のこなしで、マルコが太市の背後に回った。そして太市の手首をねじり上げると、抑えた声を太市に耳元に吐きつけた。

「あの男と口を聞いたな」

 痛みで顔を歪めながら、太市がしたり顔で返す。

「ということは、大当たりなんだ」

「言え、何を話した。オレのことを喋ったのか」

 問い質そうと太市の手首をねじり上げようとしているのは分かるが、熱でうなされていた病人で、力の込め方が緩い。力を入れようとするほど、太市ではなく当人の息が荒くなる。太市は思わず笑いを漏らした。

「何が可笑しい」

「違うよ、公園にいた男とは一言も話してないさ。トキップというのは、さっき近所の知り合い、小人症の息子がいたトラックの運ちゃんから聞いた言葉でね、君がスマホで話す言葉に、その単語が何度も出てきたから、カマをかけてみたんだ」

 ポルトガル語なら何を喋っても内容が知られる怖れはないと考え、マルコは会話が太市の耳に入るのを気にせず話をした。しかし考えてみれば、逆に知らない言葉であればこそ、中に知った単語があれば、耳がそれを拾ってしまう。

 自分の行動が逆効果になったことに、マルコが「カセッチ!」と苦々しげに舌打ちした。

「フーン、本当に、トキップ族なんてのがいるんだ」

 納得顔の太市の前で、マルコが開き直ったように顔を上げた。

「いるがオレは違う。おれはトキップとのハーフだ」

「ブラジル出身ってのは本当なのかい」

「伏せる必要の無いことまで、嘘はつかないさ」

 捨て鉢に言うと、後はもう芯が抜けたように素直な表情で太市に向き直った。

「勝手に服を使わせてもらって失礼した。こちらも体がこの状態だし、それに追われる身で余裕がなかった。そのことは謝る」

 目で一礼すると、マルコは助けてもらって自分のことを何も話さないのは義理に反するとばかりに、自分のことを語り始めた。その話では、マルコはトキップ族の父と小人症の母の間に生まれた子供であり、本当の歳は三十八歳。青年っぽい顔は整形をしたもので、それは仕事をするのに若造の顔が必要だからだそうだ。

「仕事って、偽造のパスポートを使って?」

 身を乗り出す太市に、マルコが意味深に笑った。

 マルコの仕事は人の運び屋、つまり密入国の案内役である。今回は研修名目で日本に来た中国人の女性を、日系のアメリカ人に偽装させてアメリカに連れて行く予定だった。咽頭ガンで声を失った母親とその子供という設定である。母親が喋れなくとも、子供が日本語と英語を流暢に話せば、入管で疑われる怖れはまずない。

 話を続けながら、マルコが百会の部屋から持ち出した化粧品を取り出し化粧を始めた。まずは少女に化けた際のメークを落としていく。その手つきは見事の一言につきる。

 一般に密入国は夫婦を偽造して行われるが、マルコの場合は子供が大人を連れて行くという手法だ。ただし目立つ設定なので頻繁には使えない。ここ一番の大物や高額の報酬が期待できる者のみが対象となる。当然のことながら、密航で使う国や空港も毎回変更している。今回追われるはめになったのは、偶然にも同じ日の同じ便に、そういう親子がいたからだ。マルコは隙を見て逃げ出したが、同伴の客の婦人が捕まってしまった。不運は重なる。婦人がその筋の女だったことから、マルコはシンジケートと入管の双方に追われることになった。

 化粧を落として現れたくたびれた肌も、再度化粧を施すと、あっという間に生気が蘇る。

「これは小学生バージョンだな」

 話し終えた時には、マルコの顔は溌溂とした少年の顔になっていた。見事な変装術だ。

 その小学生のマルコがスマホを手にした。メールが届いたようだ。

 内容を確認すると、マルコも忙しなく返答のメールを打って返す。ちらっとスマホの画面を覗くと、メールの文面が英文になっている。メールを数回やりとり、ひと段落すると、マルコが肩で大きく息をついた。想いを巡らすように窓の外に視線を泳がせる。

 いつの間にか雪雲が割れ、夕刻の空に薄日が差していた。

 振り向いたマルコが、少年のように純朴な眼差しを太市に向けた。

「ある人物、そう君のいうトキップの仲間に、ブツを渡さないといけないんだが、その約束の時間が早まった。しかしだ。さっき君が見せてくれた画像からして、日のあるうちに、この界隈をうろつくのはリスクが大きい、そこでだ……」

