第9話 最後の雪の日
朝から少し雪が降っていた。
その雪はふわふわと風に舞い、なかなか地面に着地しない。幼い子どもたちがキャッキャと笑いながら、その雪を追って遊んでいた。
いつもと変わらぬ朝だった。
コートの襟を固く閉ざして仕事に出かける者。白い息を吐きながら、荷車を引く者。開店準備に忙しく立ち回る者。
日常の、なんてことのない光景だった。
ルシアンだけが、そこから取り残されていた。
真っ黒な外套を風がなぶるに任せて、ゆっくりと歩いていく。
黒テンの毛皮を深く巻き、目元だけが覗いていた。虚ろな目だった。
風が彼の金色の巻き毛を吹き上げる様は、まるで熱のない炎のようだった。
このまま、風の中を歩き続けていられるなら、そのほうがいいと思った。
向かっているのは処刑広場だ。
辿り着きたくなかった。
朝食用だろうか、焼き立てのパンを抱えた女が、ルシアンとぶつかりそうになり、目を吊り上げた。いつものことだ。
通り過ぎざまに、男に今日も殺しかと嘲笑われた。それもいつものことだ。
これからルシアンが処刑しなければならないのは、イリーナだというのに。
だが、彼らにとっては、そんなことはどうでもいいことなのだ。
特別でもなんでもない、いつもの処刑なのだ。
あの日、空にひびが走ったことで、誰もが、ルシアンとイリーナが贖対だと知っているはずだった。だが、イリーナを処刑すると発表されたことで、もう安心しているのだろう。世界が崩れることはないのだからと。
贖対だろうが、何だろうが、彼らにとって処刑はただの処刑だった。
――当たり前なことだ……これは僕の罪で、償いで……彼らには関係のないことなんだから……。
分かっていても、孤独だった。
断片的な映像が、幾つも脳裏をかすめていく。
順番も詳細も不確かだったが、自分がイリーナの首を落とすおぞましい場面がいくつもいくつも現れてくるのだ。
今日のような雪の日に、彼女を殺したこともあった。
息ができない。こみあげる吐き気が止まらない。
それでもルシアンは、自分の足で一歩ずつ処刑場に向かっていた。
「ねえ、ママ……」
「見ちゃ駄目」
幼い子どもと母親の声が聞こえた。
前から親子が歩いてきていた。
「でも……あのお兄ちゃん、泣いてるよ?」
「…………償いなの」
「よく、分かんない」
母親と目が合ってしまった。
彼女は、すぐに目を逸らした。
そして、子どもにやさしく言った。
「あのね。…………大好きな人が、死んでしまうんだって……」
「可哀そうだね」
「……帰ろう」
立ち止まった横を、親子は通り過ぎていった。
ルシアンは膝から崩れ落ちた。
両手を胸の前で合わせ、空を仰いだ。
どこの誰かも分からない。けれど、苦しみを理解してくれる人は、確かにいた。
ふわふわと舞う雪が、ルシアンの瞳に落ちた。
瞬きで一瞬のうちに溶け、それは眦を流れていった。
*
黒く粗末な馬車だった。罪人を処刑場へと運ぶためのものだ。
手を縄で縛られたイリーナは、その馬車に乗った。
小さな窓から、ふわふわと舞う雪をぼうっと眺めていた。
吹き込んでいた冷たい風がやみ、扉がしまった。
「……少し、ご一緒させてもらいますね」
そう、声をかけてきたのは尼僧長だった。
てっきり、役人が乗ったのだと思っていたイリーナは、驚いて彼女を振り返った。
僧形を解いた彼女の髪についた雪がきらきらと輝いていた。
「里に帰ることになりまして……。町の中心まで行くということなので、ついでに乗せていただきました」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「あ、あの、尼僧長様。このような馬車に乗らずとも……」
イリーナは少し混乱していた。
