聖女、再臨
セシリアは走っていた。
「私は……愚かだった……!」
心の中で自分を責め続けながら、ただ思いのままに走っていた。
「救えるべき者を救わず、勝手に罪悪感に酔いしれて……!」
今までの自分の愚かさを悔いるように握り拳を作り、大きく手を振りながら、走り続けていた。
「勇者様を殺したことで、全てを諦め、ただ逃げ続けた。自分を責めることだけに没頭し、目の前の苦しみから目を背けていた……!」
そんな自分が、本当に愚かだった。
その事実に、ようやく気付いたのだ。
目指す先は、レインの家。
あの子が待っている。
自分の帰りを、ずっと待っている。
「……あっ!!」
長い間、強度の高い運動をしていなかったせいか、足がもつれ、転倒してしまう。
草むらとはいえど、顔面から倒れ込んだため、顔に猛烈な痛みが走った。
「くっ……!!」
しかし、セシリアは負けじとすぐに起き上がり、ふらつきながらもまた走り出す。
息もすぐに上がってしまい、肺が焼けるように熱い。
脚の筋肉も、すでに限界を迎えているのか、激しい痛みを生じさせている。
――それでも、セシリアは脚を止めなかった。
(レインちゃん、待っていて……今すぐ行くから……!)
◇ ◇ ◇ ◇
「ごめんください!!」
市場の外れの小さな家に息を切らしながら扉を開ける。
「誰だい、急に……って、セ、セシリア様!?」
レインの父親はその場に立ちすくみ、目を疑うように瞬きを繰り返す。
『聖女』様が、目の前に現れたのだから当然だった。
「セシリア様……本当に……セシリア様なのですか?」
その声に台所から飛び出してきたのは母親だった。
手に持っていた布巾を落とし、両手で口を覆う。
二人の視線が、セシリアに注がれる。
その目には、驚きと、そして長年待ち続けた者だけが持つ、深い憧憬の色が宿っていた。
「レインちゃんは……!?」
セシリアの言葉に、父親が奥の部屋を指さした。
「まだ生きております! あの子は、ずっとセシリア様を……!」
セシリアはうなずき、奥の部屋へと駆け込んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「せ、セシリア様? どうしてここに?」
レインはベッドに横たわりながら、セシリアの姿を見て大いに驚いた。
その顔色は青白く、呼吸は浅く速いが、驚きで目を見開いている。
待ち望んでいた、かつて自分の命を救ってくれた恩人が、目の前に現れた。
動揺と、遅れてくる強い感動が、レインの心を揺らしていた。
「ちょっとだけ、失礼しますよ!」
セシリアはすぐにレインの顔に両手を当てた。
顔色、体温、呼吸の状態を素早く確認する。
(まだ末期ではない……これなら、まだ間に合う……!)
治療を止めていたせいか、症状はかなり進んでいる。
だがまだ意識もはっきりとしていて、反応もしっかり返してくれる。
――これなら、治せる。
「……少しだけ、待っていてくださいね」
セシリアは深く息を吸い込み、目を閉じた。
沸々と湧き上がる体内の魔力が、燃え上がるようにセシリアの身体を温め始めた。
(かつてないほどの長期間、私は魔法を使わなかった。今、私の中には未使用の魔力が蓄積され、かつてないほどの量となっている)
大気に漂う魔力素を掴み、頭に膨大な量の演算が迸り始める。
体内に漲る魔力の、強い奔流がセシリアの身体を覆っていった。
(今の私ならできる。この子を、救える――)
しかし、その瞬間、セシリアの手が微かに震えた。
同時にドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「あ……!」
セシリアの脳裏をよぎるのは、あの日の光景。
自分の魔法が一人の少女を殺すために使われた、呪いの日だ。
あの記憶が、深く根を張った禁忌となって、手の動きを止めてしまったのだ。
(ど、どうして……私は、まだあの時のことを……?)
無意識のうちに、魔法を使うことを恐れている自分がいる。
強く心を持ちながら、再び魔法を試みようとしたが、やはり上手くいかない。
(このままでは、レインちゃんが――)
必死に恐怖を打破しようと踠けば踠くほど、恐怖が身体に絡まっていく。
強烈な震えが迸っていき、無意識に涙が溢れそうになる。
しかし、そんな時だった。
――華奢な手が、震えるセシリアの手にそっと重なったのだ。
「セシリアさん」
心に沁み渡る、温かな声に振り返ると、隣にエリスが立っていた。
彼女もまた、走って追いかけてきたのだ。
「絶対に大丈夫です。私を、そして――自分を信じてください」
その言葉は、恐怖をも打ち砕く、勇気の言葉だった。
(なんて温かくて……なんて落ち着く声なんだろう)
エリスの体温が、手を通じてセシリアの全身に伝わっていく。
その温もりに完全に包まれた時、セシリアの瞳に強い光が宿った。
(――私は、もう逃げない!)
