第6話 大罪
空は無残にひび割れた。
それは、絶望以外の何ものでもなかった。
なぜなのだ、と思う。
同時に、当然だとも思った。
激しく稲妻が走り、縦横にひび割れていく空。
そのひび割れた奥、漆黒の闇の中に、ルシアンは己の恐ろしい過去を見てしまったのだ。
自分たちは確かに運命で結ばれていた。
だがそれは、天配としてではなく贖対としてなのだ。
神官ベルゼの言うとおりなのだ。
――それでも……それでも!
尼僧たちが、イリーナを強引に教会へと連れて行く。
ルシアンは助けを求める彼女を取り返そうと、無我夢中で買ったばかりの剣を抜いた。だが、父の前では無力だった。
カレルの剣はルシアンの首の皮一枚を裂き、次は心臓だと狙いを定めたのだ。
「……耐えよ。それが償いだ」
厳然として、父はそう言った。
ルシアンは神官たちに馬車に押し込められ、屋敷に連れ戻されてからは自室に閉じ込められてしまった。
窓は外から板を打ち付けられ、ドアには鍵をかけられている。
きっと今頃は、イリーナも軟禁されているのだろう。
ルシアンは、茫然と外を眺めていた。
板と板の隙間から見える空には、もうひび割れの跡は残っていなかった。
馬車の中で父が言った言葉が思い出された。
「モルテーヌの者に、天配は決して現れないのだ」
それは、以前ルシアンが妹に言ったのと同じ言葉だった。あのときは、血筋を呪って言ったことだったが。
真実はもっと深いところにあったのだ。
父は続けた。
「なぜ、お前がモルテーヌの家に生まれたのか分かるか。……いや、お前はもう理解しているはずだ」
そのとおりだった。
ルシアンは、あのひび割れの闇の中に、自分の罪を見てしまっていたのだから。
全てを思い出した。
この世界に生まれる前、ルシアンは許されざる大罪を犯したのだ。
それゆえに、《《ここ》》で処刑人の宿命を負うことになったのだ。
「言ったはずだ。地獄はあると……」
そう、地獄はあるのだ。
《《ここ》》が地獄なのだ。
前世で罪を犯した者たちが、この世界に堕とされた。だから、償いを要求されるのだ。
父も母も妹も、イリーナも、ルシアンも、みな罪人だったのだ。
償わなければ更なる地獄に堕ちるだけ。
この世は償いの場だと言った、父の言葉が重かった。
ルシアンは、前世で二つの国を滅ぼしてしまった。国家を壊しただけではない。そこに住む数多の人々、無辜の命を奪ってしまったのだ。
ああと呻いて、頭を抱え背を丸めた。
息が詰まる。吐き気がして、頭が割れるようだった。
ルシアンの目からとめどなく涙があふれる。
「イリーナ……イリーナ……。君に、会いたい」
身を裂かれるようだった。
魂の半分を奪われたような気がした。
この苦しみこそが、罰なのだとルシアンは思った。
*
あれを使えばどうなるか、結果は分かっていた。
だが、この戦に絶対に勝たなければならないという強迫観念から、使用を命じてしまった。自国のためにはそれしかないと思っていた。
泥沼化した戦だったのだ。報復が報復を生み、憎しみの連鎖が更なる暴力を生んでいた。
早く終わらせたかった。それは真実だ。長引く戦に益は何もなかったのだ。
ルシアンの決断は、常に迅速で冷徹だった。
兵を動かし、都市を囲み、補給路を断ち、火を放ち、降伏を許さなかった。
そして、敵国の水源を潰した。
国境の町々、都の周辺。主要な都市を巡るあらゆる川、湖、泉に毒をまいた。
確実に攻め落とすために、速攻性と遅効性の毒を使い分けた。速攻性の毒にはすぐに気付けても、遅効性の毒からは逃げられない。
命の源である水を、信仰の対象だった聖なる泉を、ルシアンは犯した。
それが、平凡な日常を生きている人々が使う水だと知っていながら。
死ぬのは兵士だけではない。女も子どもも、老人も、動物も、皆死ぬのだと。
