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現状確認


 

 パンとチーズの簡単な食事を終え、エリスはしばし川の流れを見つめている。

 川面を揺らぐ陽光が彼女の新しい服を優しく照らしており、穏やかな風と共に、静かに自身の内と外の変化を確認していた。


《ようやく人間らしい食事ができたな。顔色も幾分かマシになったようだ》


 地面を歩いていた黒猫がエリスの顔を見上げ、心中で魔王の声が響く。

 相変わらず尊大な口調だが、そこにはほんのわずか安堵の色が滲んでいた。


「はい。久しぶりにきちんと食べられて、身体が喜んでいるようです」


 エリスはそっと自分の両手を握り、開いてみる。

 かつては魔王と剣を互角に交え、岩盤を砕いたその手は今では細く、力なく見えた。


「……ですが、やはり身体は随分と弱っています。ほんの少し歩いただけで、息が切れるような感覚があります」

 

《当然だ》


  魔王の声が少し教師めいた口調になる。


《お前の身体は文字通り生まれ変わったようなもの。余が軽く感じ取って見ても、かつての魔力と闘気はまるでない。勇者としての身体能力を取り戻すのは夢のまた夢と思った方がいい》

 

「はい、それは感じています」


 エリスはいたって冷静にうなずき、自身の状態を淡々と分析し始めた。


「以前ならこの川も軽く跳び越えられたでしょうけれど、今は無理です。きっと流れに足を取られてしまいます」


 目の前に流れる川はかつての自分なら鼻歌まじりに飛び越えられるほどの幅であるが、今はそんなことしたらあっという間に流されてしまうだろう。

 その事実に、エリスは苦笑するしかなかった。

 

「できること……と言えば、普通の少女と同じ程度のことです。歩く、走る、物を持つ、投げる……かつての戦闘の記憶は残っていますが、身体が全く追いつきません。だから戦うことは……少しずつ慣れていくまではできないと思います」


 その言葉には諦めというより現実をしっかりと見据えた潔さがあった。

 彼女はもう無敵の勇者ではないのだ。


《つまり、野良犬に吠えられても逃げ出すしかない、と》


 魔王はあえて苛烈な表現をしたが、エリスは正直に頷くしかなかった。


《ならば聞こう。いざという時、お前はどうするつもりだ? かつて守った民衆の一人に金品を強請られるかもしれんぞ?》

 

「……その時は説得します。それでもダメなら逃げます。無駄な争いは避けるのが一番です。――そして、あなたから助言を受けます」

 

《……ふん》


 魔王は少し満足げに唸った。

 彼女が「逃げる」という選択肢を即座に選んだこと、そして最後に「自分を頼る」という選択肢を持ったことが気に入ったらしい。


《良い心構えだ。では、次は余の状態について教えてやろう》


 エリスは姿勢を正し、黒猫を前にして真剣に耳を傾けた。川のせせらぎと心中に響く魔王の声だけが、静かな時間に流れる。


《余は現在、本来の力のほとんどを失っている。あの転移術は復活の糧として温存していた魔力の全て、すなわち余の存在の根源のほぼ全てを消費した。よって今の余にできることは限られている》


 魔王は自身の状態を誇張でも卑下でもなく、ありのままに語った。


《まず身体能力についてだ。黒猫の姿で現実に顕現しているが、この猫の姿は見ての通り、大した力はない》


 エリスの肩の上に黒猫がふわりと着地し、まるでデモンストレーションのように小さな前足で彼女の肩をポンポンと軽く叩いた。その力は確かに猫そのものだった。


《……爪と牙でねずみ一匹を脅かすくらいが関の山よ》

 

「……ふふっ」

 

《笑うな。引っ掻くぞ》

 

「はい、すみません」


 尊大な態度なのに、仕草は可愛らしい猫でしかない。

 その差がエリスにとって可愛いとしか思えず、どれだけ恐ろしいことを言われても微笑んでしまうだろう。

 

《ゴホンッ!……次に会話だ。心の中でも可能だが、以前お前が監獄に入れられていた頃と比べ、何を考えているかを視ることはできぬ》

 

「あなたとの繋がりは、ある程度近づいていればいつでもできる会話のみ、ということですね」

 

《ああ。どの程度の距離まで可能かは不明だが、大方その通りだ。しかし、お前とはおそらく魂が同一化しているはず――だから絶対に無理はするな。お前が倒れると、余の存在までもが消滅するきっかけとなってしまう。まず第一に、その脆弱な身体を労わるのだ》

 

「……はい、気をつけます」


 エリスは自身が絶対に無理をするだろうことを魔王に看破されていることが気恥ずかしくなり、少し照れくさそうに俯いた。


《そして、お前の最大の関心事であろう――余の魔力についてだ》


 魔王の声が真剣味を増し、エリスも目を見開いた。


《回復した魔力で、“器”となるお前の身体を乗っ取り、この世に舞い戻る予定だったが……並大抵の量が必要とわかった。余程のことがない限り、お前が生きている間に回復できるかどうかの話になる。――“負の感情“を糧にしようとしても、お前にそれは望めぬからな》

