『勇者論』への誘い
(……不思議ですね。私は、魔法習得のために本を探していたのに)
この都市に、この図書館に来た目的は、魔法について学ぶため。
それが、いつの間にか己の過去と向き合うことになっているだなんて、エリスは思いもしていなかった。
「…………」
エリスは首を振り、手にした本を一つ、そっと開いた。
『「永劫回帰の儀」の検証と考察』』
――あの、己の身を清浄なる炎で焼いた、思い出すたびに目を瞑ってしまう出来事の詳細が、ここに記載されている。
エリスは書籍を、震える指でめくっていく。
そこには、あの日の記録が克明に記されていた。
“清浄なる炎は、その身体と魂を喪失させるものではない。次に魔の者が世に顕現した時、再び舞い降りる剣となるよう、その身を概念へと昇華させるための儀式である”
陛下の言葉通りの記載が、そこにはあった。
続く頁には、実際の儀式の様子が書き留められている。
“勇者は終始、平静な表情を崩さなかった。炎が足元に迫るも、彼女は微笑みを絶やさず、時折集まった民衆に向けて優しい視線を送っていた“
“炎が白き衣を包み込んだ時も、彼女の口から苦悶の声が漏れることは一度としてなかった。その姿は、まさに聖なる犠牲そのものであった“
エリスは頁をめくる手を止めた。
そこには、さらに続きがあった。
“しかし、儀式が終わった後、多くの者たちが深い悲しみに暮れた。特に、勇者の最期を最も近くで見届けた衛兵や侍女たちの中には、精神の均衡を崩し、職を辞する者も相次いだ“
“彼らは『自分は何もできなかった』『勇者を見殺しにした』と、深い自責の念に苛まれたという“
レオ、リリィ、そしてセシリアの顔が脳裏をよぎる。
彼らだけではない。
きっと、もっと多くの人々が、今もどこかであの日のことを悔いている。
「……あの方達は……あの時、何もできなかったわけじゃないのに」
エリスの呟きは、図書館の静寂に溶けていく。
頁を捲る速度が遅くなる。
一枚一枚紙をめくり、記載されている内容を視界に入れる。
『永劫回帰の儀』について聞き取り含め、様々な角度から記載されている。
例えば肯定論。
国家安寧のための必要悪。
勇者本人の意思によるものだった。
歴史的必然としての勇者の運命。
…………
そんな内容が学者から街の人々までの意見をまとめ、考察されている。
しかし、共通しているのは全肯定ではなく、『仕方がないことだった』という諦念が含まれていたことが補足されていた。
同時に、否定論も記載されている。
恐怖により暴走した国家による英雄殺し。
英雄の力を封じる代替手段の放棄。
情報操作と民意の形成。
………………
痛切な後悔の念や国家への罵詈雑言、そして悲痛な叫びのような言葉が書き連ねてあった。
しかし、『なら、どうすれば良かったのか』を語る者は一切いなかったとも補足されている。
そして最後に、中立的な、懐疑的な論もあった。
主要な部分を占める歴史家の冷静な分析は、儀式よりも、そこに至るまでの経緯を問題視していた。
“いかに強大な力を持つ個人であっても、社会と対話し、共に生きる道を模索する仕組みがなかった“
“恐怖が先立ち、対話が放棄された“
“この「対話の不在」こそが、永劫回帰の儀が後世に残した最も深刻な課題ではないか“
エリスはそれらの論考を読み終え、静かに頁を閉じた。
(……こんな意見があるだなんて、思ってもいませんでした)
肯定論の中にも、否定論の中にも、それぞれに確かな理がある。
エリス自身、自らの力がいつか暴走するのではないかという恐怖を抱いていたことも事実だ。
あの時、炎の中で消えることを、心のどこかで望んでいた自分もいた。
けれども、それでよかったとは思えない。
今、こうして生きているからこそ、とエリスは思う。
あの儀式に、誰もが納得する正しさはなかった。
たくさんの迷いと、後悔と、それでも前に進もうとする意志が、あの場にはあったのだと。
「……………」
エリスは俯いてしまった。
その場に立ち尽くしたまま、足元には先ほどまで読み漁っていた何冊もの本が積まれている。
「――随分と。熱心に読んでくださっているようですね」
突然かけられた声に、エリスははっとして振り返った。