深く息を吸い込み、両手をレインに向けて掲げた。
長年封印してきた魔力が、体内で眠りから覚めたかのように漲っていく。
「水光よ――古の契約に基づき、我が声に応えよ」
セシリアの透き通った声が、室内に響いた。
それは、得意とする『水光療法術』の詠唱。
魔力の奔流が周囲の空気を揺らし、室内に吹き渡った。
「天に満つる清らかなる水の素よ、地を照らす慈愛に満ちた光の素よ。汝らが根源たる二つの力、今ここに一つとなりて、癒しの奇跡を紡げ」
セシリアの手のひらから、淡い光が漏れ始める。
それは最初は不安定に揺らめいていたが、次第に輝きを増していく。
「病とは、闇とは、苦しみとは――それらはすべて、命の光を曇らせる影に過ぎず。影は光あればこそ。しかし光が強ければ、必ず消えるもの」
光が徐々に強まり、部屋の中が幻想的な輝きに包まれていく。
「されど我は知る。人の身に宿る命の灯火は、時に弱まり、時に揺らぎ、時に消えかけるものなれば――」
セシリアの声に力が込められる。
そして、すべての光を集中させた掌をレインに翳した。
「清流のごとき優しさをもって、病を洗い流せ! 陽光のごとき温かさで、その身体を再臨させよ!」
レインの身体が、セシリアの手から放たれる光に包まれた。
その光は、幾つもの色が混ざり合った、不思議な輝きを放っていた。
「――はッ!!!」
その瞬間、セシリアの手から放たれた光は、あまりにも眩しく、太陽のように辺りを照らし出した。
周囲にいた両親も、その眩しさに思わず目を閉じた。
レインもまた、眩しさに耐えかねて目を閉じた。
光がレインの全身を優しく包み込んでいく。
長年蝕んできた病の影が、光の中に溶けて消えていく。
そして、光がたちまち弱くなり、完全に消えた時――。
「……あ、あれ?」
レインが自分の身体を見下ろして呟いた。
「身体が……軽い? 嘘!? 本当に!?」
ゆっくりとベッドから降り、レインは自分の手足を見つめる。
そして、恐る恐る一歩を踏み出した。
「立てる……普通に立っていられる!」
次に、二歩、三歩と歩き出す。
やがて、それは軽い走りへと変わった。
「走れる! 私、走れるよ!」
感極まったレインは、瞳を震わせる。
頬を涙が伝っていく。
そして、父親と母親が同時に駆け寄った。
「レイン!」
二人は我が子を力強く抱きしめ、声をあげて泣いた。
「良かった……本当に良かった……!」
「ああ、神様……ありがとうございます……!」
「お父さん……お母さん……! う……うわああああん!!!」
レインもまた、両親の腕の中でわんわんと泣き出した。
その光景を見つめながら、セシリアの目からも涙が溢れる。
「良かった……間に合って、本当に良かった……」
その言葉を聞いたレインは、両親の腕をそっと離すと、今度はセシリアに向かって歩み寄った。
そして、ぎゅっと抱きついた。
「本当は私、怖かった……! でも、セシリア様が来てくれるって、ずっと信じてた……!!」
セシリアはレインを抱きしめ返し、謝罪の言葉を繰り返す。
「遅くなって……ごめんね……ごめんね……」
両親は二人の抱擁を見守っている。
それは、かつてレインが体調を悪くしていた時、付きっきりで看病してくれたセシリアの姿と同じだった。
またあの時と同じように、セシリアが戻ってきてくれた。
それが何よりも嬉しくて、両親は再び微笑みながら、涙を流し嗚咽を始めた。
「…………?」
しばらくそうして抱き合っていた後、レインがふと顔を上げた。
眉間に皺を寄せながら、訝しげな顔をしている。
そして、何かに気づいたように鼻をひくつかせた。
「……あ、あの……セシリア様」
「ん? 何かしら?」
「えっと……その、言いづらいんだけど……匂いが……」
その瞬間、部屋の中が静まり返った。
セシリアは自分の姿を見下ろす。
長い間、礼拝堂に閉じこもっていた彼女のローブはボロボロで、金髪はぼさぼさ。
身体を清潔にする余裕などなく、祈りを捧げ、引きこもっていたのだから仕方なかった。
「あ…………!」
セシリアの顔が真っ赤に染まる。
次の瞬間、部屋中に笑い声が溢れた。
「ぷっ……ははははは!」
「セ、セシリア様……娘が妙なことを言って失礼しました……!」
レインの笑い声に両親は慌て始めるが、レインはいたずらっぽい笑顔を浮かべて、セシリアを見上げた。
「でも、私はセシリア様が頑張ってここまで来てくれた証だと思う! だから、その……嫌じゃないよ!……うん」
なんとか助け舟を出そうとするレインだが、その言葉はあまりにも弱い。
セシリアの顔はさらに赤くなったが、やがて笑顔を取り戻し、照れ臭そうに尋ねた。
「あ、あの……お風呂を……お借りしても……」
母親がその言葉に目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。
「もちろんですとも! 今すぐ準備します!」
◇ ◇ ◇ ◇
家の外では、噂を聞きつけた街の人々が集まり始めていた。
セシリアが戻ってきたこと。
そして、病に侵され、苦しんでいたレインを救ったことが、瞬く間に街中に広がったのだ。
そして、家の中から聞こえる笑い声は、いつしか外の人々にも伝染し、街全体が温かな空気に包まれていった。
それは、長い間この街を覆っていた『負の感情』という霧が完全に晴れ、再び『聖女』が再臨したことを意味している。
(これで、一件落着ですね)
エリスは、離れた場所からその光景を微笑みながら見守るのであった。




