第4話 運命の人
一週間が過ぎ、イリーナは教会での生活にかなり慣れてきた。
ほかの尼僧たちとも仲良くなったし、仕事自体は孤児院にいたときとさほど変わらない。むしろ、小さな子たちの大量のおむつ洗いがない分、楽なくらいだ。
変わったことと言えば祈りの時間が長くなったことくらいだろう。
何よりありがたいのは、大部屋ではなく個人の部屋が与えられ、しかも隙間風が吹かないことだった。
尼僧としての新しい生活に、イリーナは希望を抱いていた。
春になったら、教会の庭に花を植えようと思う。小さな子にもなじみが深いチューリップはどうだろうか。色とりどりの花を、一鉢ずつ参拝者にあげる催しもいいかもしれない。
孤児院では、園芸を任されていた。植物の世話をするのは得意なのだ。
この町の人々は足しげく教会に通うほうだ。それでも、ミサに参加することなく、償いもせず、悪事に手を染める者もいる。
イリーナは、一鉢の花を愛で、日々の世話をすることも、償いの一つになるのだと孤児院で教わった。それを町の人たちにも伝えたかった。
彼らが「償い」と口にするとき、その顔にはいつも陰りがよぎる。だからこそ、美しく咲く花々で、彼らの心を和ませてあげたいと思うのだ。
ついたての謎は、まだ解けていなかった。
毎朝のミサで、誰かがついたての向こうにいることは分かるのだが、それが誰なのかはまだ分からない。ほかの尼僧や神官の様子から、初めに妄想したような高貴なお方ではないような気はしているが。
尼僧長に聞けば、簡単に謎は解けるだろう。
でも、いつかその姿を垣間見ることができる日までは、麗しの王子様との、偶然にして運命の出会いを夢見ていようと思うのだった。
――ああ、王宮ってどんなところなのかしら……。美味しいお菓子がいっぱいあるのかしら。
もしも、王子様に声を掛けられなんてしたら……。
「君、王宮の厨房で働かないか」
ああ、素敵! どうしましょう! 二つ返事で飛んでいってしまいそうだわ!
「…………イリーナ?」
先輩の尼僧に肩を叩かれ、イリーナの顔が真っ赤になる。またやってしまったようだ。
慌てて洗濯物を広げ、パンパンとしわを伸ばすのだった。
洗濯物を全て干し終わり、調理場に入ってきたイリーナに、尼僧長が言った。
「ご苦労様。寒い中、大変だったわね」
「いえ、平気です。寒いのは孤児院で慣れてますから」
「……そう、なのね。これをあげるわ。アカギレに塗りなさいな」
そう言って、軟膏の入った小さなケースをイリーナに手渡した。
「まあ! なんて高そうなお薬! ……よろしいのですか、私が使っても?」
「……いいのよ。みんな使っている薬なんだから、あなたも使いなさい。それから、お茶を飲んで温まってからでいいんだけど、買い物に行ってくれないかしら。そろそろ一人でもお使いにいけるでしょう?」
「はい。大丈夫です。行ってきます!」
イリーナはにっこりと笑った。
お茶のあと、尼僧長から金を預かり、イリーナは買い物に出かけたのだった。
*
冬の空気は澄んでいたが、冷たく乾いていた。
石畳の通りを歩きながら、イリーナは小さく息を吐いた。白い吐息がすぐに消える。
買い物を済ませたイリーナは、周囲を見回し、立ち尽くしていた。
食品を買った市場通りは賑やかだったのに、ここはなんだか人通りが少ない。教会のある区画とはまるで違うのだ。並んでいるのは見慣れない店ばかりだった。
扉の外に、剣が吊るされている店。
革の鎧を並べている店。
鉄の匂いが漂っている。
胸の奥が、不安でざわついた。来てはいけない場所のように思えた。
市場通りで、子どもが泣いていたのだ。迷子は大声で母親を呼んでいた。
イリーナは、子どもの手を引いて一緒に母親を探してやった。独りぼっちになってしまう心細さは、身に染みて知っていたから。
イリーナの家は貧しい小作農家だった。毎日の食事にも事欠いていた。それでも、両親は愛情をかけて育ててくれたのだと思う。七つの年までイリーナは生き延びることができたのだから。