そこには、先ほどの銀縁眼鏡をかけた若い女性司書が、微笑みながら立っている。
両手に多くの本を抱えていることからして、配架作業を行うために来たようだ。
「あっ、ごめんなさい。お邪魔してしまったかしら」
「いえ、丁度キリがいいところまで読むことができましたので」
エリスは足元にあるいくつもの勇者に関する本をそっと本を棚に戻し始めた。
一冊、また一冊と、丁寧に。
その手つきはまるで、勇者であった己の過去と、静かに別れを告げているかのようだった。
「ここの本、読んでもらったからわかるでしょうけれど、出鱈目ばかりでしょう? 当初は多くの方々が訪れていたんだけれど……」
女性はそれ以上は言葉にしなかった。
おそらく置かれている本の内容があまりにも一辺倒すぎて、勇者に関する本に対する失望が広がるのも早かったのかもしれない。
「あはは……それにしても、もっと色々なことが書かれててもいいと思いましたが」
エリスは単純な疑問を呈する。
自分で言うのもなんだが、勇者はおそらく数多くの研究者が興味を持ったはずの存在。
多種多様な角度から研究・評論されてもおかしくないと思っていただけに、この有様は想像していなかった。
司書の女性は頷きながら、応えた。
「確かにそうなんだけれど、王都からの圧力があったとかいう噂も流れていて、なによりお偉いさんが望んだのかも」
自分の力ではどうしようもならない力に、司書の女性は無力さを噛み締めるように、寂しく微笑んだ。
「……本当は、一般の方々にこそ、色んな角度から興味を持ってもらいたいのにね」
学者や研究者は、言われなくとも自分で情報を探し、集め、その知識を得ていく。
しかし、民衆は別だ。
こういった場所でしか情報を得られないのだから。
《……こんな本ばかりでは、勇者に対する考えも歪なものになるだろうな》
(……興味を持ってくれるだけでありがたいですよ)
魔王が失望したように嘆く。
しかし、エリスはそれでも、これらの本が勇者に興味を持ってくれるきっかけになってくれるのを願った。
司書の女性は本を書棚に並べながら続ける。
「この街にも、勇者様を慕う方はたくさんいらっしゃいます。私もその一人です。あの方がいなければ、今のこの平和はなかったでしょうから」
「……そうですね」
「でも、勇者様はきっと、私たちがいつまでも過去に縛られているのを望んでいないでしょうね。あの心優しき方なら、きっと」
「…………」
「でも、だからこそ私は、今を生きる人たちが未来に希望を持てるように。勇者様を絶対に忘れないように、いつまでも覚えていられるように、こうして本の整理を続けているんです」
エリスはその言葉に、救われる気持ちになった。
この女性は、自分が勇者だとは知らない。
それでも、自分なりのやり方で、あの日の出来事と向き合い、今を生きている。
「素敵な考え方です。――勇者様のこと、本当に尊敬しているのですね」
「それほどでもないですよ」
司書の女性は照れくさそうに頭を掻く。
その仕草は、図書館という厳かな場所には少し不釣り合いで、エリスは思わず口元を緩めた。
「でも、勇者様についてもっと知りたいと思う方には、なかなか良い本がないのが現状でして……」
女性は書棚に並んだ背表紙を指でなぞりながら、少し残念そうに言った。
「ここにあるのは、どれも似たような視点ばかり。王都の公式見解をなぞったものが多いですし、かといって否定論の類いは資料的価値はあっても、読んでいて心が痛むものばかりで……」
「そう……ですね」
エリスはそっと自分の胸に手を当てた。
この女性が言う「似たような視点」というのは、おそらく「勇者という概念」に焦点を当てたものばかり。
「勇者だった一人の人間」として見つめたものは少ないという意味なのだろう。
女性はふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そういえば、エリスさんは学生さんではないんですよね?」
「はい。旅をしている者です」
「そうでしたか……それなら、残念ですね」
「……? 学生だと何かあるのですか?」
女性は本を抱え直しながら、優しい口調で言った。
「ええ、明日、アルカナム……魔術学院で公開討論があるんですよ。――『勇者論』という、研究者から学生すべてを集め、論戦を行う一大イベントです」