彼女が里に帰ることも知らなかったが、それよりも罪人を護送する馬車にわざわざ乗らずとも、馬車ならほかにいくらでもあるのにと思ったのだ。町の人たちに、変な目で見られるかもしれないのだから。
「別にいいじゃない。行く先は同じなんだから」
まるで気にしていない様子の尼僧長を、イリーナはじっと見つめるばかりだった。
馬車が走り出した。
周囲の景色が流れ出す。
しばらく無言だった尼僧長が、ぽつりと言った。
「少しの間だったけど、楽しかったわ。だって、あなたったら、あのついたての向こうに王子様がいるかもって、目をキラキラさせてるんですもの」
「……子どものころから、空想ばかりしてたので、つい。……お腹が減ると、美味しいお菓子をお腹いっぱい食べてるつもりで、木の皮をかじってました」
自嘲するイリーナの乱れた髪を、尼僧長の指がそっと整える。
「そう。……ねえ、ついたての向こうにいたのが誰だったのか、今は分かったの?」
「…………はい。でも、やっぱり、王子様でした。私にとっては……」
「そう。よかったわ」
「はい」
馬車は走り続ける。
今頃、ルシアンはもう刑場にいるのだろうかと思った。
死ぬのは怖い。でも、それ以上に、ルシアンが苦しむのが怖い。
いつも、最期に見る彼は悲痛な顔をしていて、彼こそが死にゆく人のようだったから。
彼にばかり苦しみを押し付けているようで、イリーナは胸が張り裂けそうになる。
「私が代わりたい……なぜ、いつも彼なんでしょう……」
「きっと、どちらも同じなのよ。あなたのほうが楽だなんて、私は思わないわ」
「……尼僧長様も、ご存知なのですね。この世界のことを……。教えてください。私たちの償いは、この先も永遠に続くのですか……?」
イリーナの声は震えていた。
「上がるか下がるか、それだけです」という、ベルゼの言葉が恐ろしかった。
地獄の階層を一つ上に上がる。それが救済なのだと、彼は言ったのだ。
きっと上にいくほど、生きやすい世界になるのだろう。
でも、やはりそこは地獄なのだ。
鬼や化け物がいるわけではない。それでも、自分たちは赦されず贖対として断罪され、殺す者と殺される者になるのだろう。それは、地獄以外の何ものでもない。
繰り返す地獄の転生の中では、酷く荒みきった世界を生きたこともあった。上がってきたということは分かる。
けれど、永遠に続くと思うと、心が折れてしまいそうだった。
「……ベルゼ様は言葉足らずでいらっしゃる。イリーナ、終わりはあるわ」
「終わりはある……」
「ええ」
尼僧長はうなずいた。
そして、鞄の中から小さな包みを取り上げた。白い布に丁寧に包まれている。
「あなたにこれをあげようと思っていたの」
布をほどくと、中から現れたのは、小さな白い菓子だった。
ころんと丸く、雪を固めたように白い。
イリーナは目を見張った。
「メレンゲよ」
尼僧長は一つ摘まみ、イリーナの手のひらにそっと乗せた。
驚くほど軽かった。
触れているのかどうか分からないほどに。
「どうぞ」
イリーナは、しばらくそれを見つめていた。
こんなに白くて、こんなにきれいなものを、自分が食べていいのだろうかと思った。
先に尼僧長が口に入れ、微笑んだ。
恐る恐る、イリーナも口に入れる。
さくりと、小さな音を立てて砕けた。
次の瞬間、ふわりと甘さが広がった。
そして、雪のように、跡形もなく消えてしまった。
イリーナは思わず目を見開いた。
「……すごい……消えてしまいました……」
思わず、呟きがこぼれる。
口の中にはもう、何も残っていない。
けれど、甘さだけが、確かに残っていた。
「……こんなの初めて……美味しい……」
「そうでしょう。女の子はみんな、お菓子が好きだもの」