 マルコが太市の目を真っ直ぐに見た。裏の仕事をしているとは思えない澄んだ瞳だ。

「ぼくに頼みたいってこと?」

 先取りして太市が聞くと、マルコがはにかむような笑みを浮かべた。

 実際は三十八歳の大人と分かっていても、目の前にいるのは、どう見ても小学生。その幼い顔が真剣な表情でお願いと言っている。演技とはいえ、マルコのくったくのなさは、なぜか憎めない。

 マルコの調子に乗せられたように、太市は指でOKのマークを作った。

 

 四時二十分。太市は駅前の広場に来ていた。日曜、それも天候が回復しての夕方である。ひっきりなしに人が駅から吐き出されていく。駅なかにあるスーパーの袋を下げた人も多い。その人でごったがえす駅前広場の中央、街路樹を取り巻くように並んだベンチに座って、太市はジャグリングのボールを回していた。目立つ方が逆に怪しまれないとのことで、相手方と落ち合う合図をジャグリングにした。一応念のために自分の写真もメールで送ってある。

 失敗を絡めながら素人っぽく下手な手さばきで練習していると、面白がって子供たちが集まってきた。計算通りだ。取り巻く子供たちの中に、それらしき少女も混じっている。小人症の人間は、一般に身長と比べて顔の比率が大きい。その顔を少しでも小さく見せるためか、それとも追っ手から顔を見え難くするためなのか、頬に被るように両側に髪を垂らしている。色違いの五色のジャグリングのボールを休みなく動かしながら、太市はちらりと娘の顔を盗み見た。そして確信する。間違いない。

 目に宿った光が子供ではない。

 太市は少女の立ち位置とタイミングを見計らうと、失敗を装って黄色いボールを一コ、少女の足元に転がした。ボールを拾い上げた少女が、はにかみながら太市に差し出す。それを太市は格好を付けて、残りのボールを回しながら受け取ろうとする。そして大失敗。回していた残り四つのボールも含め、五個のボールが、みな手から滑り落ちていく。

 ボールが四方にコロコロ。見ていた子供たちが大爆笑。

 それでも皆、ボールを拾ってくれる。もちろんあの大人の目をした少女もだ。

 そうこの時、ボールを陰にして小さなメモリーは少女の手に渡った。それはマルコの靴底に押し込まれていたものだ。

 また一からボールを回し始めた太市に、少女が駅の改札方向に歩いていくのが見えた。そのボールからチラッと目を外した瞬間、胸のケータイが着信の震動で揺れる。これこそ全くの出し抜けで、今度はマジでボールを辺りに散らしてしまいそうになる。それをなんとか踏み止まり、今度は慎重に片手でボールを回しつつ、ケータイのメールを確認。最後はボールと一緒にケータイも宙に回して、その日の芸を締めくくった。

 拍手と共に、ベンチの前を離れる。

 メールは甲斐から、解熱剤が切れたとのSOSだった。

 

 そのままスーパーで薬と夕食用のエサを調達、甲斐に届けて五時半に帰宅。

 大役を果たして気が抜けていたのだろう、百会の振り下ろす竹刀の猛烈な一撃を脳天に受けてしまう。頭の割れそうな痛みのなか、マルコが持ち出した百会の衣装、それを元の場所に戻し忘れていたことを思い出す。あれがバレたに違いない。まずい。

