ドレスを売り、旅支度
どこまでも続く緑と青空の下で、草原の風が歩くエリスの黒髪と白いドレスの裾を優しく揺らしていた。
「……ふう」
のどかな光景とは裏腹に、わずかにため息が漏れる。
かつて勇者として鍛え上げられた身体でも、長期間の監獄生活と絶食に処刑のショック、転移の影響で完全に衰弱していた。
立ち上がるだけで少し眩暈がしたくらいだ。
《どうした勇者。いや、エリスだったな。早くも疲れたか?》
心の中に魔王の重々しい、しかしどこか含みのある声が響く。
「いいえ、大丈夫です。ただ……少し、お腹が空いてしまって」
エリスはいたって真面目に答えた。
《当然であろう。奴らはお前にまともな食物など与えていなかったからな。余もこの姿であるからには空腹をどうにかせねばならぬ》
魔王の声が少し曇る。彼自身、すべての魔力を消費した反動で、本来の力のほとんどを失っている。黒猫の姿で顕現していること自体が、その証左だった。
エリスは自分の白いドレスを見下ろした。上質な布地は、処刑のために用意されたものだ。それは同時に、彼女の「過去」を如実に物語る証拠品でもある。
「このままでは、どこに行っても目立ってしまいます。そして、この服を着ているということは……」
《あの『永劫回帰の儀』を生き延びた、と思われるということだな。王都にとってはさぞや都合の悪い証人であろうことよ》
魔王が先回りして言う。その口調は冷ややかだが、エリスの危険を案じる意志が感じられた。
「はい。……このドレスは、役に立たないどころか危険です」
エリスはそう呟くと、どこか遠くを見ながらまず成すべきことを決めた。
「ですので、まずこのドレスを何かに変えるべきです。そして、食べ物と地図、それに……普通の服を手に入れなければ」
《ふん。さすがは元勇者。現実的な課題への着眼は早いな》
魔王は認めるように言った。
《では、どうする? お前の懐に財布など入っていると思うか?》
「残念ながら、私の持ち物はこのドレスと履いている靴のみです」
エリスはくすりと笑った。
長期間牢獄に幽閉されており、出されたかと思えば処刑だったのだから、荷物など集める時間などあるわけがなかった。
「ですから……このドレスそのものを、お金に変えようと思います」
《ほう?》
「この布地は上質です。きっと多少の値は打つでしょう。町や村を見つけて、古着屋さんか何かで売却したいと思います」
勿論、王都とはまるで関係ない場所であることが前提条件ですが、とエリスは付け加えて微笑んだ。
魔王の声が少し興味深げになる。
《……なるほど。では、まずは人里を見つけるとしよう。余の感覚もかなり鈍っているが……》
エリスの肩の上で目を瞑り、気配を読み取る魔王。髭がぴくりと動き、尾がピンと逆立つと感知した方角へと顔を向けた。
《西の方角に、わずかながら人の気配を感じる。距離は……わからん》
「それで十分です。ありがとうございます、魔王」
エリスは「魔王」と呼び、西の方角に向きを変えた。
肩の上の黒猫は、改めて様付けではなく、呼び捨てにされていることに少しむっつりとしたように見えたが、特に否定はしなかった。
エリスは再び歩き出した。
足元は草の感触が柔らかく、靴も長時間動くようではないため、何もない平原を歩くのは思った以上に体力を消耗する。
しかもこの儀式用のドレスは非常に歩きにくかった。
普段から村娘のような格好をしていたエリスは違和感が拭えないためか何度も裾を踏みそうになり、よろめき躓きそうになった。
《その様子では日が暮れても辿り着けまい。まったく、見ているだけで気が気ではないぞ》
魔王が呆れたように言う。
《……仕方ない。余が先を案内する。少しでも負担を軽減できる道らしきものを探そう》
そう言うと、エリスの肩の上の黒猫が軽やかに地面に飛び降りた。そして、すっと前方へ走り出し、時折立ち止まってはエリスの方を振り返る。
「わあ……! ありがとうございます!」