だが、正義は自国にあり、勝利できると信じきっていた。
ようやく、長い争いに終止符を打ち、安息を得られると思い込んでいたのだ。
自身がやったのと同じように、自国の水源も潰されていたと知るまでは。
次々と届く悲惨な報告に、全て終わったのだと悟った。
自国の民がもがき苦しんで死んでいく様が、ありありと目に浮かぶ。あまりの絶望に、涙も出なかった。彼らを殺したのは自分なのだと思った。
守ろうとしたものを奪われて、初めて自分が奪ってきたものの大きさに気付いた。
もう取り返しはつかなかった。
茫然と、血に濡れた大地を見つめることしかできなかった。
本陣には、もはや飲める水は僅かしか残っていなかった。
恐らく敵陣も同じだろう。
撤退を命じた。
既に戦う意味はなくなっていた。残っているのは、亡国の僅かな生き残りしかいないのだから。
いまだに復讐を口にする者も、残ると言い張る者もいたが、将として最後の命令を下した。
生きよと。
帰る場所などないと分かっている。過酷な道行になることも。だが、遠く遠く逃げ延びれば、まだ水が生きている場所まで辿りつけるかもしれない。
部下が全て去り、一夜を明かしたルシアンは、日の出とともに本陣をあとにした。
目指したのは、前方の敵旗ひるがえる陣だった。
最期に一矢報いようなどと、愚かなことを考えたわけではない。
ただ、話がしてみたかったのだ。
もしも、そこに敵の将がまだいるのなら。
毒に侵された足を引きずりながら、ゆっくりと進んでいった。
歩きながら、剣を捨てた。鎧も脱ぎ捨てた。
朝霧の向こうに、小さな人影が一つ、揺れた。
願いは叶った。
敵将は、まだここに居たのだ。
その名前だけは知っていた。
イリーナ。
彼女もまた、剣も鎧も捨てて、こちらに向かって歩いてきていたのだ。
蜂蜜色の髪が風に揺れていた。
初めて、互いの顔をはっきりと見た。
その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
憎悪ではない。恐怖でもない。
理解だった。
敵将は、ただの人間だった。
戦いの最中、幾度となく、血も涙もない魔女のような女だと思ったその人は、傷つき、苦しみ、無力感と後悔に苛まれる、自分と同じただの人間だった。
なんのことはない、普通の少女だったのだ。
同じ理屈で人を殺し、同じ理屈で正義を掲げ、同じ数だけ死体を積み上げてきた。
もし生まれる国が逆であったなら、自分は彼女になっていた。
彼女は、自分になっていた。
きっと彼女も、それに気づいたはずだ。
二人は同質の存在なのだと。
二人で、大罪を犯したのだと。
「……もっと早くに出会いたかった」
「そうね……」
話し合いのテーブルに着くべきだったのだ。
彼女を見た後ならはっきりと分かる。自分たちは、理解し合えたと。
ただ、何もかもが遅すぎた。
強い風が吹き、青白い顔をしたイリーナがよろめいた。
彼女も毒に侵されているのだろう。
ともに逝くのも悪くないと思った。
ルシアンはイリーナの隣に座り、なんてことはない子どものころの思い出を語った。イリーナがふふっと笑うと、それだけで心が凪いだ。
彼女が聞かせてくれた思い出話も、ルシアンの中で鮮やかな絵になって焼き付いた。
だんだんと呼吸が苦しくなってきたが、二人はぽつぽつと話を続けた。
「……じゃあ、次の質問だ。……どんな食べ物が好き?」
「そうね、果物ならなんでも、好き……」
「俺も、好きだ……」
こんな気持ちをもっと早くに知っていればと、後悔に涙が流れた。
しばらくして、もたれかかっていたイリーナの体がずしりと重くなった。
ルシアンは、早く夜が来ればいいのにと、空を見上げたのだった。
死は無に帰すことだと思っていた。
この罪が、永遠に繰り返される罰となることを、ルシアンはまだ知らなかった。




