『聖女』との別れを経て、少女は次の旅の道標を得る。
夕方、湖の畔でエリスとセシリアは並んで座っていた。
夕日が水面を黄金色に染め、一日の終わりを静かに告げている。
「な、なんとか無事に一日を乗り切りましたね」
「ふふ、でも楽しかったですよ」
あれからレインを含めた多くの人に、セシリアとの関係性を問い詰められたエリスは疲れ切った表情で湖を仰いでいる。
「それに、私がいない間に街の人々が自立しようとしているのを知れたのが、本当に良かった。これもみんなエリスさんのおかげです」
セシリアが穏やかな笑顔を向ける。
この少女がこの街に来てから、全てが動き始めたのだ。
エリスはもう勇者でないと言う。
しかし、少女の言葉には無意識に人々を動かす力を持っている。
それは、やはりエリスが未だ勇者としての力を持っていることに他ならなかった。
「あなたがいなければ、私は今もあの暗い礼拝堂に閉じこもったままだったでしょう。――本当に、ありがとうございました」
改って頭を下げるセシリアの表情は明るい。
不安も何もない。
ただこの街で、人々と共に生きることだけがこの先待っているからだ。
エリスは被りを振りながら苦笑し、そのまま湖に目をやった。
黄昏時の湖面は煌びやかな光で満ちており、眩さにエリスは目を細めた。
二人の間に、温かい沈黙が流れる。
やがてエリスが、少し改まった口調で言った。
「セシリアさん、お願いがあるんです」
「何でしょう?」
軽く深呼吸をしながら、エリスは真剣味を帯びた表情になる。
「――私が勇者だったことは、他の誰にも言わないでほしいのです。ましてや、王都の関係者には絶対に」
セシリアは一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに深くうなずいた。
エリスの言葉が、何を意味しているかをすぐに理解したからだ。
「ええ、勿論です。表向きには概念と化した勇者様が、本当は生きているだなんて知れ渡ったら、とんでもないことになりますものね。約束します、この胸だけにしまっておきます」
「……ありがとうございます!」
エリスがほっとしたように微笑む。
その姿を見て、セシリアはふと思い立った。
「ですがエリスさん、あなたには本当に感謝しかありません。できれば、何かお返しをさせてもらえませんか?」
「え?」
「はい。お金はあまりないので、別のことで何かできれば」
エリスは困り果てたように首をかしげる。
そして、うんうん唸りながらその場をぐるぐる動き回り始めた。
よほど難しい質問だったらしい。
魔王が肩の上で呆れたように呟く。
《全く、先日の時もそうだが、お前はこういう時こそ素直に甘えればいいものを》
(で、でも、お返しって言われても欲しいものは……)
うろうろ動き回ること十数秒。
突然、エリスがぴたりと止まり、目を輝かせた。
「あ! わかりました! では――魔法についてよく学べる場所を教えてください!」
「……へ?」
セシリアの口から、間の抜けた声が漏れた。
「えっと……魔法が使える場所とか、魔法を研究している人とか、そういうところを教えてほしいんです。私、魔法をもっと勉強したいなって思って」
セシリアは呆然とエリスを見つめる。
勇者だった人物が、魔法を学びたいと言っているから当然だろう。
「なら、私がお教えしましょうか? これでも一応、魔法の理論学に長けていると自負していますし、教えることくらいなら……」
「本当ですか!?」
セシリアの手をぎゅっと握り、目を輝かせるエリス。
今まで見たことのない年相応の姿に、セシリアは驚きで目を見開いた。
――しかし。
「あっ!……やっぱり、学ぶことのできる場所を教えてくれるだけでいいです」
「な、何故?」
あまりにも急な方針転換に、セシリアの感情は追いつかない。
だが、エリスの満足げな微笑みに、その理由が理解できた。
「――この子が、嫉妬しちゃいますので」
エリスの手が撫でるのは、いつの間にか肩の上にいる黒猫。
セシリアに対し、鋭い声で威嚇をしている。
それはまるで、主人を取られたくないがための防衛本能のようにも見えた。
「他者に何かを教わろうとするたびに、こうやって威嚇するんです。いつも一緒にいて、共に学び、そして共に歩んできたからこそではありますが」
「まあ! ごめんなさいね猫ちゃん、そんなつもりじゃなかったの」
黒猫の顎を撫でながら笑顔で謝罪するセシリアに、黒猫は不本意にゴロゴロと音を鳴らす。
悶えるように顔を動かすその表情は、困惑しきっているものだった。
《な、何をする! おいエリス! さっさとこの女を止めろ!》
セシリアの手をべしべしと叩きながら、魔王は苦情をエリスに伝える。
しかしエリスは頭を撫でて宥めるだけ。
魔王は眉間に深く皺を寄せるばかりであった。
「でも、無理強いはよくないし、魔法を学べるとっておきの場所を教えてあげましょう。……ですが、本当にこんなことだけでいいんですか?」
「はい! それでいいです!」
エリスの笑顔は、夕日よりも眩しかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日の早朝、エリスはミストレイクを旅立つことになった。
街の入口には、セシリアだけが来ていて、他の人々はまだ寝入っている最中だろう。
本当は静かに旅立とうと思っていたが、セシリアにその目論見を看破されていたのだ。
「水臭いですよ。お別れの言葉すら言わせてくれないだなんて」
「……私は本来、死んだはずの存在ですから」
寂しげに微笑むエリスに、セシリアは突然抱擁をする。
急な行動にエリスは驚くが、その優しい腕の力を感じ、そっと身を任せた。