尼僧長は、目を細めてもう一つ手渡した。
馬車は揺れ続ける。
窓の外では、雪が静かに降っていた。
白い雪。
白い菓子。
口の中で消えていく甘さを感じながら、イリーナは思った。
――私、今、普通の女の子みたいだ。
罪人でも、贖対でもなく、ただ、お菓子を食べて、美味しくって喜んでいるだけの。
それを、尼僧長は肯定してくれる。
じんと胸が熱くなった。
今この瞬間が、どうしようもなく、愛おしかった。
甘さの余韻が、まだ舌の奥に残っていた。
尼僧長は、静かにイリーナを見つめていた。
「イリーナ」
縄で縛られたイリーナの手に、尼僧長はそっと両手を重ねた。
冷え切っていた指先に、温もりが落ちてくる。
「愛し続けなさい」
馬車が揺れる。
雪が窓を打つ。
「罪人と呼ばれようと、断罪されようと、それでも、愛し続けるの」
尼僧長の親指が、そっとイリーナの手の甲をなぞった。
まるで幼い子にするように。
「祝福するわ。あなたの愛を」
イリーナの視界が滲んだ。
「あなたが、最後の瞬間まで、あなたでいられますように……」
尼僧長は、ゆっくりと額をイリーナの額に寄せた。
祈りの祝詞は、口にしない。ただ、静かに目を閉じる。
馬車の中に、雪の気配だけが満ちていた。
イリーナは、胸に手を当てた。
不思議だった。
怖くないわけではない。けれど、さきほどまで胸を締めつけていた重たいものが、少しだけ軽くなっていた。
自分は罪人で、これから死ぬ。
それでも、祝福された。
それだけで、十分だった。
彼女は、もう独りではなかった。
「……ありがとうございます」
イリーナは、深く、深く頭を下げた。
馬車が速度を緩めていく。処刑場に到着したのだ。
扉が開いた。冷たい風が吹き込んでくる。
イリーナは、もう尼僧長を振り返らなかった。
薄く雪の積もった石畳に、彼女は降り立った。
*
処刑台が目に入った瞬間から、ルシアンの世界から音が消えていた。
いつものように大勢の見物人がいるのに、何も聞こえず、ただ口をパクパクさせているのだけが見えた。
剣を渡された。
それは、イリーナを殺す剣だった。
ゆっくりと誰かが近づいてくる気配を感じた。
ルシアンは顔を上げた。
白い人影。
イリーナだった。
縄に縛られたまま、それでも背筋を伸ばしていた。
群衆の口が動いている。けれど、やはり何も聞こえない。
イリーナの視線が、まっすぐにルシアンを捉えた。
そして――微笑んだ。
それだけで、胸が裂けそうだった。
彼女は処刑台の前で足を止めた。
「……雪ですね」
柔らかな声だった。彼女の声だけは確かに聞こえた。
ルシアンは、喉がうまく動かないのを感じながら、ようやく答えた。
「……ああ」
白いものが、彼女の睫毛に触れて溶ける。
「とても、綺麗」
イリーナは空を見上げた。
まるで散歩の途中のような顔で。
ルシアンも、つられて空を見た。
灰色の空から、舞いながら落ちてくる雪。
「……ああ。本当に綺麗だ」
それが、精一杯だった。
イリーナは、小さくうなずいた。
「最後に、あなたと同じものが見られてよかった」
ルシアンの指先が震えた。
言葉を返せない。
何か言えば、崩れてしまいそうだった。
イリーナは自ら処刑台へと上っていく。
ゆっくりと、躊躇いなく。
そして、跪く。
白い雪が、肩に降り積もる。
ルシアンも階段を上った。
一段。
また一段。
剣が、やけに重い。
彼女の後ろに立つ。
息を吸う。
冷たい空気が肺を刺した。
「ルシアン」
振り向かないまま、イリーナが言った。
「……はい」
「ありがとう」
それだけだった。
ルシアンは、目を閉じた。
そして、開く。
剣を、しっかりと握った。
この白い世界に、二人だけが生きていた。
そして、ルシアンは――




