勇者なんて、ならなくてもいい
魔法都市『アルカディア』へ向かう街道沿いの小さな丘の上で、エリスはふと足を止めた。
日はすっかり傾き、遠くの山並みが茜色に染まり始めている。
そろそろ今夜の野営地を探さなければならない頃合いだった。
《どうした、エリス》
肩の上の魔王が、不審そうに尋ねる。
「あそこに人が……」
エリスが指さした先、街道の脇の大きな岩の陰から、かすかなすすり泣きが聞こえてくる。
風に乗って、か細く途切れがちな声が届いていた。
《……また人助けか》
魔王の呆れたような声に、エリスは苦笑いする。
「放っておけませんから」
エリスはゆっくりと岩陰に近づいた。
泣き声の主は、一人の少女だった。
年齢はエリスと同い歳くらいだろうか。
ボロボロになった旅装束をまとい、膝を抱えて小さくなっている。
肩に掛けた鞄は空っぽのようにへたれ、周囲にはいくつかの荷物が無造作に投げ出されていた。
「……どうかされましたか?」
エリスがそっと声をかけると、少女はびくっと肩を震わせ、顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔、赤く腫れた目。
その姿を見て、エリスの胸が締め付けられる。
「だ、だれ……?」
「旅の者です。よかったら、お話を聞かせてくれませんか?」
エリスは少女の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。
少女はしばらくエリスを見つめていたが、堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「私、ルミナって言います。故郷を出て、旅をしてたんです。誰かの役に立ちたくて、勇者様みたいになりたくて……」
ルミナはそう言って、また声を詰まらせた。
勇者、という単語にエリスの心音が少し高くなる。
ルミナの話を聞きながら、エリスは少しずつ事情を理解していった。
小さな村の出身で、幼い頃から勇者の噂に憧れて育った。
勇者は魔王を倒した英雄、弱者の味方、困っている人を決して見捨てない存在。
――そんな話を聞くたびに、自分も誰かのために何かをしたいと願うようになった。
「大きくなったら村を出て旅をするって、ずっと決めてたんです。私は武器を扱うのも魔法も苦手で、戦うことなんてできないけれど。せめて優しくて、誰かの力になれる人間になりたいって」
結局待ちきれず、ルミナは旅立った。
村の人の反対を押し切り、わずかな貯金を握りしめて。
「……最初の街では、行き倒れのご老人を見つけました」
ルミナは自分の食べ物を分け与え、宿まで介抱した。
老人は感謝し、街の有力者を紹介すると言ったので、ルミナは喜んでついていった。
「――しかし、それは詐欺師の手口だった、と」
ルミナが悔しげな顔で頷いた。
老人の仲間たちに囲まれ、持っていた金のほとんどを騙し取られたのだ。
それでもルミナは諦めなかった。
「次に訪れた村では、病人の世話を買って出たんです。その人はお金がなく、肉親もいないため、他者が看病をしたがらなかったのです」
ルミナは喜んで協力し、一週間、寝ずの看病を行った。
その甲斐もあって病人は回復した。
しかし、村人は「よそ者が何か持ってきたのではないか」と疑い、ルミナを村から追い出した。
「……酷い話ですね」
エリスはルミナの背中をさすりながら、その話へさらに耳を傾けた。
「次の街では、行商人の荷物運びを手伝いました。お金もなかったので、僅かな賃金を得るために」
その行商人は親切で、ルミナも心を許していた。
数も多く、慎重に運ばなければならない荷物だったため、時間も労力もかかる手伝いだった。
ルミナは無事やり遂げた時、行商人と共に飛び上がって喜んだ。
今までのことがあって、人間不信になりそうな状況の中、ようやく真に人の役に立てたことを認識できたからだ。
――ところが。
「宿で眠っている間に、その人は姿を消したんです。翌日、お金をもらう予定だったのに……」
「…………」
「人々はみんな言うんです。全部、私が馬鹿だから……純粋すぎるからいけないんだって。……私、どうしたらいいのか、もうわからないよ……」
ルミナは膝に顔をうずめ、肩を震わせた。
「やっぱり私みたいな普通の人間が、人の役に立とうなんて、烏滸がましかったのかな。……勇者様みたいに、なんて思ったことが馬鹿だったんだ」
「――ルミナさん」
エリスは静かに彼女の名前を呼んだ。
「勇者に、なりたかったのですか?」
ルミナは涙を拭いながら、涙声のままはっきりと答えた。
「はい……憧れてました。あんなふうに、強くて優しくて、誰からも感謝される存在に」
