少女は赦す。『聖女』の贖罪を。
エリスは礼拝堂の前に立つと、昨日よりも一層重苦しい空気が感じられた。
扉は閉ざされたまま。
しかし、中からかすかに聞こえる嗚咽が、霧の中にかき消されそうになりながらも、確かにエリスの耳に届く。
「――ごめんください」
エリスはそっと扉を叩いた。
中の物音がぴたりと止む。
しかし、いつまで経っても扉は開かない。
エリスは何も言わず、重い扉をゆっくりと開け、礼拝堂に入っていった。
◇ ◇ ◇ ◇
礼拝堂の中は薄暗く、祭壇の前でセシリアが跪いている。
エリスが入ってきたことにも気づかないふりをして、祈りを続けていた。
それは、以前来訪した時と同様、全てを拒絶している意思表示。
しかし、エリスは怯まない。
「セシリアさん。先日以降、あなたのことを色々調べさせてもらいました」
「……」
セシリアは微動だにせず、無視を決め込んでいる。
エリスはそれでも構わず、静かに語り始めた。
「多くの人々を救った治療の記録や開発した新しい魔法。そして、この街で『聖女』と呼ばれるようになったお話を、本で読み、人々に聞きました」
「…………」
「皆さん、セシリアさんのことを笑顔で話してくれました。あなたに命を救われたこと、怪我を治してもらったこと、苦しい時に寄り添ってもらったこと……」
「………………」
「セシリアさん。あなたは、この街の人々に深く愛されています。そして皆さんは今もなお、あなたのことを想っています」
「…………お引き取りください」
セシリアから、冷たい声が返ってくる。
以前と同様、これ以上は話しても無駄という感情しか出さずにいる。
しかし、エリスは一歩も引かなかった。
「――レインという女の子をご存知ですか?」
「……ッ!?」
その言葉に、セシリアが反応を示した。
エリスの瞳に強い光が宿り、さらに続けた。
「市場の外れに住んでいる、生まれつき心臓が弱い女の子です。今はもうほとんど寝たきりだと聞きました」
「レイン……ちゃん……?」
セシリアの声がかすかに震える。
「レインさんは言っていました。小さい頃に何度も助けてもらったことを。――そして、どんなに苦しくても、セシリアさん以外の治療は受けないことを」
「そ、そんな……!」
「でも、これでいいって言ってました。セシリアさんがいつも助けてくれたから、今度は自分が、セシリアさんを休ませてあげたい、と」
「あの子……そんな状況じゃないのに……!」
強く振り向き、セシリアはエリスの瞳を見つめる。
当初とは打って変わって、狼狽しきっている。
「セシリアさんが苦しんでいるのに、『助けて』なんて言えないって。助けて欲しい時だけ頼って、それ以外の時は見捨てるだなんて、そんなの嫌、と苦笑してましたよ」
セシリアの身体が震え始める。
祭壇に手をつき、何とか立っていようと必死だった。
「彼女は言っていました。セシリアさんが元気になるまでは頑張るから、早く元気になってほしいって。街の多くの方も、同じ気持ちでいるそうです」
エリスはレイン、そして街の人の言葉をはっきりと突きつけた。
しかし、セシリアは迷うばかりだ。
「で、でも……私は……あの『儀式』で……!」
セシリアの口から、ついにその言葉が漏れた。
エリスは静かに息を吸い込んだ。
来るべき時が来たのだ。
「セシリアさん、あなたは王都で行われた、『永劫回帰の儀』に関わった一人。――そうですよね?」
セシリアの体が大きく震えた。
顔を上げ、エリスをまじまじと見つめる。
「……ッそうよ、私は許されないことをした。なんの罪もない子をこの手で殺したんだから!」
セシリアは、当時からの後悔をエリスにぶつけるように叫んだ。
「でも、それはセシリアさんの本心じゃない。命令されたから、仕方なくやってしまったことです」
「違う……! 私にこんな力があるせいで、あの子は死ぬ羽目になった……こんな力さえなければ、今頃あの子は……!」
歯を強く食いしばりながら、悔やむセシリア。
沈痛に歪んだ顔から、涙がこぼれ落ちている。
エリスは一歩近づき、セシリアの肩に手を置いた
「ですがセシリアさん。レインさんをこのまま放っておいて、見捨てることはあなたの本心ですか? 違いますよね?」
嗚咽を始め、うまく言葉を紡ぐことができないセシリアに、遠い目をしながらエリスは伝えた。
――セシリアが口にする、『あの子』の本心を。