 このまま第二打を受けてしまうと、そのままあの世に……、

 そう思うが体が動かない。

 ところが倒れたまま身構えていても、不思議と第二打が襲ってこない。

 おかしいと痛みを堪えて薄目を明けると、百会の振り下ろした竹刀を、千晶のヌンチャクが受け止めていた。

 冬というのに半そで姿の千晶が、百会に文句をぶつける。

「百会ネェ、そんな勢いで竹刀を振り下ろしたら、床に傷が付くだろうが」

 大切なのは兄貴の頭より床かよ、とぼやきたくなる太市を、百会の罵声が一蹴する。

「床ごと簀巻きにして海に沈めてしまえばいいんだ、こんな変態野郎!」

「けどな、オネェ。人間一人簀巻きにして海まで運ぶの、大変だぜ。包丁で刻んでビニールで梱包、宅急便を使うのが現実的だと思うけど」

 痛みで気絶をした方が良かったか、あ、しかし本当に痛い。

 玄関で百会と千晶が言い合っているところに、玄関が開いて喪服姿の美里が入ってきた。

「なんなの、また揉め事?」

「母さん、聞いて、こいつが私の部屋から無断で物を持ち出したのよ、こんな盗人なんか、首を絞めるか、さっさと追い出すべきよ」

「持ち出したって、何を?」

「それは……」

 言いよどんだ百会が、美里への返答を誤魔化すように太市に飛び掛かった。

「男なんかみんな首を絞めて殺してやればいいのよ、男なんか」

 太市の首に手を掛け力任せに絞め上げる百会に、美里がしがみついた。

「止めなさい、百会、ほら、ちょっと」

 強引に二人の間に割って入った美里の後ろで、千晶が嬌声を上げた。廊下に出している洗濯物カゴを覗きこんでいる。

「すげえ、なんだこのフリルの塊みたいな服は、学芸会の衣装かよ」

「学芸会で悪かったわね」

 直後、百会の癇癪が破裂、悲鳴のような声が家を揺るがす。

 家の裏にいた万知が慌てて飛んできた。百会が万知に食って掛かった。

「姉さんのせいよ、姉さんが優しくするから、こいつが付け上がって。こんな……」

 怒りと涙でくしゃくしゃになった百会の顔の前で、万知がゆっくりと指を振った。

「百会、それはあなたの早とちりかもね。私、見つけたの、衣装泥棒の犯人を」

「犯人?」

「そう、二階奥の廊下、埃っぽいでしょ、そこに小さな足跡が残っていたの。不思議に思って家の外を覗いてみたら、裏の融けかけた雪にも親指くらいの小さな靴の足跡があるじゃない。もしかしてこの家、座敷わらしでも棲みついたんじゃないかな」

 万知の話に、慌てて女性陣が家の裏を覗きに行く。すると軒下の雪の上に、点々と小さな足跡が残っていた。塀の上や、ひさしの上にもだ。自信満々に万知が断言する。赤ん坊が塀の上に登れるはずがない、本当に小人サイズの座敷わらしがこの家に出入りしていたのではないか。その悪戯好きの座敷ワラシが、百会の部屋にあった綺麗な服を見つけて引っ張り出した……。

 半信半疑の百会の背を押し、家の中に戻って、美里と万知が今度は洗濯カゴの中の衣装に目を落とす。万知が茶目っ気たっぷりに百会の頬を突いた。

「不思議よね、百会ったら。どうして綺麗な服を持っているのに着ないの、いつもジーパンにトレーナーの運動ルックでさ」

「だって……」

 言ったきりそっぽを向いた百会の背を、万知が撫でる。

 何か思いついたのだろう千晶が横で、「そうだ」と手を叩いた。

「今夜の誕生会、百会ネェ、この服を着ればいいじゃん。俺も一度百会ネェの女らしい格好を見てみたいぜ」

 百会がキッと妹の千晶を睨みつけた。

「人のことを言えた義理、ならあんたもお姫様の格好でもしてみなよ」

「やだよ、おれは男だもん」

「中身は女でしょ」

 喚く百会が、太市がまだ玄関にいることに目を留めると、雄叫びを上げて突進した。

「あんたがこの家に来たのが悪いのよ。女だけの平和な家だったのに」

 太市に掴みかかる百会を、美里が後ろから抱きすくめる。

 逃げ場を失い壁に張り付いた太市の肘を万知が叩いて耳打ちする。

「さっさと上に上がって。太市君がいると、百会のヒステリーが止まらないから」

 それは太市も十分承知していた。しかし勝手に逃げ出すと、それはそれでまた揉め事のタネなるのではと躊躇していたのだ。万知の心得た助言に一礼、太市は逃げるように二階に駆け上がった。

 階下では万知のヒステリーの矛先が千晶に向かっていた。


 二階の自室に駆け込み後ろ手にドアを閉める。部屋の中にマルコの姿はなかった。

 押入れかと思って襖を引くが、中はガランと、もぬけの空。と後ろで屋根瓦の軋む音が鳴った。窓の外は、すでに日が落ちて真っ暗。その暗がりからマルコが窓を開け、体を折り曲げるようにして入ってきた。相変わらず胸が痛むのか口元が歪んでいる。