 

「そうですね……あの時のような感情はきっと、最初で最後でしょうから。少なくとも、今はそう思います」


 “永劫回帰の儀”で抱いた己の負の感情。封印が解けたかのように曝け出したあの感情は、死の瀬戸際だったからこそのものだろう。

 だからこそ、エリスは次にあのような感情を曝け出すことはないと確信していた。

 

 そして、エリスはその時の光景を頭に浮かべ、そして提案した。

 

「そういえば、あの時私を転移させたように、あなた自身が魔力でできることはありますか?」

 

《……残念だが、力を行使することはできないようだ。魔力はわずかながら存在するが、演算しても発動されないようだからな》


 何か危機に陥った時、魔王からの攻撃は期待できないということである。

 その言葉を踏まえ、エリスにある考えが過った。

 

「では、あなたの力を私に付与することは出来ますか? 例えば、身体能力を強化させたり、とか」

 

《ふむ、そうだな……結論から言うと、お前に付与することは不可能ではないと思われる》

 

「……!」

 

《しかし、だ》


 期待するエリスだったが、すぐさま魔王の冷やすような言葉を受けた。

 構わず魔王は続けていく。

 

《現在の余の残存している魔力の一部を仮に付与し、おまえを強化したとしても、せいぜい数分が限界だろう》

 

「数分……」


 エリスは呟いた。それはあまりに短い時間だった。

 続いて魔王の声が厳しく響いた。


《さらに、その代償は遥かに大きいはずだ。お前の身体は以前より遥かに脆弱である上、魔王の力とは基本的に人間と相反するもの。それが体内に流れ込む激痛に、お前の精神がおそらく耐えられまい》

 

「激痛……ですか」

 

《仮に耐えることができ、力を発揮できたとしても使用後は確実に戦闘不能、いや、生命の危機にすら陥る可能性がある。下手をすれば、力を使う前に命を落とすことになるかもしれないし、使うこと自体がお前の命を削ることになる》

 

「……そうですか。それならば」


 エリスは静かにまとめた。


「力の付与は、今は“最終手段”であり、使えば確実に共倒れになるということですね」

 

《……ああ。文字通りの“最後の切り札”だ。軽々しく使えるものではないことを肝に銘じろ。そして、力を付与したところで、どの程度身体能力が向上するか不明であることも念に入れておくのだ》


 当たり前のように激痛に耐え、使用すること前提のエリスの返事に魔王は呆れるが、言葉には出さずにいた。

 

 エリスは深く息を吸った。

 現実は厳しかった。彼女は無力で、魔王も力を失っている。

 二人合わせてかろうじて一人前の人間の戦力にすら、ならないかもしれない。


 しばしの沈黙が流れた。川面を揺れる木々の影がゆっくりと移動していく。


「――そういえば、魔王」


 エリスはふと、根本的な疑問を口にした。


「なぜ、あなたは処刑されようとしていた私を助けたのですか? あの時、私の心の声、いや“負の感情“を得た時点でこの世に顕現することもできたはず。ですがそれを……なぜ、私のために使ったのですか?」


 これはこの姿になって以来、ずっと彼女の心の隅に引っかかっていた疑問だった。

 魔王の行動は、復活を目論む彼の目的に完全に反していたからだ。


 魔王は少し間を置いた。答えに窮しているようにも、あるいはどう答えるか考えているようにも感じられた。


《…………ふん》


 ようやく、彼は鼻を鳴らすような声を上げた。

 

《あの時、お前が発した“助けて”という嘆きが余の癪に障ったのだ。あれほどまでに自己犠牲を貫き通しておいて、最後の最後でようやく吐いた本音が、それか? と。その心の弱さ、矛盾が余には我慢ならなかった》


 その言葉は、どこかごまかしていように聞こえた。


《そして、あの場に居合わせた人間どもの醜さにもだな。喝采を送りながらその実、内心では複雑な感情を抱き、誰一人としてお前を助けようとしない。その欺瞞と卑怯さが、余を逆なでしたのだ》


 こちらは、より説得力がある理由だった。


《つまりはな、余の気まぐれだ。復活の糧など、また改めて探せばよい。しかし、あのままお前が消える光景を見ていることは余の耐えられないところであった。それだけの話だ》


 エリスはその言葉をじっと聞いていた。そして、静かに微笑んだ。


「……ありがとうございます」

 

《何がだ?》

 

「気まぐれでも、武人としての誇りでも、なんでも結構です。あなたが私を助けてくれたという事実は変わりませんから」

 

《……馬鹿者め》


 魔王はそう呟くと、それ以上は何も言わなかった。

 しかし、エリスは魔王が自分を助けてくれたその事実が嬉しくて、心の奥底が沁みるように温かくなっていた。

 


「では魔王、私たちは……これからどこへ向かえばいいと思いますか?」


 エリスは地図を広げながら問いかけた。

 

「あなたの力を完全に回復させる方法はありますか? それとも……ただ、のんびりと旅を続けるだけですか?」

 

