婚約破棄された悪役令嬢、実は王国一の有能でした
「アリシア・フォン・グランベル。お前との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に、王太子レオンハルト殿下の声が響いた。
ざわ、と周囲が騒めく。当然だろう。
今日は殿下の十八歳の誕生日。王国中の有力貴族が集まる祝宴の場で、突然、王太子が公爵令嬢との婚約破棄を宣言したのだから。
しかも、その公爵令嬢というのは私だ。
「……婚約破棄、ですか?」
「ああ!」
殿下は堂々と胸を張った。
「俺はもう、お前のような冷酷な女を王妃にするつもりはない!」
「冷酷な女……」
私は思わず自分の顔に触れた。
そんなに怖い顔をしているだろうか。鏡を見る限り、普通だと思うのだけれど。
「アリシア様!」
殿下の隣に立っていた少女が、悲しそうな声を上げた。淡い桃色の髪。白いドレス。大きな瞳。神殿で聖女に選ばれた少女――マリア様だ。
「私は……アリシア様に嫌がらせをされました」
「……」
「教室で何度も睨まれて……」
「睨んでいません」
「階段から突き落とされそうになったこともあります」
「それもしていません」
「私の私物を壊されたことも……」
「していません」
私は淡々と答えた。
マリア様が泣きそうな顔になる。
すると殿下が怒鳴った。
「まだ嘘をつくのか!」
「嘘ではありません」
「マリアが嘘をついていると言うのか!」
「そうは申し上げていません」
「では、何だ!」
私は少し考えた。
「証拠を見せていただけますか?」
その瞬間大広間が静まり返った。
「……何?」
「私がマリア様をいじめたという証拠です」
「マリアがそう言っている!」
「それは証拠ではなく、証言ではありませんか?」
「同じことだ!」
「違います」
私は周囲を見渡した。
「階段から突き落としたのであれば、目撃者がいるはずです」
「……」
「私物を壊したのであれば、その品物が残っているはずです」
「……」
「教室で嫌がらせをしたのであれば、同じ教室にいた方々がご存じのはずです」
誰も何も言わない。私は首を傾げた。
「いないのですか?」
「……アリシア」
殿下が低い声を出した。
「お前は本当に、可愛げのない女だな」
「よく言われます」
「そういうところだ!」
殿下が叫ぶ。
「そういうところが嫌なんだ!」
「なるほど」
私は頷いた。
「では、殿下」
「何だ!」
「私が嫌いだから婚約を破棄する、ということでしょうか?」
「……っ」
殿下が言葉に詰まった。
私は別に怒っているわけではない。
ただ、確認しただけだ。
「もしそうでしたら、証拠など必要ありません」
「……」
「婚約者が嫌になったから別れる。それだけの話です」
「お前……」
「ただし」
私はマリア様を見る。
「私がしていないことまで、罪として扱うのはおやめください」
マリア様は俯いた。
そして、ぽろりと涙をこぼす。
「……怖いです」
その瞬間。
「アリシア!」
殿下が私を睨んだ。
「やはり、お前は反省していないな!」
「反省する理由がありませんから」
「このっ……!」
殿下は拳を握った。
けれど、私はもう十分だった。これ以上話しても意味がない。
「わかりました」
「……何?」
「婚約破棄を受け入れます」
「え?」
今度は殿下が間の抜けた声を出した。
「私は、婚約破棄を受け入れます」
「お前……本当にいいのか?」
「はい」
「王太子妃になるんだぞ?」
「存じています」
「それを捨てるんだぞ!」
「捨てられたのは私のほうでは?」
「……!」
殿下の顔が赤くなった。
私は一礼する。
「それでは、これにて失礼いたします」
「待て!」
「まだ何か?」
「お前には罰を――」
「証拠のない罪については、お断りします」
「……っ」
私はそのまま踵を返した。
背中に、無数の視線が突き刺さる。
同情。
好奇心。
そして、嘲笑。
おそらく明日から、私はこう呼ばれる。悪役令嬢。王太子に捨てられた女。