 喘息のようにゼーゼーと荒い息を吐きながら、マルコが目配せをした。

「なんとか服の件は誤魔化せたようだな」

「小人の靴跡は、君の仕業なのか」

 言い寄る太市に、マルコがフンと鼻を鳴らした。

「最初からやっていたさ、気づいてくれるのが遅れたということ、あの背の高い姉御に感謝しろよ」

 そうならそうと教えてくれれば、文句を言ったりしなかったのに。どうにもひねたやつだ。その性格の曲がったヤンに、太市もヒネた言葉を投げつける。

「今度はネズミ小僧の真似でもしてたのかよ」

「ネズミ小僧? ほーっ、それ小人症の盗人に最適の名だな」

「褒めた訳じゃない」

「分ってる。いざという時の脱出路を確かめていたんだ。ここなら屋根伝いに大通りに出られる。ま、君もあのヒステリー娘に襲われたら、窓から逃げるがいい」

 マルコの憎まれ口を受け流すと、太市は無事にブツを渡せたことを報告。頷いたマルコが、手元のスマホの画面を太市に見せた。そこにローマ字で、午後九時、時任神社、鳥居前とある。ぼくらが通称天狗神社と呼んでいる団地横の神社だ。そこでピックアップをしてもらえるのだそうな。

 マルコはスマホの画面に地図を呼び出し、神社に至るルートを確認すると、一息付いたように窓際に置いていた紙袋を持ち出した。一見して中身が分かる。酒瓶だ。

「さすがは飽食日本、なんでも揃うな。街中の小さな酒屋にラムがあるとは」

 言って右手で取り上げたのが、ラム酒の小瓶。そして左手で持ち上げたのが、酒どころ兵庫の銘酒、奥播磨。路地を出たところの店で買ったと言う。ジンさんの店だ。

 マルコが太市に奥播磨の一升瓶をズイと差し出す。

「ぼくに?」

「いらないなら、オレが飲む」

「声を出さずに口だけで笑うと、太市は誰にも渡さないとばかり一升瓶を抱き締めた。そして頬ずり。顔をほころばせた太市に、階下で柱を叩く音が聞こえた。

 万知が太市を呼ぶ時の合図だ。

 ドアを開けて下を覗くと、万知が階段の上がり口で手招きしていた。

 階段を下りた太市に万知が提案。百会のバースディを祝う今夜の食事会を、太市に遠慮してもらえないかという。太市が参加すると百会のヒステリーが治まらないからというのが、その理由だ。もっともなことで、太市としても異存はない。だいたい百会と顔を会わせて飯を食っても、美味くもなんともない。万知がお詫びに寿司の折を買ってきてくれるという。なら万々歳だ。

「じゃまた後で」と背を向けた万知が、ツッと振り向くと、「部屋の彼に宜しく」と言って軽くウインクをした。

「え、ちょっと、それって」

 笑いながら万知は台所に戻っていった。

「太市くん風邪気味だから、食事会辞退するって」という万知の朗らかな声が台所から聞こえてくる。続いて、千晶のオーッという感嘆の叫び。

「すげえ、百会ネェ、その格好ならアイドル誌のグラビアを飾れるぜ」

 どうやら百会が本当に女ものの服を着たらしい。覗いてみたい誘惑に駆られるが、今それをやったら、万知の信用を失うこと疑いなし。太市は諦めが肝心とばかりに、さっさと天井裏の自室に引っ込んだ。部屋では、すでにマルコがラムの小瓶を開けていた。

 ラム酒を喉に流し込みながら、マルコがしたり顔で人差し指を振る。

「本当に気をつけるべきは、あの竹刀を振り回す娘なんかじゃなくて、長身のおっとりした美人だな。アレは間違いなく霊能者だよ」

 マルコの話では、さっき太市が駅前に出かけた時、入れ違いに階段を上がってきて、ドアの外から「二度目は許しません、それから妹の服はこのカゴに入れて」とキツイ口調で言って、部屋の前にカゴを置いていったという。万知は太市の部屋に何者かが潜んでいるのを、ちゃんと察していたのだ。

