prologue
「芦屋くんって推理とかできるの?」
昼休み。弁当を食べ終えた芦屋六郎の机の前にやってきた少女は、唐突にそう言った。
「だって芦屋六郎でしょ?アシヤロクロウ。ア、シヤロク、ロウ。『シャーロック』が名前に入ってるんだよ。これはもう、高校生ホームズを名乗るしかないよね」
目の前の少女、須賀有里紗は新しい星を発見した天文学者のようなキラキラとした目で六郎を見つめる。高校二年生としては低すぎる身長と、高すぎるテンションを持ち合わせた有里紗は、その大きな黒い瞳を六郎に向けたまま言う。
「ね、ね。なにか推理してみせて」
何か言うまで梃子でも動かないという固い意志が見て取れる。クラスメイト歴たったの四時間、今朝出会ったばかりの二人だったが、有里紗はそのことをまったく気にかけていなかった。
六郎は一つ息を吐き、有里紗に向けて言った。
「須賀さんは──」
「有里紗でいいよ」
間髪いれずに遮られた。話の腰を折るタイプだ、と六郎は思った。
「有里紗は今朝、この学校の近くにある神社で転んで怪我をした」
六郎がそう言うと、有里紗は大きな瞳をますます大きくし、これぞまさに唖然という表情になった。
「ど、どうして知ってるの?」
有里紗は六郎の机に手を付き、前に乗り出す。席に座っている六郎の顔に、今まさにぶつからんとする勢いで。顔が近い。六郎の鼻に有里紗の息がかかる。六郎は、動揺が顔に出ないように椅子を引きながら言った。
「有里紗の右足には、絆創膏が貼ってある。つまり、怪我をしてる」
有里紗は自分の右足を見る。キャラクターモノの、ファンシーな絆創膏が貼られている。
「さらに、スカートの横のところに白い汚れが付いてる。横に伸びているから、それが付いた後で払ったんだろうけど、まだ真新しい。今日学校に来るまでに付いた、と考えられる」
有里紗はスカートの汚れを確認する。ひとつひとつの動作が大振りだ。
「じゃあそれがどこで付いたのか。学校に来るまでの道路はほとんどがコンクリート舗装だった。唯一、あの神社の石畳以外は」
以上証明終了──とはいかないだろう。この推理には抜けが多すぎる。絆創膏を今日貼りなおしただけで、怪我自体は以前からしていた可能性もある。有里紗の通学路が自分と違い、神社の前を通らないという可能性を無視している。しかし──。
「す、すごすぎるよ。芦屋くん!」
有里紗はいっそう瞳をキラキラさせ、そう叫んだ。クラスメイトの何人かがこっちを見ている。非常にやめてほしい。が、当の有里紗はお構い無しにテンションを上げていく。
「私の足とスカートを見ただけでそんなことが分かるなんて!」
クラスメイトのほぼ全員がこっちを見ている。ヒソヒソ話す声までが聞こえてくる。これは拷問に等しい、と六郎は思った。
しかし同時に、ここまで感動されて六郎は──。
──罪悪感に苛まれた。
朝──。
高校生、芦屋六郎は見慣れない通学路を歩いていた。綺麗に舗装された、街路樹の並ぶ道路は、まっすぐに六郎の通う高校まで延びている。初夏の到来を告げる涼やかな風が吹いている。街路樹の合間から差す木漏れ日は、この街で新しく始まる六郎の生活を祝福しているようにも見える。
木々は笑い、小鳥は歌う。まるでドラマのセットのような、出来過ぎた朝の風景を細目に見ながら、芦屋六郎は考えていた。
(……最悪だ。)
これから毎日、こんなに長い道を歩かされるのか……。夏の暑い日も、冬の寒い日も。俺にはそんな精神力は無いぞ。雨ニモマケズ、風ニモマケズというのはただのスローガンだ。好き好んで実践しようとは思わん。誰だ、こんな長い道を作った奴は。出てこい。出てきてとりあえず謝れ……。
芦屋六郎には美しい風景を愛でる習慣も、透き通る日光にその身を委ねる趣味も、持ち合わせていなかった。思うのはこれから先、少なくとも高校卒業まで続くであろうこの長い通学路に対する怨嗟の念だった。
この日、芦屋六郎は初めて朱陽高校へ登校していた。母子家庭の六郎は、母親の仕事の都合で高校二年の六月というなんとも中途半端な時期に転校を余儀なくされた。厳密には編入試験を受けたときと、編入前の三者面談のときに学校へ行っているので、実際は三回目の登校となるのだが、朱陽高校のブレザーを着て、生徒として登校するのはこれが初めてであった。
長い長い直線道路。ゆるやかな登り下りがあり、前を向いてもその先に待つ目的地は見えない。前を向いているとどこまでも気持ちが沈んでいきそうな気がして、六郎は自然と左右の軒並みに目を向けた。
民家や商店が立ち並ぶ通りに、ぽっかりと空白のスペースがある。その部分だけ、コンクリート舗装の道路ではなく、砂利と石畳が敷き詰められていた。朱い鳥居がある。鳥居の前まで行くと、奥に社が見えた。横の石碑には朱陽神社と彫られている。
六郎は社の前に、自分と同じブレザーの制服を着た少女を見つけた。お参りを終えたあとのようで、賽銭箱の前からこちらに歩いてきている。
──あれ、高校生か?
どう見ても小学校高学年くらいの身長である。これから通う学校が附属の小学校を持っていれば、そこの児童だと勘違いしていただろう。後ろで二つに結ばれた黒髪は、外側へ跳ねている。歩くたびにぴょんぴょんと上下に揺れるその髪が、少女の幼げな見た目に拍車をかけていた。
「あっ」
六郎は思わず声を上げた。少女の体がふわりと宙に浮き、つま先を中心に綺麗に九十度ほど回転したあと、石畳の地面にぶつかった。つまり、転んだ。六郎の声は、うずくまって膝をおさえる少女には届かなかった。
痛みが収まってきたのか、少女は起き上がりスカートをはたいている。膝からは遠目にも血が出ているのがわかる。少女はきょろきょろとあたりを見回す。目があっては気まずいと思い、六郎は神社を後にした。
──変なやつだな。
六郎はそう思った。
六郎は回想を終え、目の前の少女──有里紗を見る。
──やっぱり、変なやつだった。
初夏の風が窓を抜け教室に入ってくる。六郎の新たなる高校生活の始まりを祝福するように、陽光は教室を照らす。
有里紗は笑顔で六郎に言った。
「シャーロッ君って呼んでいい?」
「断る」
即答した。