聖女をいじめた悪女。
まあ。
「どうでもいいわね」
王宮の廊下を歩きながら、私は小さく呟いた。
不思議なほど、心は穏やかだった。もっと悔しいと思っていた。泣くかもしれないと思っていた。
けれど、
「……お腹が空いたわ」
最初に出てきたのは、それだった。
今日は朝から忙しかった。
王太子妃になるための勉強。
領地から送られてきた書類の確認。
王宮に提出する予算案の修正。
外交に関する講義。
そのうえで、この夜会である。
「夕食、まだだったわね」
私は窓の外を見る。
王都の夜景が広がっていた。
きらきらと灯る街明かり。
行き交う馬車。
夜遅くまで開いている店。
私は十五歳のころから、王太子妃になるために勉強してきた。
礼儀作法。
政治。
経済。
外交。
領地経営。
王妃として必要になることは、ほとんどすべて教えられた。
それも今日で終わりだ。
「……そう考えると、悪くないかもしれないわね」
王太子妃にならなくていい。
朝から晩まで勉強しなくてもいい。
常に完璧な令嬢でいる必要もない。
私は初めて、肩の力が抜けた気がした。
そして屋敷へ戻る。
「お嬢様!」
玄関を開けた瞬間、侍女のエマが飛び出してきた。
「大丈夫ですか!?」
「何が?」
「婚約破棄です!」
「ああ」
私は頷いた。
「されたわね」
「そんなあっさり!」
「だって、もう終わったことでしょう?」
「ですが……!」
「お茶をお願い」
「お茶より先に泣いてください!」
「なぜ?」
「普通は泣くところです!」
「そうなの?」
エマが頭を抱える。
そこへ。
「アリシア」
父が現れた。
「お父様」
「……すまなかった」
「どうして謝るのです?」
「もっと早く殿下の動きに気づくべきだった」
「お父様のせいではありません」
「しかし――」
「私は平気です」
父はしばらく私を見つめた。
「本当に?」
「はい」
「王妃になりたくはなかったのか?」
「……」
私は少し考える。
「わかりません」
「わからない?」
「王妃になりたいから努力していたのか。王妃になることになっていたから努力していたのか」
自分でも、よくわからなかった。
「ただ」
「ただ?」
「勉強したことは、無駄にはならないと思います」
父は目を細めた。
「……そうだな」
そして、優しく笑った。
「ならば、好きに生きなさい」
「はい」
その夜。
私は久しぶりに、何の予定もない朝を想像しながら眠った。
――翌朝。
「お嬢様!」
エマの叫び声で目が覚めた。
「何?」
「王宮から使者が来ています!」
「殿下から?」
「違います!」
エマは青ざめていた。
「国王陛下からです!」
「……陛下?」
私は首を傾げた。
婚約を破棄されたばかりの公爵令嬢を。
なぜ国王陛下が呼ぶのだろう。私は急いで身支度を整えた。
そして王宮へ向かった。
◇
「アリシア・フォン・グランベル」
国王陛下は、私を見るなりそう言った。
「昨日の婚約破棄については聞いている」
「はい」
「お前は、後悔しているか?」
「いいえ」
即答した。
陛下は少し驚いた顔をした。
「そうか」
そして。
机の上に、一冊の分厚い帳簿を置いた。
「ならば、これはどうだ?」
「……帳簿?」
「王国の税収に関するものだ」
私は帳簿を開いた。
一枚。
二枚。
三枚。
数字を追う。
そして。
「陛下」
「何だ?」
「この数字、おかしくありませんか?」
陛下の口元が、わずかに笑った。
「やはり気づいたか」
私は顔を上げた。
「これは――」
「そうだ」
国王陛下は静かに言った。
「王国の金が、消えている」
婚約破棄された翌日。私の人生は、思ってもいなかった方向へ動き始めた。
「そうだ。つまり横領だ」
私は顔を上げた。
「規模は?」
「まだ調査中だ」
「どれくらい前から?」
「半年ほど前からだ」
私は書類をもう一度見る。
「陛下」
「何だ?」
「私に調べさせていただけませんか?」
陛下が目を細めた。
「理由は?」
「暇だからです」
「……」