「え、じゃあ、あの足跡は」

「さっきオレがやったっていうのはウソ、そこまで気が回る訳ないだろ、あれは彼女が事を荒立てないために仕組んだことだよ、絶対に」

 太市は長姉の万知がこの家で一番まとも、普通だと思っていた。それがもしかしたら間違いではないかというのに気づいたこれが最初の時だった。が、それはそれ。

「お前、いいな、個性豊かな家族に恵まれて」

 マルコが陽気に酒を勧める。

「そっちだって、面白そうな人生やってるじゃん」

「選んだ道じゃない、やむにやまれずさ」

 言って杯を合わせる。

 玄関から「それじゃ太市君、行ってくるからね」と、万知の声が届く。

 時計を見ると、ちょうど七時。

 そして……、

 次に太市が目を開けたとき、時計の針は十一時を大きく回っていた。

 マルコの姿はなかった。コタツの上に飲みかけの奥播磨が置いてある。ラム酒はない。カップも一つだけ。夢を見ていたのだろうか。

 しかし何かしら違和感を感じる。ノートブック型のパソコンの位置がいつもより少し右にずれている。触れると画面が起動して、書き込みが浮かび上がった。太字で『トキップの夢』とある。下に文章が続いていた。スクロールしながら流し読む。

 それはマルコからの手紙だった。

 

『ありがとう、君のおかげで一命を取り留めた。これ以上迷惑を掛けたくないので、待ち合わせの場所には一人で行く。残った酒はよろしく飲んでくれ。別に睡眠薬など入っていないから。

 君が書いたという不思議譚、パソコンの中にあったので読ませてもらった。

 面白いな、楽しませてもらったよ。

 先に訂正事項から。

 さきほどボクは、自分をトキップとのハーフだと説明したが、実はハーフでも何でもない。トキップの活動に参加している小人症の人間だ。だから夜目の能力はない。本当の年齢は五十四歳。じいさんさ。整形を繰り返して何とか見てくれを整えているが、今が限界。小人症の人間は体質的にも虚弱なことが多く、平均寿命も短い。自分の体のことは自分が一番よく知っている。ぼくの残りの人生は長くない。それでも老骨に鞭打って、トキップの活動に協力を惜しまない。なぜか。ボクはトキップの夢に希望を託しているのだ。

 君のように普通の体格に恵まれた人たちには分かり難いし、日常の生活では目にする機会もほとんどないだろうが、世界中どこへ言っても、小人症の人間は社会の片隅に押しやられている。大人になっても、まともな職業には就けないし、子供は虐めの対象だ。まあこのことを書くと健常者への悪口か、自分へのグチになるので、ここまで。この社会には、鬱々とした気持ちで暮らしている連中が、小人症の連中を含め、ごまんといるということだけは、心に留めておいてほしい。

 さて、助けてもらったし、酒も酌み交わした。お礼に少しだけトキップ族の夢の話を書き記しておく。信じる信じないは、もちろん君の自由だ。

 

 そのマルコが書き記した話、前半は戦争時のトキップの諜報活動と財宝の隠匿の話で、デンさんから聞いた話と同じだった。問題は後半部分。

 トキップは四十年前に、秘匿していた財宝の封印を解いた。大半は宝石や貴金属で、その一部を現金化、小国の年間予算ほどの資金がプールされた。

 それを元手にトキップのリーダーたちは、ある事業を開始した。

 小人症の人たちの経済面での救済と地位の向上を目指して、基金を設立したのだ。その基金の運用金で始めたのが奨学金の給付。援助を受けることのできるのは、主に医者や法律家や技術者を目指す人たちである。奨学金の受給者は、小人症の者よりも、圧倒的にトキップの一族の方が多かったが、幸い自分はトキップではないものの給付が認められ、アメリカに渡って大学に進学した。ちなみに密入国のビジネスは、その頃の友人がサイドビジネスとしてやっていることだ。

 多様な人材の育成、それにはある意図が込められている。

 トキップ族の国を作る、つまり建国する際に必要な人材の育成だ。トキップにとっての夢は、トキップがトキップらしく尊重され豊かに暮らせる国の創建にある。流浪の民のユダヤが中東に安住の地を打ち立てたように、トキップも国を造る。ただユダヤがパレスチナの住人を押しのけて建国した轍は踏まない。誰も人が住んでいない地を故国にする。その軍資金が、日本軍から掠め取った財宝だ。