《いいのか? 余が力を完全に取り戻した時、お前の身体を乗っ取るというのに》

 

「その時は、そうはさせないよう頑張りますので」

 

《――大した自信だ。……力の回復の方法、か》


 魔王は少し考え込むように言った。


《余の力の根源は“負の感情”……憎悪、恐怖、絶望、妬み……そういった強大な負の力であることは知っているな? かつては常に戦争や混乱が引き起こされていた時、それらを糧として膨大な力を得ていた》


 エリスの表情がわずかに曇る。


《安心しろ。余に大規模な戦争を引き起こす力はない。今までも自発的に人間どもが発生させたことによる副産物を頂戴していただけだ。それに、万が一余にそれらを引き起こす力があったとしても、お前もそれを望まないだろうからな》


 エリスが望まないことはしない、と魔王はあっさりと言った。

 以前まで魔の王者であった彼としては、ありえないほどの配慮が含まれており、彼女の顔に驚きが貼り付けられる。


《個人の“負の感情“から、わずかな力を吸収することは可能かもしれん。だが吸収するのも時間と労力がかかるため、効率は悪すぎるだろうな》

 

「つまり、自然に回復するのを待つしかない、と……」


 そういうことだ、と黒猫はため息混じりに告げる。

 地道に行くしかない、という事実が彼に重くのしかかっていた。


 

 さて、現状がわかったところで、最後の大きな疑問が残る。

 

《そして、最後に――お前の身体についてだ》


 魔王の声が、さらに真剣味を増した。

 むしろこれが本題である、と言ってるようでもあった。


「……私の?」

 

《ああ。お前は自分が“普通の人間”だと思っているか?》


 突然の問いに、エリスは呆然とした。

 自分はもう勇者ではなく、生まれ変わったようなもの、ということは魔王も知っての通りのはずなのに、何を意図しての質問なのだろうか。


「え? 今は……そうですよね? あなたもおっしゃった通り、弱っていますし」

 

《表面上はな。しかし、忘れるな。お前は余の魔力の影響で外見が変化し、今も余はお前の心中にも寄生している。これは極めて特殊な状態だ。この状態がお前の身体にどのような影響を及ぼすのか……余にも正確にはわからない》


 エリスは自分の黒い髪の先をつまみ、赤い瞳を川面に映して確かめた。


《変化は外見だけでは済まない可能性もある。あるいは、ゆっくりとではあるがお前の身体が余の魔力に適応し、常人とは違った成長を遂げるかもしれん。逆に拒絶反応を起こし、少しずつ蝕まれていく可能性もゼロではない》


 それは、考えれば考えるほど恐ろしい可能性だった。

 しかし、エリスはむしろ興味深そうな表情を浮かべた。


「つまり……私たち二人にとって、この状態がどういうものなのかを確かめることも旅の目的の一つなのですね」

 

《そういうことになる。放っておくわけにもいかんからな》


 エリスは地図をしまい立ち上がった。少し眩暈がしたがなんとか踏みとどまり、宣言するように言った。


「では、結論。私たちの旅の目的は、三つあります」

 

《おお?》


 今までの会話を即座にまとめ、宣言するエリスに魔王は見直したかのように驚く。


「第一に、“生き延びる”こと。食べ物と安全な寝場所を確保し、この身体を休めながら旅を続けること」

 

《当然だ》

 

「第二に、“知る”こと。魔王の力がどのように回復するのか、そして、私の身体にどんな変化が起きているのか等を確かめること」

《ふむ》

 

「そして第三に……“見つける”こと」

 

《……何をだ?》


 魔王の疑問にエリスは新たな決意を込めて、遠くの地平線を見つめながら応えた。


「私たちがこれからどう生きていくべきかを、です。勇者でもなく魔王でもない、エリスと元魔王という存在が、この世界でどうあるべきなのかを……ゆっくりと見つけていきたいと思います」


 その言葉は不安と希望が入り混じってはいるが、確かな意志に満ちていた。


《……はっ》


 魔王が短く笑った。


《随分と悠長な目的だな。しかし……悪くはない。せっかくの“生まれ変わった”人生だ。好きに生きるがよい、『エリス』》


 彼がその名前を呼ぶ声は、何故か興味深いものを見るかのようなものだった。


「ええ。よろしくお願いします……えっと、魔王。お名前ってないのですか?」

 

《…………余は魔王である。それで十分ではないか?》

 

「でも、これから長い旅です。ずっと“魔王”と呼ぶのも少し……ねえ?」


 エリスは微笑みながら、しかし真剣な眼差しで問いかけた。


《……煩いな。気が向いたら話してやる》


 魔王はそう言うと思考に沈むように黙り込んだ。

 エリスは満足そうにうなずき、肩の上の黒猫をそっと撫でた。

 

「では、まずはこの川沿いの道を下ってみましょうか。地図によれば、もう少し行くと小さな町があるようです」


 そして、エリスは歩き出した。

 

 足取りは依然として軽快とは言えなかったが、そこには確かな“目的”が宿り、この旅の最初の一歩よりも確かな力強さを感じさせていた。


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