陛下は数秒黙った。そして笑った。
「気に入った」
「え?」
「お前を王宮財務局の臨時顧問に任命する」
「そんな簡単に?」
「お前は十年以上、王妃教育を受けてきたのだろう?」
「はい」
「ならば、それを使えばいい」
私は少し考えた。
そして頷いた。
「わかりました」
◇
仕事は、思っていた以上に面白かった。
「この帳簿を見せてください」
「は、はい!」
「こちらの数字は?」
「ええと……」
「では、これは?」
「……」
「なるほど」
最初は誰も私を信用していなかった。
当然だ。
昨日まで王太子妃候補だった公爵令嬢が、突然、財務局にやってきたのだから。
しかし。
「この書類、作成した人を呼んでください」
「はい!」
「こちらも」
「はい!」
数字を調べる。
人を調べる。
帳簿を照らし合わせる。
少しずつ、不自然な流れが見えてきた。
税金が消えている。
その金は商会へ流れている。
商会から、とある貴族へ金が渡っている。
そして、その貴族は。
「……宰相閣下?」
私は呟いた。
王国の中枢にいる人物だった。
その日の夜。
私は陛下に報告した。
「間違いありません」
「証拠は?」
「こちらです」
私は書類を並べた。
「税金の横領です」
陛下は黙って書類を見ていた。
「よくやった」
「ありがとうございます」
「アリシア」
「はい」
「お前は、本当に王妃にならなくてよかったのか?」
「はい」
「そうか」
陛下は少しだけ寂しそうに笑った。
◇
それから一か月。
王宮では大騒ぎになった。
宰相の不正が発覚したのだ。
関係者が次々と捕らえられた。
横領されていた金も回収された。
王国の財政は大きく改善した。
私はその功績によって、正式に財務顧問として働くことになった。
そんなある日。
「アリシア!」
廊下で声をかけられた。
振り返る。
「殿下」
レオンハルト殿下だった。
隣には聖女マリアがいる。
「久しぶりだな」
「そうですね」
「……元気そうだな」
「おかげさまで」
殿下は少し気まずそうにしている。
「実はな」
「はい」
「俺は、お前を誤解していた」
「そうですか」
「お前は、冷たい女だと思っていた」
「よく言われます」
「だが、違った」
殿下は苦笑した。
「お前はただ、何でも一人でやっていただけだったんだな」
「……」
「俺はお前の努力を何も知らなかった」
「そうですね」
「すまなかった」
私は頭を下げる殿下を見る。
以前なら。婚約者だったころなら。私は彼の隣に立つために、何とかしようとしたかもしれない。
でも今は違う。
「顔を上げてください」
「アリシア」
「もう終わったことです」
「……そうか」
「はい」
私は微笑んだ。
「どうか、マリア様を大切になさってください」
マリアが驚いた顔をした。
「アリシア様……」
「私から言えるのは、それだけです」
私はその場を去った。
◇
数日後。
私は陛下に呼び出された。
「アリシア」
「はい」
「一つ頼みがある」
「何でしょう?」
「私の息子をどう思う?」
「殿下ですか?」
「ああ」
「……正直に申し上げても?」
「もちろんだ」
「子供っぽいと思います」
「やはりか」
陛下は頭を抱えた。
「では、もう一つ聞こう」
「はい」
「私のことはどう思う?」
「立派な国王陛下だと思います」
「そうか」
陛下は嬉しそうだった。
「では、最後だ」
「はい」
「私の妻にならないか?」
「……」
私は固まった。
「陛下」
「何だ?」
「冗談でしょうか?」
「本気だ」
「……」
「嫌か?」
私はしばらく考えた。
国王陛下は、私よりずっと年上だ。
しかし、私は彼を尊敬している。
仕事をしていても、私を一人の人間として扱ってくれる。
私の意見を聞いてくれる。
失敗すれば叱る。
成果を出せば認める。
そして何より。
私が私のままでいることを許してくれる。
「陛下」
「うむ」
「私は、王妃教育を受けてきました」
「知っている」
「ですが」
私は微笑んだ。
「王妃になりたいとは、一度も思ったことがありません」
