第7話 この世界の真実
「やっと落ち着いたようですね。イリーナさん」
神官ベルゼは、穏やかな声で語りかけた。慈しむような彼の微笑みはいつもと変わらない。
イリーナは、泣き腫らし、やつれ切った顔でベルゼを見上げた。
自室に軟禁されてから、三日が経っていた。
僅かに水は飲んだが、食事は一口も喉を通らなかった。
イリーナはずっと涙を流し続け、目を開けていても襲ってくる悪夢に、悲鳴を上げ、胸を搔きむしって苦しんでいた。
自分とルシアンが贖対であるという事実が、彼女を打ちのめしていた。信じられないのではない。どうしようもない事実だと理解してしまったからだった。
彼女もまた、ひび割れた空を見たとき、全てを思い出していたのだ。
もうルシアンと微笑み合う時間は戻ってこない。
たった数時間、たった一度だけ。
宝物のような二人だけの時間を失ったのは、誰のせいでもない、自分のせいなのだ。
彼と共にいられない切なさが、イリーナの体を二つに裂いてしまいそうだった。
温かいスープを持って、イリーナの部屋に入ってきたベルゼは、机にそれを置くと、椅子に腰かけて彼女を見つめた。
「少しは食べないと、身が持ちませんよ」
ベッドの上でうずくまるイリーナは、弱々しくかぶりを振った。
優しい声をかけられると、また涙があふれてきてしまう。
「わ、私は……、ベルゼ様に、気にかけていただけるような人間ではないのです……」
「どこまで、思い出しましたか?」
落ち着いたその声もいつもと変わらない。静かに、こちらを見つめていた。
そして、イリーナは気付いた。彼は全て知っているのだと。
ベルゼは、イリーナが前世で罪を犯したことを知っているし、もしかしたら、その内容までも把握しているのかもしれない。彼は、イリーナがその罪をどの程度自覚しているのかを確認しようとしているのだと思った。
そして、懺悔を求められているのだと。
イリーナは懸命に体を起こし、姿勢を正した。
「……ゆ、許されない罪です。何の罪もない、多くの人々の……命を、奪いました……」
口に出して言うと、体が震えた。
一体、どれだけの人が死んだのだろうか。何千か、何万か、何十万か。確かなことは分からない。けれど、多くの人命を奪ったことだけは事実だった。
自国の水が汚染されたと知ったとき、民が次々と苦しみのうちに死んでいると知ったとき、自分のしたことがそのまま跳ね返ってきたのだと、血が凍った。
両国の人々を殺したのは自分だ。
恐ろしい大罪を犯した自分は、決して許されないひとでなしなのだ。
敵将は、冷酷な悪鬼のような男だと思っていた。でも、違った。
自分と同じように、たった一人で国を背負い、民を守るために必死に戦うただの人間だった。一目見て、そう気付いたのだ。
いや、初めから分かっていたのかもしれない。
人間同士だという当然の事実に無理矢理目を瞑り、互いに敵国人は悪魔だと叫んだのだ。
愚かとしか言いようのない争いだった。
イリーナは、両手で顔を覆って泣いた。
「自分の罪を、全て思い出したのですね」
ベルゼは、穏やかに頷いた。
責める気配はなかった。ただ、確認しただけだった。
「贖対の者は皆、前世の罪を思い出すようになっています。罪を償い、救済されるために必要なことですから」
「償い……。救済……」
「ええ、いつもミサで私が話していることです」
イリーナは小さく頷いた。
償いと救済。
子どものころから、ずっと聞かされてきたことだ。尼僧となってからはさらに。
償いを重ね、清廉に生きることは、人間として一番大切なことだと教えられてきた。
「贖対の罪は重い。償うためには、己の罪と向き合う必要があるのです」
罪は重いという言葉に、イリーナの肩が震えた。
だが、ベルゼの低く穏やかな声は、後悔と恐怖に苛まれるイリーナにはしるべのように聞こえた。
人は誰しも罪を背負うもの。償いなくして、救済はないのだから。
「殺した者。奪った者。見捨てた者。裏切った者……」
ベルゼの微笑みは、少しも変わらない。
「ここには、そのような方々が導かれてきます。償いのために。そして、救われるために」
導かれる。救われる。
その言葉に、イリーナはかすかな希望を見出しかけた。
だがベルゼは、穏やかに言った。
「それが、ここ――地獄なのです」
イリーナの呼吸が止まった。
今、彼は何と言ったのかと。
「……ベルゼ、様……?」
「そして、ここは幾重にも重なる地獄の一階層にすぎません」
ベルゼは、慈しむように彼女を見つめたまま、続けた。
「救済とは、一階層上の――世界《地獄》に上がること。償わなければ、下に落ちる。上がるか、下がるか、それだけです」
イリーナの目の前がぐるぐると回った。
ここは地獄。這い上がっても地獄。その上も、また。
それが、救済。
この世界の真実。
イリーナの体から力が抜け、ベッドに倒れ伏した。
なんてことだと思った。しかし、納得できてしまう。
幼いころの飢えと寒さ、両親を失う苦しみ、孤児院での重労働と差別、地獄のようだと思ったのは一度や二度ではなかった。尼僧となって、初めて希望を見出したところだったのだ。
呼吸を荒くするイリーナを労わるように、ベルゼは言った。
「大丈夫です。あなたはまだ、上がれる場所にいます」
イリーナは恐る恐る顔を上げた。
茫然と彼を見つめた。
「……ベルゼ様、あなたは一体……」
「私は一神官です」
彼は笑みを浮かべている。
「そして、この世界《地獄》の管理者を任されています」
「それは……神様だということなのですか?」
「いいえ。私は神ではありません。神はもっと外側にいて、天を、全ての地獄を、現世を、そして過去と未来を見ている存在です」
眩暈が止まらなかった。
幾つにも重なって見えるベルゼが、普段どおりに微笑みかけてくる。
そしてイリーナは、今まで自分が上がり、ときに下がりながらも、ここまで幾つもの地獄の階層を上ってきたことを思い出した。
断片的な記憶が、そう告げているのだ。
――ああ! ルシアン! ごめんなさい……貴方ばかりを苦しめてしまって……。
どの世界《地獄》でも、ルシアンはいつも処刑人だった。
そして――いつもイリーナの首を落とすのは彼だった。