「エリスさん、お会いできて本当に嬉しかった。あなたと出会わなければ、今頃私は、未だ礼拝堂に閉じこもったままだったに違いありません」
「セシリアさんが勇気を出したから、今があるんですよ。私はその後押しをしただけにすぎません」
「――それでも、あなたはきっかけを作ってくれた」
抱擁する力が強まった。
「私、これからも街の人々のためにこの身を捧げます。それであの日、あなたを見殺しにした罪が消えるわけではないけれど……この罪を背負いながら、いつまでも忘れずに生きていきます」
セシリアの言葉に、エリスはそっと彼女の背中を撫でた。
「それがあなたの選んだ道なら、私は尊重します。罪を背負って生きることも、あなたの自由意志ですから」
「エリスさん……」
「でも、気負いすぎないでくださいね。罪を背負うことと、自分を追い詰めることは違いますから。あなたにはもう、レインさん含めた街の人々がいる。みんなあなたと共に生きたいと思っていますから」
セシリアの目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
二人はしばらくそうして抱き合っていた。
朝日が徐々に昇り始め、二人の影を長く伸ばす。
やがてエリスがゆっくりと離れ、優しく微笑んだ。
「では、セシリアさん。お元気で」
「エリスさんも……どうか、お幸せに」
エリスは歩き出す。
肩の上の魔王が、いつものように尾を揺らしている。
その後ろ姿を見送りながら、セシリアは手を振り続けた。
勇者であり、ただの人であるエリスに導いてもらったことを、セシリアは生涯忘れないだろう。
その誓いを胸に、見えなくなるまで手を振り続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
街道を歩きながら、エリスはセシリアから受け取った羊皮紙を広げて眺めていた。
――魔法都市『アルカディア』
丁寧な文字で、都市の場所と特徴が記されている。
《……聞いたことがないな》
「ええと……大学や図書館が充実していて、都市の至る所に魔法の影がある場所だそうです。小さな子供からお年寄りまで、みんな普通に魔法を使うんだとか」
エリスの声には、少しばかりの期待が込められていたが、魔王は冷笑する。
《……お前は余の教えでも魔法を使えなかった。その程度の場所に行ったところで、結果は同じだろう》
「そうかもしれませんけど……」
《ならば行くだけ無駄だ。時間の浪費に過ぎん》
魔王の言葉は辛辣だった。しかし、エリスはめげずに続ける。
「でも、見聞を広めるのは大事ですよ。それに、もしかしたら魔王の知らない方法があるかもしれないじゃないですか」
《……何だと?》
「魔王は確かに何千年も生きていて、たくさんのことを知っています。けれど、この世の全てを知っているわけではないでしょう?」
魔王は一瞬言葉を失った。
《……ふん》
やがて、彼は呆れたように尾を振った。
《お前がそう言うなら、徹底的に調べるがいい。ただし――》
「ただし?」
《しっかりと学び、魔法を習得してみせよ。余も協力を惜しまぬ。――恥をかかせるなよ》
その言葉には、挑発的な響きが含まれていた。
同時に、どこかでエリスの成長を期待するような、温かさも感じられる。
エリスはぱっと笑顔になり、元気よく答えた。
「はい! 了解です!」
そして、エリスは空を見上げた。
蒼く澄んだ空の向こうには、もう見えなくなってしまった湖畔の街・ミストレイクがある。
(セシリアさんはきっと大丈夫。これからも、ずっと)
エリスは心の中で、静かに祈った。
(だから、いつまでもどうかお元気で。あなたの選んだ道が、光に満ちたものでありますように)
共に生きることを選んだ聖女の幸せを願い、エリスは深く祈りを捧げる。
風が優しく吹き抜け、黒髪をゆっくりと揺らしながら、新たな目的地――『魔法都市アルカディア』に向かって、エリスはしっかりと歩き出した。
◇ ◇ ◇ ◇
やがてエリスの姿が完全に見えなくなった時、セシリアはふと呟いた。
「それにしても、不思議な人。勇者様の時はあれだけ凄まじい魔法を使っていたのに魔法が苦手だなんて。それじゃあまるで――」
セシリアの脳裏に映し出されるのは、高位魔術師として生きてきた中、学んできた魔法に関する例外中の例外のこと。
「無意識下で、魔法を構築する何かを妨げているようにしか思えない――普通の人間なら、絶対にそんなことあり得ないはずだけれど……」
その言葉は、誰に聞かれるでもなく、温かな日差しの中に消えていく。
その理由が、エリスという異常なる存在を体現したものであることを人々が知るのは、まだ当分先のことである。
=========================
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
作者の観葉植物です。
贖罪編三人目は、序章で出てきた高位魔術師の女性でした。
以前出てきたレオやリリィといった負った贖罪を償おうと、必死になっていた人間とは違い、逆のパターンである自暴自棄になったシチュエーションを描かせていただきました。
同じように自己犠牲をして、同じように自分を蔑ろにしながら他者を最優先にする人物が贖罪の意識に苛む姿を見て、それを解消させたエリスはまた一つ学びを得たのだと思います。
そして次の舞台は魔法都市!
物語はまだまだ折り返しにもなっていませんが、この舞台から物語は大きく動く……予定です!
評価や応援、ブックマークやフォローといった数々の反応をいただけると、作者は最高に喜びます!泣きます!モチベがガンガン上がります!
どうぞよろしくお願いします!!




