第11話 春を告げる
ピルルルルルル……チリリリリ……
春を告げるヒバリの澄んだ鳴き声が、高い蒼天から降り注いでいた。
雪解け水が流れる小川はまだ冷たかったが、空気は柔らかく緩んでいた。
窓から、早朝の光が優しく差し込んでいた。
「ルシアン! 起きてちょうだい」
遠くから届く母の声で目を覚ました。
ルシアンは、寝過ごしてしまったと慌てて立ち上がった。
クローゼットからシャツを出し、素早く着替えた。
そして、ふと、自分の部屋はこんなに狭かったかなと首を傾げた。壁のしみにも、覚えがなかった。
「ルシアーーン! 早く手伝って!」
「はい。今、行きます」
急いで階段を下り、勝手口から納屋へと向かった。
納屋の戸を開くと、小麦粉の入った大きな袋が積んであった。
剣はどこだったかと探したが、見当たらなかった。
日々の鍛錬を怠れば、剣技はすぐに廃れていく。毎朝の練習を欠かすわけにはいかないのだ。それなのに、ない。
ルシアンが茫然としていると、すぐ後ろから声がかかった。
「ほら、ぼうっとしてないで、そこの小麦粉を運んでちょうだい。朝のミサまでに仕込みを終わらせなきゃいけないんだから」
まったくもう、と母がぼやいていた。
そうだった。
うちはパン屋だった。
毎朝、生地を捏ね、パンを焼いて売っているのだ。
ルシアンは、小麦粉を一袋担ぎ上げ、厨房へと入っていった。
朝の光が、ステンドグラスをまばゆく輝かせていた。
家族や、町の人々と共に並んで座り、ルシアンはそのステンドグラスを見つめた。
懐かしいような、不思議な気分だった。
厳かな祈りの時間。
神官の、胸にしみ込むような低く穏やかな声が教会の中に響いていた。
「――ですから、皆さん。自身と愛する者のために、償い続けてください。それが、救済であり、幸福へとつながるのですから……」
両手を広げ、柔らかい笑みを湛えて、神官は集まった町の人々を見つめていた。
ミサが終わり、皆が帰っていく中、ルシアンは神官へと歩を進めていた。
「ルシアン?」
「すみません、母さん。少しお話をしたら、すぐ帰りますから」
仕事があるんだから、早くしてよと言いながら、母は教会をあとにした。
ルシアンは、神官を振り返った。
「どうしましたか?」
「あ、あの……」
神官の説教を聞いていた間、どうしても尋ねなければならないと思っていたのに、彼を前にするとそれが何だったのか、ルシアンは分からなくなってしまった。
神官は相変わらず、微笑みを浮かべている。
「……そうそう、実はこのあと、天配の方々の結婚式があるんですよ。今日は本当に良い一日になりそうです」
「天配の……結婚式」
ルシアンの心臓がドクンと脈打った。
天から認められた運命の恋人。
その言葉に、甘く胸が締め付けられた。
「ベルゼ様。天配として結ばれた二人は、その後、どうなるのですか?」
「彼らは赦され、祝福され、来世で天への道が開かれます」
ルシアンは、心の中でベルゼの言葉を繰り返した。
赦されるという言葉が、なぜか切なく感じた。
人は罪を背負った生き物だから、ずっと償い続けなければいけないと教えられてきた。そして、教えのとおり、償いのために生きてきたつもりだ。
赦されていいのかという思いが、ルシアンの中にはあった。
しかし同時に、赦しを切望してもいた。
「天に行ったあとは、どうなるのですか?」
「新たな無垢な魂となって生まれ変わります」
「……無垢な、魂……」
甘美な衝撃だった。
ベルゼが、くすりと笑った。
「ルシアン、どうしたんですか? 経典にも書いてあるではないですか。もしかして、ちゃんと読んでいないのですか?」
少しからかうように言われて、ルシアンの頬が赤く染まった。
考えてみれば、確かに経典にその記載はあるし、学校でも習ったことだった。
なぜ、今さら驚いてしまったのか分からなかった。
「すみません。今日は、なんだか朝から変な気分で……」
「そうですか」
ピルルルルルル……
ヒバリの鳴き声が微かに聞こえた。
「さあ、今日の仕事が待っているのでしょう。もう、お行きなさい」
「はい」
ルシアンは教会を出た。
温かく、日の光が降り注いでいた。
いつものようにパンを焼こう。
新しいパンのアイデアを考えよう。
一口頬張れば、幸せを感じるような、そんなパンを焼いてみたい。
ルシアンは、軽やかな足取りで家へと向かった。
ベルゼは、目を細めてそれを見送っていた。全てを知る者として、最後まで見届けようとするかのようだった。
あのとき、神の目に何が映り何を思ったかは、計り知れない。ただ、人もベルゼも、神の意思に従うのみだ。
これまでと同じように、ベルゼはこの世界の住人たちを見つめ続けていくだけだ。
ピルルルルルル……チリリリリ……
せわしなく羽ばたきながら、ヒバリが高く舞い上がっていく。
帰り道で、ルシアンは、その姿を目で追いながら頬を緩めた。
まるで、空から降ってくる光の粒のような声だと思った。
「お花はいりませんか。春のブーケはいりませんか」
花売りの声が聞こえた。
少女の声だった。
ドクンと心臓が跳ねた。
早く振り向きたいのに、体が思うように動かない。
ルシアンは、ぎこちなくゆっくりと振り返った。
春の花が溢れかえった篭を持った、一人の少女がいた。
蜂蜜色の髪が暖かな光の中で、淡く輝いて見えた。
その姿を見た瞬間、左目の奥が、焼けるように熱くなった。
――ああ、僕は知っている。この熱も、この人も……。
ルシアンは少女を見つめたまま動けなくなった。
少女もまた、彫像のように固まっている。
花籠を抱えたまま、ルシアンを見つめていた。
その瞳が、揺れた。
まるで長い夢から目覚めたように見開かれる。
ブーケを一つ取り、遠慮気味に差し出した。
「今朝、摘んだばかりのお花です。……贈り物に、いかがですか」
かすかに震える声だった。
その一言で、胸の奥に、何かが蘇ってくる。
それは、失ったはずの温もり。
ルシアンは、一歩、彼女へと近づいた。
なぜ、こんなことを言うのか、自分でも分からなかった。
「全部、くれないか……」
少女は目を潤ませて頷いた。
差し出されたブーケをルシアンは、両手で受け取った。
指先が、触れた。
それだけなのに、胸の奥が、温かく満たされていく。
理由は分からなかった。
けれど、それでよかった。
少女は、柔らかく言った。
「……ありがとうございます」
空は、どこまでも高く澄んでいた。
このまま、世界は静かに続いていくのだと、ルシアンは思った。
春の日差しが、眩しかった。
ピルルルルルル……
ヒバリは、なおも高く昇り続けていた。
まるで、帰る場所を知っているかのように。
了