エリスは驚きながらもその姿にほっとした笑顔を浮かべ、黒猫の後を追った。
猫の姿とはいえ魔王の洞察力は依然として鋭く、人の通った痕跡や獣道らしきものを見つけ、的確に導いていく。
一時間ほど歩いただろうか。小さな川に辿り着いた。
水の流れる音は、エリスにとっては甘露の響きだった。
「水です!」
彼女は駆け寄りひざまずくと、両手ですくって一口含んだ。冷たく、そして驚くほど甘く感じられた。
《むやみに飲むな。虚弱な身体が驚くぞ》
魔王は岸辺で座り込み、忠告する。
しかし、その目はエリスが喉を潤すのを確認している。
「はい。少しだけ、ですね」
しばし休憩した後、再び歩き出し今度は川沿いを下っていく。
魔王曰く、人の集まる場所は水辺近くにある可能性が高いという。何も疑わずにエリスはその足を動かし続けた。
そして、ようやく平原の果てにぼんやりとだが集落らしき輪郭が見え始めた。小さな村のようだ。
「あれが……!」
《ああ、どうやら辿り着いたな。まずは一安心だ》
村の入口まで来ると、魔王はエリスの肩から軽やかに飛び降り、近くの茂みの陰にすっと身をひそめた。
《村人に見られるのは面倒だ。余はここで待つ。用が済んだら呼べ》
エリスは少し寂しさを感じつつも、それも当然だと肯いた。
今の彼らにとって、不必要な注意を引くことは避けなければならない。
「わかりました。では、少しお待ちください」
エリスは深く息を吸った。
かつてならば歓声で迎えられたであろう彼女は今、誰にも気づかれることなく、ただの旅の少女としてこの村に入る。
少しの緊張と少しの寂しさが胸をよぎったが彼女はそれを振り払い、村へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
村はこぢんまりとしているが、活気があった。
畑仕事をする人々、遊び回る子供たち。誰一人としてエリスが元勇者だとは気づかない。
彼らは好奇の視線を向けるものの、それはどこの馬の骨ともわからないよそ者に対するごく自然な警戒心だった。
目的の場所は古着屋。
着ているドレスを売るための場所を、エリスは少しおずおずとしながら畑仕事をする初老の女性に声をかけた。
「あの、すみません。この村に古着を扱っているお店はございませんでしょうか?」
女性は鍬を止め、エリスをじっくりと見た。
汚れた白いドレスを着た、やせ細った美しい少女。その姿は不自然に映っただろう。
「古着屋? ああ、ならば村の入口からまっすぐ進んだところの大きな樫の木の傍にあるよ。建前上は雑貨店だが、なんでもやってる。看板が出ているからわかるはずさ」
「ありがとうございます!」
エリスは丁寧にお礼を言い、教えられた方向へと急いだ。
そこには、確かに古びた看板がかかった小さな店があった。
店内はたくさんの古着や雑貨でぎっしりと埋まっている。店主らしい小太りで気だての良さそうな初老の男性が、帳面を睨みながら鼻歌を歌っていた。
エリスが入店すると、店主は顔を上げた。
「おや、珍しいお客さんだね。いらっしゃい、何かお探しかい?」
「あの……すみません。実は、こちらにある服を……売りたいのですが」
エリスは少し躊躇いながらも、白いドレスの裾をそっとつかんだ。
店主の目が、そのドレスの布地に一瞬で釘付けになった。商人としての嗅覚が働いたのだ。
「おや……? その布は……これはかなり上質なものだな。しかし、随分と汚れてはいるが……」
彼は近づき、細かい刺繍や縫製の具合を熟練の目で確認する。
「ふむ……これは、町の貴族の娘さんが着るようなものじゃないか。なぜ、お前さんのような娘がこんなものを?」
その問いに、エリスは内心で少し焦った。事前に考えておくべきだった。
心中で魔王が助言する。
《……落ち着け。嘘をつけと言うのではない。真実を話す必要もない。ただ、都合の悪い部分を省略すればよい》
(魔王? ……いたんですか?)