「……そうか」
「ただ」
「ただ?」
「この国のために働くことは、嫌いではありません」
陛下は静かに笑った。
「ならば、答えは急がなくていい」
「ありがとうございます」
「これからも私の隣で働いてくれ」
「はい」
◇
それから一年。
私は王宮で働き続けた。
財政改革。
領地制度の見直し。
税制の改善。
商人との交渉。
気づけば、私は王宮になくてはならない存在になっていた。
そして。
ある日のこと。
「アリシア」
「はい」
陛下が私を呼ぶ。
「そろそろ決めたか?」
「何をでしょう?」
「私の妻になるかどうかだ」
私は笑った。
「まだ聞いていらっしゃったのですか?」
「当然だ」
「……では」
私は窓の外を見る。
王都が見える。
人々が歩いている。
店が並んでいる。
馬車が走っている。
この国には、まだまだ問題がある。
けれど。
だからこそ。
「私でよければ」
私は陛下を見る。
「よろしくお願いいたします」
陛下は目を見開いた。
そして。
「そうか」
嬉しそうに笑った。
◇
それからさらに数年が経った。
私は正式に王妃となった。
不思議なことに。
王妃になるつもりなどなかった私が。
誰よりも王妃らしく働いているらしい。
「アリシア様!」
「何?」
「今年の予算案ですが!」
「そこは去年と同じで」
「ですが!」
「去年の失敗を忘れたの?」
「申し訳ありません!」
王宮の廊下を歩く。
侍女たちが忙しそうに走っている。
窓から差し込む朝日が眩しい。
私は足を止めた。
昔のことを思い出す。
婚約破棄された夜。
誰もが私を悪役令嬢と呼んだ。
冷たい女。
高慢な女。
聖女をいじめた女。
私はそんな人間ではなかった。
ただ、不器用だった。
完璧であろうとしすぎていた。
だから、人の気持ちに気づかなかった。
それでも。
あの日、婚約破棄されたことを後悔してはいない。
むしろ。
「人生、何が起こるかわからないものね」
「何か言ったか?」
隣から声がした。
国王陛下だ。
「いえ」
「そうか」
「陛下」
「何だ?」
「今日の予定ですが」
「ああ」
「午前中に商会との会談。その後、地方からの陳情を三件。午後は隣国の使者との会談です」
「……多いな」
「王様ですから」
「君は?」
「私も同じ予定です」
「そうだった」
二人で笑った。
そのとき。
「お父様!」
廊下の向こうから、子供が走ってきた。
「走るな!」
陛下が叫ぶ。
「転ぶぞ!」
「大丈夫!」
子供は笑いながらこちらへやってくる。
私はしゃがみ込んだ。
「おはよう」
「おはようございます、お母様!」
私はその頭を撫でる。
ふと、思う。
もしあの日。
婚約破棄されなかったら。
私は王太子妃になっていただろう。
王妃教育を受けたまま。
王太子の隣で。
きっと、それなりに幸せだったのかもしれない。
でも。
今の私は知っている。
人生には、予定通りにいかないことがある。
そして。
予定通りにいかなかったからこそ、手に入るものもある。
「お母様?」
「何?」
「嬉しそうです」
「そう?」
「はい」
私は笑った。
「そうね」
私は幸せなのだと思う。
婚約破棄された。
悪役令嬢と呼ばれた。
すべてを失ったと思った。
けれど。
あの夜。
私が失ったのは、未来ではなかった。
ただ一つの未来が消えただけだった。
その代わりに。
私は、自分で選べる未来を手に入れたのだ。
だから私は、今日も歩いていく。
自分の足で。
自分の意思で。
誰かに決められた「幸せ」ではなく。
私自身が選んだ人生を。
――そして今日も、王宮の仕事は山積みだった。
「アリシア」
「はい?」
「仕事がまだ残っている」
「わかっています」
「なら、行こう」
「はい、陛下」
二人並んで歩き出す。
窓の外には、青い空が広がっていた。
今日も、この国は平和だった。
ありがとうございます。
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