両親は、食料の尽きた冬の終わりに相次いで亡くなった。そして、一人残されたイリーナは孤児院に引き取られたのだった。
しばらくして、母親を見つけた。彼女も懸命に子どもを探していたようだった。強く子どもを抱きしめ、それからコツンと頭を叩いた。勝手にウロウロしちゃだめでしょと。
イリーナは手を繋いで帰っていく母と子を見送って、それから初めにいた通りへと引き返した。
引き返したはずだった。
迷子を助けたのに、自分が迷子になっていたのだ。
イリーナは、尼僧長から渡された地図を穴が開くほどに見つめる。しかし、不安で混乱した頭では、この地図のどこに自分がいるのかまるで分からなかった。
どうしよう。そう思ったときだった。
「君……」
低い声が、すぐ近くから聞こえた。
イリーナの心臓が跳ねた。
振り向くと、背の高いひとりの青年が立っていた。布にくるまれた長いものを持っていた。それが何なのかイリーナには分からない。
青年は黒い外套をまとい、深い黒の毛皮の襟巻を巻いていた。冬の光を吸い込むような漆黒の中で、金色のゆるい巻き毛が一筋きらりと輝いている。
彼はイリーナをまっすぐに見ていた。
その瞳を見た瞬間――
世界が、止まった。
息ができなかった。
胸が締め付けられる。
初めて見るはずの顔だった。
それなのに、知っている、と感じた。
ずっと前から。
ずっと昔から。
胸の奥の、誰にも見せない大切な場所が、熱を帯びて脈打っていた。
青年の表情もまた、凍りついたように動かなかった。
彼の視線は、イリーナから離れない。
イリーナは、自分の髪が肩に落ちていることに気づいていなかった。買い物に出かける前に軽くかぶったグレーの頭布が、はらりと肩に落ちていた。
冬の光が、蜂蜜色の髪を淡く照らしていた。
青年の唇が、わずかに動いた。
「……どうして」
その声は、かすれていた。
何を問われているのか、イリーナには分からなかった。
だが、答えなければならない気がした。
「わ、私は……」
声が震えた。なぜ震えているのか分からない。
怖いわけではない。むしろ、懐かしかった。涙が出そうになるほどに。
青年が、一歩近づいた。
それだけで、胸が激しく脈打った。
「……迷った、のか」
ようやく、彼はそう言った。
イリーナは、小さく頷いた。
青年の視線が、周囲の店を一瞥する。そして、再びイリーナへ戻る。
「ここは、教会の者が来る場所じゃない」
イリーナの肩から落ちた頭巾を拾って、彼はそう言った。
責める響きはなかった。ただ、事実を告げているだけだった。
イリーナは胸を押さえた。まだ、鼓動は収まらない。
青年の瞳から、目を離せなかった。
なぜ、この人を見ていると、こんなにも苦しいのだろう。
そして同時に、こんなにも満たされているのは、なぜなんだろう。
まだ、名前も知らないのに。
右目の奥に熱を感じた。
なんだか熱っぽい。そう感じた次の瞬間には、しっかりと燃えるような熱を感じた。
ドクンと心臓が跳ねる。
目の前に火花が散った。
思わずイリーナは右目を押さえる。
しかし、それは苦痛ではなかった。全身に広がっていく熱に震えたが、それは喜びの予感だった。
目の前の青年が同じように左目を押さえて、イリーナを見つめていた。
そしてゆっくりと手を下ろすと、その左目に赤い柔らかな光が灯っていた。
彼の目が僅かに歪み、唇が震えていた。そして頬を濡らす雫がきらりと煌めいた。
イリーナは、自分の右目も光を灯しているのだと悟った。
向かい合った青年の左目からイリーナの右目へ、柔らかな光の粒が微かな線を描いてつながっていた。
視界が潤んで、彼がよく見えない。瞬きする間を惜しむほど、彼を見つめていたいというのに。
寒さなどもう感じない。全身が熱くてたまらない。
――ああ。
やっと、見つけた。
湧き上がる愛しさで、息が止まりそうだった。
世界が終わっても、この光だけは失いたくないと思った。