「あなたが殺したと自認している少女――人を助けることが何よりも好きだったあの子も、絶対にそれを望んでいません」
「……ッ! な、何も知らないくせに……! あの子を知ったようなことを言わないで!」
死者を代弁することは、侮辱でしかない。
そう思ったのか、セシリアは怒り叫んだ。
その叫びを、エリスの澄み渡った声が遮った。
「――『水光法術・封魔の枷』」
「……え?」
「本で読んだセシリアさんの魔法理論の中に書いてありました。それは、他者の魔力を封じるための魔法。そして、あなただけが使用できる極意」
目の前の少女が、人が変わったかのように透き通った声で語りかけてくる。
セシリアは、その気迫に息を呑んだ。
「――あの時、勇者であるあの子の力も、この魔法によって封印しましたね」
「な……ぜ……それを……」
「――枷を付ける前のあなたの顔、今も鮮明に覚えていますから」
「……ッ!?」
「――『お手数をおかけします』と私が言った後、信じられない顔をしながら悲痛な顔をしてくれていましたね。その反応に、私は救われていたのを覚えています」
「う、嘘……だって、あの子は、あの時………!」
セシリアの声が震え、頭を抱えながら俯いた。
目の前の少女が言っていること。
それは、信じ難いが事実であったからだ。
エリスは混乱しているセシリアに微笑み、優しく、ゆっくりと続けた。
「あなたは罪悪感からか、せめてもの情けか、私の身なりを整えるように進言してくれましたね。その後、湯浴み等お世話してくれた侍女の方――リリィさんとの縁も、あなたが結んでくれました」
「な、なぜ彼女の名前を……?」
「つい先日、お会いしましたから。――リリィさんも、セシリアさんと同様、贖罪の意識に苛んでいました」
セシリアは茫然とエリスを見つめた。
王宮に仕える侍女の名前など、一般人が知りようもない。
知っているはずがないのだ。
でも、この少女は知っている。
――あまりにも詳細に、正確に。
その光景に、セシリアは恐る恐る問うた。
「じゃ、じゃあ……あなたは本当に……?」
――信じ難い真実を、信じることができるように。
「はい。私はかつて勇者と呼ばれた者。そして……今はただの村娘――エリスとして旅をしております」
「あ……ああ……!」
セシリアの呼吸が荒くなる。
ボロボロと、涙が溢れ落ちる。
それだけが、感情をはっきりと表していた。
エリスはその姿を慈しむように見つめ、静かに告げた。
「セシリアさん、もういいんです。もう、罪を背負わなくていいんです。あなたのことを、私は赦します――だって私は、生きていますから」
その言葉が、セシリアの最後の砦を打ち砕いた。
「ああああ…………ッ!!!」
その場に崩れ落ち、地面に蹲りながら慟哭を始めた。
『あの子』が生きていたこと。
身も心を炎に包まれ、死よりも辛い目にあったのに、こんなにも許す心の広さを持っていること。
それでも自分を許せない己の心。
――全てが入り混じり、感情の嵐となって吹き荒れていた。
「で、でも私は……この力を使うのが怖い! また誰かを傷つけるかもしれないから……」
それは、『あの子』を殺そうとした罪。
逃れられない呪いだった。
そして、その呪いを解けるのは――『あの子』である勇者、エリスだけである。
だからエリスはセシリアの前にしゃがみ込み、優しく語りかけた。
「セシリアさんの今までしてきた、自分を蔑ろにしてまで、多くの人の助けになり、救ってきたことを、私は誇りに思います」
それは、エリスの抱いていた理想と同じ。
自己犠牲の極たるものであり、無償の奉仕そのものだったからだ。
「ですがセシリアさん。今こうしていることは――あなたの本心ですか? 違いますよね?」
「……私は」
「今も、あなたを待っている人がたくさんいます。レインさんが、街の人々が、あなたが元気になるのを待っています」
エリスの声がセシリアの心に優しく、そして強く響き渡った。
背中をゆっくり押すように。
再びその使命を果たせるよう、勇気を取り戻させるために。
「だから行ってください、セシリアさん。あなたが、あなたであるために」
「――ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの身体が衝動的に動いた。
そして勢いよく立ち上がり、礼拝堂の扉に向かって走り出した。
何も考えられなかった。
ただ、行かなければという想いだけが、セシリアを強く突き動かしていた。