エリスは少しの間、言葉を探していた。
魔王が心の中で囁く。
《――お前のことを話すのか?》
(ええ。それが、ルミナさんに今、聞かせねばならない言葉でしょうから)
エリスは静かな声で語り始めた。
「私は、旅をしている中で勇者様のことを色々と知りました。勇者様が訪れた村にいた人に聞いたり、詩人の歌を聞いたりして、ね」
ルミナが顔を上げ、興味深そうに耳を傾けた。
エリスは穏やかな微笑みを浮かべ、続ける。
「その話によると――実は勇者様も、決して特別だったわけじゃないそうです」
「……えっ?」
「困っている人を見ると放っておけなくて、つい何でも引き受けてしまって、ひどい目に遭うこともあったと聞きます」
その言葉は、想像上の勇者の姿とはあまりにも違う。
ルミナは驚きのあまり目を見開いた。
《……毒を盛られた件以外にも、そんなことがあったのか?》
魔王の心の声が、深刻そうに響く。
(ええ……まあ)
そしてエリスはほんの少し目を瞑り、ルミナへ話す内容を考え、そして紡ぎ始めた。
「人助けをしたらその人に騙されたこともあった。助けた人から、逆に恨まれたこともあった。あまりに純粋すぎて、周りの人に心配されたことも、たくさんあったそうです」
「勇者様が……そんなこと」
愕然とするルミナに、エリスは寂しく微笑んだ。
「でも、勇者様はそれでも誰かの役に立ちたいという気持ちと思っていた。人を信じることをやめなかった。――だって、それが自分にとって、一番大切なことだったから」
エリスは自分の胸に手を当てる。
「私が思うに、誰かの役に立ちたいと思う気持ちは、決して間違っていない。だけど、それ以上に大切なのは、誰かのようになることじゃない。自分自身がどうありたいか、なんじゃないかなって思うんです」
ルミナは黙って聞いている。
「それに、勇者様もきっと、自分のことを『特別』だなんて思っていなかったと思います」
「……でも、勇者って呼ばれるほどの偉業を成し遂げたわけですから『特別』だと思います」
「そうですね。ただ、勇者様にとっては、ただ自分にできることを精一杯やっただけ。それで、たまたま周りの人が『勇者』って呼んでくれただけ……そう語られています」
エリスは少し間を置いて、続けた。
「――ルミナさんは、自分に優しくできていますか?」
「え……?」
ルミナはきょとんとした顔をした。
「自分を大事にできていますか? 自分のこと、大切に思えていますか?」
ルミナは答えられなかった。
その目には、また涙が浮かんでいる。
「私ね、思うんです。自分を大切にできない人が、本当の意味で誰かを大切にすることは、きっとできないって。自分が壊れてしまったら、誰も助けられない」
「…………」
「だから、まずは自分自身を大切にすることから始めるべきだって。――そう思うんです」
「……でも、そんなことしたら、わがままみたいじゃないですか?」
エリスの言葉に疑問に思ったルミナは、上目遣いで疑問を呈する。
しかし、対するエリスは慈しむような表情でルミナの頭を撫でた。
「いいえ。自分を大事にすることは、決してわがままじゃないですよ。自分が元気でいなければ、誰かの力になんてなれない。……だから、まずは自分の傷を癒し、自分に優しくしてあげることが、一番大切なんです」
エリスは立ち上がり、自分の荷物をガサゴソと漁り始めた。
そして、その手には小さな革袋が二袋握られていた。
「これをどうぞ。食べ物と、少々のお金です。これで何とか数日は暮らせるはずです」
「そんな、受け取れません! あなたにだって、旅をしているのに」
「大丈夫です。また次の街で依頼を受けて資金稼ぎをしますから。――私、こう見えて結構強いんですよ?」
腕っぷしの強さを表明するために、力こぶを作るエリス。
見た目は華奢でしかないが、その意思の強い瞳から、嘘を言っていないことがルミナにはわかった。
「だから、これでまずは一休みしてくださいね」
エリスはルミナの手に、そっと革袋を握らせた。
そして、その手を優しく包み込むようにして言った。
「私がルミナさんにこれをお渡しできるのは、私が自分を大切にしているから。自分を大事にしているからこそ、余裕があって、誰かを助けることができる。だからもしよければ――」
エリスはルミナの目をまっすぐに見つめた。
「ルミナさんも元気になって、自分を大切にできるようになったその時は――今の私がそうしたように、誰かに手を差し伸べてあげてください。それが、私の望みです」
ルミナはしばらく手のひらの二つの袋を見つめていた。
そして、やがてぽろぽろと涙をこぼしながら、小さな声で言った。
