『聖女』は再臨し、霧の街を浄化する
セシリアは走っていた。
今度は逃げるためではない。
長い間閉じこもっていた分を取り戻すかのように、街中を駆け回っていた。
「『聖女』様! ありがとうございます!」
「あんなに痛かった傷が嘘のように……!」
「『聖女』様のおかげで、母が元気になりました!」
待ち望んでいた者たちの前に現れ、出来うる限りの魔法を惜しみなく使う。
その光は以前と変わらず、分け隔てなく優しいものだった。
一方、セシリアの魔法を丁寧に断る者もいた。
「お気遣いありがとうございます。でも、こんな軽い怪我、唾でも付けとけば治りますから」
そう言って笑うのは、肉屋の若者だった。
その腕には確かに浅い切り傷があるが、気にする様子もない。
別の場所では、子供を抱えた母親が微笑む。
「なんでもかんでも『聖女』様に頼るわけにはいきませんもの。私たちも、できることは自分でやらないと」
そして、街の外れで薪を割っていた老人は、セシリアの姿を見ると穏やかな笑顔を浮かべた。
「多少の怪我なら放っておけば治る。『聖女』様のお手を煩わせるなどしてなるものかいな!」
セシリアは戸惑った。
かつては、どんな小さな擦り傷でも人々は彼女の元に集まってきた。
それはある種の依存のようにも見えたが、セシリアにとってはそれも自分の役目だと思っていた。
けれど今は――。
(私がいない間に……ここまで想ってくれるようになるなんて)
胸の奥に、温かいものが込み上げてくる。
そして、ほんの少しの寂しさが広がった。
「ご調子の方はどうですか?」
「ひゃい!?」
急に気配を感じたセシリアは驚き、勢いよく振り返る。
そこには、小さく微笑みながら、口元を片手で隠すエリスの姿があった。
「ふふっ、そんなに驚かなくても。……昨日とはまるで別人のようで、やはり笑顔が素敵だなと思います」
「そ、そんなこと……ああ! そういえば忘れておりました! この度は本当に――!」
エリスの人差し指が口元に突きつけられ、セシリアは言葉を失った。
苦笑するエリスは、まるで謝ることを拒んでいるように見えた。
「謝らないでいいんです。私はこうして生きていますから、罪を負う必要なんてこれっぽっちもないんです」
「ですが……勇者さ……んぐっ!」
エリスは再び、立てた人差し指を、セシリアの唇に突きつける。
「もう勇者ではありませんよ。――『エリス』と呼んでくださいな」
指を顔から離すセシリアの顔は、少し強張っている。
エリスの気迫に、たじろいでいたのだ。
「え、エリス、さん……! お優しいあなたは許してくれると言ってくれましたが、私は……私を許せないんです!」
「それもまたいいと思います。ですが、自暴自棄になるのは――」
眉を顰めるエリスに、今度はセシリアが笑顔を向けた。
「――はい。だから私は、自分の罪を忘れず、せめてもの償いとして、この街に尽くします。……無かったことにはできませんから」
「セシリアさん……」
そう言ってセシリアは相変わらず霧が深い湖面を眺め、目を細めた。
太陽の差し込むことのない街は、昼間だというのに薄暗い。
未だ解決していない、街の人々の生活がかかった最大の問題である。
しかし、セシリアにとってその問題は些細なことだった。
「だからその為にも……この辛気臭い光景をどうにかしないと、ですね!」
腕をまくり、湖面に向き直りながら詠唱を始めるであった。
「水光よ、我が故郷に幾重にも立ち込めし哀しみの帳を今こそ払いたまえ。罪の霧、嘆きの靄、彷徨いし陰を縛りし鎖よ――」
透き通るような声が、地の底から湧き出る響きとなって周囲に広がっていく。
呼応するかのように、セシリアの身体に朧げな光がまとわり始めた。
「清らかなる光の矢となりて、闇を貫き、影を砕き、この街に真の朝を呼び戻せ。天に満ちる曙光の力、地に溢れる生命の息吹、全てを結びて完全なる晴明を取り戻せ――!」
両手をまっすぐ両手を伸ばし、両の拳を強く握った。
強い光が拳を輝かせ、そのまま片方の手を後ろに引き始めた。
――それは、まるで弓を放つかのような動作。
瞬く光は、広範囲を照らし、異変に気付いた街の人がなんだなんだと集まってくる。
『聖女』が、またもや奇跡を起こそうとしている。
だからこそ、周囲の者は全員、黙ってその成り行きを見守った。
水光の魔力素がセシリアの両手に集中し、魔法の構築が完了した。
セシリアの周囲の大気が震え、突風が吹き荒れる。
そして――湖面の中心に狙いを定め、セシリアは強く、水光の矢を放った。
「――散りなさいっ!!」
眩い光が弧を描き、粒子を湖面に撒きながら、湖の中心へと飛んでいく。
やがて、光は爆発すると、さらに強い光を放ち、見守る人々の目を眩ませた。
その光はまるで、第二の太陽を作ったかのようだった。
光はやがて弱まっていき、晴れていくとそこには――暖かな陽の光が湖面を照らしている光景が広がっていた。
あれほど広く、濃く街に充満していた霧が全て払い飛ばされたのだ。
「ああ……! 陽が……!美しい湖をまた見ることができるとは……!」
「流石『聖女』様!! あんだけ陰鬱だった空気もすっかり無くなった! 素晴らしすぎる!!」
「『聖女』様、ありがとう! 本当にありがとう!!」
またもや奇跡を起こしたセシリアに、数々の称賛の言葉が向けられる。
流石に多くの魔力を消費したのか、額に大粒の汗が浮かんでいたが、セシリアは晴れやかな笑顔のまま拭う。
エリスは、その笑顔を見て安心した。
贖罪を負っていても。
自分の犯した罪を許せなくても。
思うがままに生きることができるならば、それでいい。
また自分のせいで贖罪を負ってしまった者を赦し、救うことができた。
それが何よりも嬉しかった。
「エリスさん……あなたに会えて、本当に良かった」
エリスの手を両の手で包むセシリアの瞳は輝いていた。
生き生きとしていて、活気に満ち溢れている。
「こちらこそ、お会いできて嬉しかったですよ、セシリアさん」
エリスも同じく、セシリアの手を片手で包みこむ。
お互い顔を見合わせ、微笑んだ。
「………………」
一人の少女が、『聖女』と親しみ以上の関係を持っていることに、周囲の人々はざわつき始めていた。
旅の者ということは理解しているが、それでも興味が湧いてしまうのは人の常である。
だから、二人をよく知る少女――重い病を完治させ、すっかり元気になったレインが声をかけた。
「そういえばセシリア様とエリスさん、すごく仲良さそうだね。もしかして、知り合いだったりするの?」
セシリアはレインに向き直り、肯定するように微笑んだ。
「ええ、エリスさんは知り合いというか……王都で出会った勇――」
「わーっ!! それ以上はだめです!!!」
慌ててセシリアの口を押さえるエリスに、レインは眉を顰め、ますます疑いを向ける。
(ど、どうしよう……なんとか紛らわせないと)
必死に考えを巡らせ、その場を切り抜けようと誤魔化す姿に何か訳があるのだろうとレインは察した。
『聖女』を中心にして、街の人々が大いに笑い、大いに騒いでいる。
それは、水と光の魔法で知られた湖畔の街『ミストレイク』の活気が、ようやく戻ったことを意味していた。