「『勇者論』……!?」
勢いよく振り返り、エリスは反応する。
「勇者という存在の歴史的意義や、各国における勇者観の変遷について語られるそうで。普段は研究者向けの講義なんですが、年に一度、市民にも公開される特別な回でして――」
「勇者論……勇者に関することを論戦する……講義?」
エリスの胸が高鳴った。
「ええ。司会を務めるオルディス教授が、あの『永劫回帰の儀』についても、儀式そのものではなく、そこに至るまでの『対話の不在』という視点から鋭く分析されている方で。私も何度か聴講したことがあるのですが、いつも新しい発見があって……」
女性の目が、憧れの色に輝く。
彼女にとって、この講義は特別なものなのだろう。
「エリスさんも、もし学生さんか研究者の方だったら、きっと参加できたんですけど……残念です」
「学生や研究者……でなければ、参加できないんですか?」
「ええ。講義室の収容人数に限りがあるのと、内容がある程度専門的ですから。参加するには、アルカナムの学生証か、研究者として登録された方の身分証が必要なんです」
普段、学生や研究者が身につけているローブが、参加券のようなものらしい。
司書の女性は残念がりながら頬に手を当て、自身の胸元に手を当てる。
彼女もまた、かつてアルカナムで学んだ身なのだろう。
「外部から参加される方もいらっしゃるにはいらっしゃるんですが、ある程度名の知れた方であることと、事前登録が必要でして、もう締め切られています……」
「そう……なんですね」
エリスは小さく頷いた。
確かに、今の自分には、『勇者論』に参加するための何の資格もない。
旅の途中で立ち寄っただけの、ただの村娘だ。
それでも――。
(勇者論……私のことを、誰かがどう語るのか)
気づけば、そんなことを考えていた。
自分が勇者だった頃、勇者自身のことを語る者などいなかった。
語ることはあっても、それは功績や噂話、伝説のようなものばかりで、誰も自分の内面を語ろうとはしなかった。
それは当然のことだ。
己は「勇者」であって、一人の人間として見られることは、ほとんどなかったのだから。
でも今、この図書館で、様々な論考を読み、賛否両論があることを知った。
自分が知らなかっただけで。
多くの人々が、あの儀式について、勇者という存在について、考え、悩み、言葉を紡いでいたのだ。
(――聞いてみたい)
その欲求は、抑えがたいものだった。
誰が、あの日のことをどう語るのか。
自分が知らなかった視点で、勇者という存在がどう見られているのか。
たとえそれが、肯定でも否定でも。
たとえ、聞くのが少し怖くても。
「いつか機会があれば、是非オルディス教授の講義を直接聴いてみてください。教授のお話は、本を読むだけでは得られないものがありますから」
女性はそう言って、次の書棚へと歩いていった。
◇ ◇ ◇ ◇
エリスはその場に立ち尽くしたまま、もう一度、先ほどまで読んでいた本に目を落とした。
『「永劫回帰の儀」の検証と考察』
表紙には、あの日の日付と、簡素な紋章が刻まれている。
そして、静かに本を棚に戻した。
(――もし、私に資格があったなら)
エリスは、窓の外に広がるアルカナム魔術学院の塔を仰いだ。
夕日に照らされた白亜の壁が、穏やかな光を反射している。
その塔の中で、明日、多くの人間が勇者について語る。
様々な視点から、様々な思いを込めて。
《……参加したいのか?》
「……はい。私は知りたいのです。人々が、あの日のことをどう思っているのか。――勇者だった私のことを、どう考えているのか」
《答えを知って、どうするのだ?》
「どうもしません。ただ、知りたいのです」
エリスは夕日を眺めながら、静かに続けた。
「勇者だった頃の私は、誰かの考えを知ろうとしなかった。周りが私をどう見ているか、なんて考えたこともなかった。――ただ、自分ができることをするだけだったから」
《それがお前の良さでもあったがな》
「でも、今は違うんです。自分が誰かにどう思われていたか、それを知りたいのです」
――それが、きっとこれからの自分を作っていくから。
そう心の中で呟くエリスの瞳には、決意の光が満ちていた。