「私は……休んでしまっていいのでしょうか」
「勿論。自分を大切にすることは、決してわがままじゃない。それは、誰かを大切にするための、最初の一歩です」
ルミナは涙を拭った。
そして、少しだけ微笑んだ。
「私、故郷に帰ります。お父さんとお母さんに、心配かけちゃいましたから。それで、ちゃんと元気になって、それからまた、考えます。自分にできることを、自分のペースで」
「はい。それがいいと思います」
エリスはルミナの頭を再びそっと撫でた。
その手のひらは、彼女がかつて勇者と呼ばれた頃と同じ、優しい温もりを持っている。
「ルミナさんはルミナさんで、ルミナさんにしかできないことが、きっとどこかにあるはずですから。――だから」
言葉の途中で、エリスは一旦深呼吸をする。
一番伝えたかったことをしっかりと、ルミナに伝えることができるように。
「――勇者なんて、ならなくてもいいんです」
誰かのために、何かのために行動することは尊いことである。
しかし、その行動によって騙されることもあり、恨まれることだってある。
善性で満たされている行動には、その隙をつけいられることは当然なのだ。
魔王が討ち果たされ、平和な世に戻った。
しかし、未だ復興の最中にある現実には怒り、不満、憎しみ……そういった『負の感情』がどこにでも漂っている。
――恩を仇にする人間など当たり前のようにいるのだ。
「たとえ騙されても、憎まれても、恨まれても……それでも人の為になりたいと思うなんて、どうしようもなく愚かとしか思えません。ルミナさんも、そう思うでしょう?」
「私は……」
ルミナは目を合わせられず、俯いた。
そんな心持ちでやるような簡単な行いでないことを、ルミナはこの件で思い知ったからだ。
しかし、エリスははっきりと言った。
それは己の存在意義であり、これから先も、誰に言われようが続けようと誓う内容。
「だけど、それでも困っている人を助けたい。たとえ見返りがなくとも、自己満足であったとしても、それでいい。――見返りを求めた瞬間、その行動は醜悪なものでしかなくなりますから」
まるで勇者自身が語っているかのように、エリスは語る。
それは、人助けをする者に対する警告でもあった。
ルミナはその言葉への否定感情はない。
大きく頷き、しかと受け止めた。
「私は、人助けという行いを軽く見すぎていました。だから、エリスさんの言ってくれたことをもう一度考えてみて、そしていつか、また同じように行動できればと思います」
「はい。楽しみにしていますね」
「エリスさん……まるで勇者様みたいな、優しいあなたに会えてよかった。嫌な事ばかりだったこの旅は、この瞬間のためだけにあったかと思えるくらい」
勇者みたい、と言われてぎくりとするエリスは苦笑いをしてしまう。
言伝のようにしていたつもりだったが、バレてしまったかと不安になったからだ。
「このご恩は絶対に忘れません。いつか必ず、お返しをします! ――だから、またお会いしましょう!」
強く抱擁をしながら、ルミナは誓いを立てた。
その声からは、当初あった悲しみの色はまるで見えない。
「ええ。また、お会いしましょう」
しばらくの間、二人は抱擁し合っていた。
そして解いた後、お互いの顔を見て微笑み合う。
そこに、もはや言葉は要らなかった。
ルミナは二つの小袋とともに荷物をまとめ始めた。
そして、来た道を振り返り、今度はしっかりとした足取りで歩き始めた。
その背中はまだ小さく、頼りなげだけれど。
先ほどまでの絶望の色はもう見えなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
《……『自分を大切にしているからこそ、誰かを助けられる』とは、まるで説得力がない気がするが》
魔王の頭によぎるのは、自分のことを顧みずに、とにかく人助けをする少女の姿。
本当に愚かでどうしようもない、それでも放っておけず、目が離せない少女の姿だ。
「ふふ。これでも私は自分を大切にしてますよ。だって本当に無理な時には、頼れる存在がいますから」
エリスは嬉しそうに笑い、魔王の背中をそっと撫でる。
一方の魔王はエリスの言葉に満足したのか、目を細め、首元に尻尾を巻き付けるだけだ。
「さあ、私たちも行きましょうか」
エリスはゆっくりと歩き出した。
陽はすでに傾いており、今夜は野宿だと思われる。
今夜の野営地を探しに一歩、また一歩と前に進んでいく。
(ルミナさんが、自分を大切にしてくれますように。そして、いつか自分にできる形で……誰かに優しさを届けられる人になりますように)
エリスはそう祈りながら、ルミナの姿が消えた道の向こうを微笑みながら見守るのであった。