《お前一人だと何をしでかすか分からんからな。こっそり後を追っていたが、どうやら正解だったようだ》
魔王の言葉から自分が信頼されてないことに苦笑いを浮かべてしまうが、正論だ。
その指示にエリスはわずかにうなずき、手早く用意した答えを口にした。
「これは……旅の途中に報酬として貰ったものなのです。着たのはいいものの、ずっと歩いていると動きにくく……いっそ何か別の服と交換できれば、と思いまして」
それは嘘ではない。処刑へと向かう際に「貰った」もので、この身にあるのだから。エリスは純粋にそう思った。
店主は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追求しなかった。彼の関心はあくまで商品価値にあったようだ。
「そうかそうか。まあいいだろう。だがな、いくら上質とはいえ汚れているし、所々草の汁でシミになっている。これを仕立て直し、綺麗にするには手間がかかる」
商人の常套句だ。エリスもそれはわかっていた。
「ですから、お安くで結構です。ただ、今すぐ着られるような動きやすい服と……少しばかりの旅の資金に変えていただけませんでしょうか?」
店主は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「……わかった。示し合わせよう。そのドレスと引き換えに服を一着、それと銀貨六枚だ。どうだい?」
相場がわからないエリスには、これが適正価格なのか不当な安値なのか判断できなかった。
《……ふん。狡猾な老狐め。あの布地と刺繍の価値を考えれば、銀貨二十枚は下らん。しかし、今のお前に値切る力はない。仕方あるまい》
魔王が悔しそうに呟く反面、エリスは微笑んだ。
「ありがとうございます。それで十分です」
「では、早速交換といこうか。お前さんに似合いそうな服を探してくるよ」
「あ、あの! 以前、普段着にしていたお気に入りの衣服があるのですが……売っていますかね?」
エリスが勇者の頃から愛用していた粗末な革のドレスとその他諸々。
その特徴を伝えると店主はどうやら心当たりがあるようで。ほっとしたように笑い、その服を探しに店の奥へ消えていった。
◇ ◇ ◇
しばらくして店主が持ってきたのは、淡い黒色のゆったりとした革のドレスに灰色の薄手のチュニック、足元まで届くゆったりとしたズボン、ロープが一本ベルト代わりに着いてきて、そして最後は履き古されたがまだしっかりとした皮のブーツだった。
まさに彼女が望んでいた「村娘の格好」そのものだ。
「試着室と言うほどのものはないが、そこにある簾の後ろで換えてくるといい」
エリスは処刑時に来ていた靴とドレスを脱ぎ、新しい服に袖を通した。少し大きめだが、動きやすく、とても軽い。ブーツもぴったりとフィットする。
簾から出てきた彼女は、もはやどこにでもいる田舎の少女そのものだった。先程までの面影は、黒髪と紅目以外ほとんどない。
「おお、なかなかお似合いだよ!さあ、約束の銀貨だ。大事に使うんだよ」
店主から笑顔で六枚の銀貨を手渡されたエリスは、その冷たい感触を確かめる。
これが彼女と魔王の新たな旅の、最初の資金となるのだ。
「ありがとうございました。大切に使わせていただきます」
エリスは丁寧にお礼を言い、店を後にした。
次の目的地は食料品店だ。いくつかのパンとチーズ、ドライフルーツ、そして水筒と革製の荷物袋を購入した。
銀貨三枚が消えた。残りは三枚。わずかだが、数日分の食料にはなる。
最後に、雑貨屋で簡素な地図と小さなナイフを買い求める。
地図は周辺地域のものしか描かれていないが、今の彼女にはそれで十分だった。ナイフは護身用というより食料を切るなどの実用目的だ。
これで銀貨二枚も消え、残りの銀貨は一枚になってしまった。
《ふむ。あっという間に財布が軽くなったな。だが、必要なものは揃えた。まずは及第点としよう》
「ええ、これで大分安心しました」
エリスは村の外れ、川の畔にやってきた。購入したパンをちぎり、魔王と共に口へと運ぶ。
素朴な味だが、彼女にとってはこの上ないご馳走に感じられた。チーズの塩気が空腹を満たしていく。
《食べ終わったら次の移動だ。この村に長居は無用だ。――あの店主が何かを嗅ぎつけている可能性もゼロではないからな》
「はい……そうですね」
エリスは水筒の水で喉を潤し、そして地図を広げた。
「さて、どちらへ向かいましょうか……」
彼女の指が地図上をなぞる。
どうやら王都からはかなり離れた場所のようであり、周辺しか記載されていないこの地図にはその存在が見えない。
未知の場所にいることに対し、エリスの胸中に不安が過った。
しかし、それ以上に過去に縛られない自由な未来への、かすかな期待が胸に膨らんでいた。
肩の上で黒猫が小さく伸びをする。
陽光が、彼女の黒髪と猫の漆黒の毛並みを温かく照らしていた。