 え、そんなところがあるのかって。

 そうだな、今地上にある誰のものでもない土地は南極だけだ。その南極も実質は世界の有力国の分割統治。ではどこに? 宇宙にコロニーを作る? 違うな。

 眉唾に聞こえるだろうが、それに適した場所があった。

 大陸の地下に空洞があるという話は耳にしたことがあるだろう。昔の子供向けのSFなどによく登場するあの話だ。それが石油探査の拾い物で、公海上の環礁の下に見つかった。地下三百メートルにある空洞世界だ。すでに先遣隊はそこに入って国造りを始めている。ボクは映像でしか見たことがないが、そこは、発光性の蘚苔類に覆われた薄暮の空間で、夜目のきくトキップのために神があつらえてくれたような世界だ。

 ただ小人症の人間がそこに住めるかどうかは、まだ確定していない。しかし体の小さい者たちのための国ができるなら、そして、その活動に自分が人生を賭けて協力できるなら、自分は満足だ。

 近い将来、トキップの国が国連に加盟を申請する日が来るだろう。

 楽しみにしていてくれ。

 そうそう、話は変わるが、押入れの奥の天板を外して屋根裏に上がってみたのだが、そこで面白いものを見つけた。おそらく五十年もっとそこに置かれていたものだろう。使う当ての無さそうなものなので、それを使ってお遊びをさせてもらった。

 午前零時をお楽しみに。

 それから一言追加、このデータは、ここまでスクロールした段階で、情報が消去される。

 それでは君の未来に幸多からんことを。

 パソコンの中で何かカチッと音がしたと思うと、画面から文字が消えた。慌ててキーを操作するが画面は復活しない。その時気づいた。パソコン側面のUSB端子に、小さなメモリーのようなものが取り付けてある。

 まるで昔のスパイ映画だな……、

 やれやれと眉を掻く太市の背後、柱に取り付けた昔懐かしい柱時計が零時の時報を打ち鳴らす。そういえばマルコは午前零時を楽しみと書いていた。あれは何のことだろう。

 そう思ってパソコンの画面から顔を上げた太市の耳に、美里さんの陽気な声が聞こえてきた。大酒呑みの四人のご帰還だ。帰宅がこの時間ということは、食事のあと、どこかで杯を傾けてきたのだろう。と門を開ける音と同時に、歓声が上がる。

 何だろうと窓に顔を向けた太市の目に、キラキラと極彩色に輝く光が飛び込んできた。

 慌てて階段を駆け下り、玄関を出て後ろを振り仰ぐ。

 なんと家の壁面がイルミネーションに彩られていた。今のLEDの光源を用いたもののような鮮明さはないが、一つ一つの明かりの粒が大きい。昔の遊園地の照明のような素朴な輝きだ。その家の壁や柱のいたるところで瞬くイルミネーションの並びが、よく見ると文字になっている。

「ハッピーバースディ、モエ」と、読める。

 仕掛けたのはマルコ。窓から外に出て彼がやっていたのは、これだったか。

 そして、きっとこれは、ボクの仕業ということになるのだろう。

 横を見ると、乙女チックな服を着た百会が、ポカンと口をあけたままイルミネーションを見上げている。ダークブラウンのロングウィッグを肩に垂らし、段々フリルの付いた花柄ワンピを着こめして、頭の上にはなんとリボンカチューシャ。これがあの暴力娘とは思えないお姫様ルックだ。

 思わず太市が見惚れていると、百会が横目でキッと睨み、「何、ガンつけてんだよ」と、強烈なストレートパンチを繰り出してきた。

 くっそうーっ。この暴力娘め。

 美里家の壁面を飾ったイルミネーションは、屋根裏のダンボールに入っていたもので、戦後間もない頃に作られた古い電飾である。敗戦直後の昭和の二十年代、オモチャが日本の重要な輸出品だった時期がある。一般にはブリキ製のオモチャが有名だが、クリスマス用のイルミネーションもその一つ。明かりの一つ一つが小さな電球だった時代の電飾で、いかにも指先の器用な日本人が得意としそうな商品だ。その製造を行う町工場を、この家の先代の所有者が経営していたという。

 鼻血をたらしつつ、女性陣としばし壁面の明かりを楽しんだ後、家の中へ。

 マナーモードにしてあったケータイに電源を入れると、甲斐からメールが届いていた。やっと熱が三十七度まで下がった。ほんと夢の中をさ迷うような一日だった、とある。

 そう、こちらもだ。夢としか思えない一日。

 トキップの建国に幸あらんことを。


十話で一区切りの予定でしたが、もう一話追加します。

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