その少女は、『聖女』の再臨を待ち続ける
翌日、エリスは街の様子を確かめるために、ミストレイクの中心部へと足を運んだ。
行き交う人々の表情はどんよりと曇り、挨拶を交わす声さえもどこか沈んでいる。
活気というものが完全に失われてしまっているようだった。
《相変わらず、歩いている人間も陰鬱だな。見ているだけで気分が悪い》
(……セシリアさんが元気な頃とは、まるで違うみたいですね)
エリスは老婆から借りた本に書かれていた記述を思い出す。
光溢れる療養地。
笑顔で行き交う人々。
そして、すべてを優しく包み込む『聖女』の存在――。
目の前の光景とは、まるでかけ離れている内容であり、空想上の街のことを記載してるようにしか思えないほどだ。
そんなことを考えながら、エリスが足を進めるのは市場への道。
――セシリアに関する聞き取り調査を行うのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
市場に足を進めると、エリスはまず野菜を売る中年の女性に声をかけた。
「すみません、少しお聞きしたいことがあるのですが」
女性は疲れた表情で顔を上げたが、旅人の姿を見て少しだけ表情を緩めた。
「何かい、お嬢ちゃん。珍しいね、旅の者なんて久しぶりだよ」
「この街のことについて知りたくて。特に、『聖女』様と呼ばれている方についてお聞かせいただけませんか?」
その瞬間、女性の表情が一瞬で曇った。
「……セシリア様のことかい」
「はい。よろしければ」
女性はしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
「……私の命の恩人だよ。五年前、この街で流行病が蔓延して、私以外にも大勢の人間が、長期間寝たきりになってしまったんだよ」
女性の目には、遠い日の記憶を懐かしむ光が宿っていた。
「でもセシリア様が三日三晩、大勢の人間に対し、眠らずに看病してくれた。癒しの魔法と献身的な治療でね。――自分のことを後回しにしてでも、他者のために頑張ってくれたんだ」
それは、エリスと同じ自己犠牲の精神。
他人事のように思えず、エリスは胸が痛んだ。
続いて、パンを売る男性に聞き取りを行った。
「セシリア様には本当に世話になったよ。以前、厨房で些細な判断ミスによって大火傷を負ったことがあってね。地獄のような苦しみの中、セシリア様が治療してくれたんだ」
男性は自分の顔を撫でながら、懐かしむように空を仰いだ。
「あまりに苦しくて、無意識に手や足が出てしまったんだ。だけど、嫌な顔ひとつせずに治療してくれたんだ。快復した後、自分のことのように涙を流していたのが忘れられないよ」
ただ自分のしたことで、他者が喜んでくれる。
それだけで、セシリアは良かったのだろう。
エリスは勇者であった頃を思い出し、深く目を瞑った。
さらに別の場所で、幼い子供を連れた若い母親に聞き取りをした。
「この子がまだ赤ちゃんだった頃、高熱を出して生死をさまよったんです。夜中だったのに、セシリア様はすぐに来てくれて。明け方までこの子の手を握って治療を続けてくれました」
母親は子供の頭を優しく撫でながら続けた。
「あの時、『大丈夫、私が必ず守りますから』って勇気づけてくれたんです。その笑顔が、今でも忘れられません。どんなに苦しい時でも、セシリア様の笑顔を見ると、なぜか安心できたんです」
エリスの胸に、どこか懐かしい痛みが走った。
その言葉は、かつて自分が民衆に向けていたものと同じだったからだ。
市場の片隅で魚を売っている男性にも、聞き取りをした。
「漁で脚がもう動かないことを覚悟するくらい、酷い怪我をしたんだ。けれど、セシリア様の素晴らしい魔法のおかげでなんとか足を犠牲にすることは免れて、今ではこうして普通に歩けるようになった」
男性は、自分の足をしっかりと地面につけている。
「今の俺がこうしていられるのも、セシリア様のおかげだ。だけど、絶対にお礼も何も受け取らなかったんだ。『あなたが元気になることが、私の何よりの報酬ですから』って、そう言って笑ってくれたんだ」
――どの話も、セシリアの深い優しさと献身を物語っていた。
まさに『聖女』として、この街の人々に愛され、尊敬されていたのだ。
《誰かのために尽くし、自分を顧みない。まさしく“聖女”と呼ぶに相応しい愚か者だ。誰かさんにそっくりだな》
チラリと顔を眺めてくる魔王に、エリスは苦笑しかできなかった。
そして聞き取りをしている最中、一人の女性がエリスに近づいてきた。
エリスがさまざまな人に聞き取りしていたことを、離れて見ていたらしい。
「……セシリア様に関して、よければ紹介したい子がいるのだけれど、いいかしら」
「――はい!喜んで!」
エリスには断る理由がない。
大きく頷いて、女性の後をついて行った。
◇ ◇ ◇ ◇
案内されて訪れたのは、市場の外れにある小さな家だった。
中に入ると、簡素なベッドに一人の少女が横たわっていた。
年齢は十歳ほどだろうか。
その顔色は青白く、痩せ細った体は痛々しいほどだった。
「レイン、お客さんだよ」
レインと呼ばれた少女が、ゆっくりと目を開けた。
どうやら女性は、この子の母親のようである。
レインの瞳は澄んでいて、不思議なほど穏やかだった。
「こんにちは。旅のお方ですか?」
エリスはベッドのそばに腰を下ろした。
「はい、エリスと申します。……レインさん、とお呼びしていいですか?」
レインはかすかに微笑んだ。
その笑顔には、いかにも病に苦しむ者の陰が差し込んでいた。
「うん、いいよ! エリスさんの黒髪、湖の水面みたいで綺麗だね。なんだか、普通の人じゃないみたい」
いきなりの言葉にエリスは照れながらも、様子を伺い始めた。
レインは俯き、ときおり苦しそうに胸を押さえている。
「お嬢さん、具合が悪そうですね」
母親に尋ねると、苦笑いを浮かべながら深いため息をついた。
「この子は生まれつき心臓が弱いんだ。もう何年もこんな状態でね……最近特に悪くなってきているんだけど」
「……お医者様は?」
エリスの問いかけに、部屋に入ってきた父親が、悲しげに首を振った。
「この街には医者なんていないんだ。セシリア様がいれば、特に問題はなかったからね。でも、もうあの方は……」
エリスは気の毒に思いながらも、別の選択肢を提示する。
「でも……もっとちゃんとした治療を受けられる場所があるかもしれない。別の街に連れて行って、専門の医者に診てもらえばきっと……」
その言葉に、レインは急に顔を上げた。
その瞳には、年齢に似合わない諦めの色が浮かんでいる。
「私は行かないよ。セシリア様にしか、治療してもらうつもりはないから」
「だ、だけど……」
レインはエリスに向き直り、真っ直ぐな目で語り始めた。
「私が小さい頃、セシリア様が何度も助けてくれたの。全身が痛くて苦しんでる時、高熱で意識が朦朧としてる時、早朝でも、夜中でも、いつでも来てくれて。優しい光で包んでくれて……気づけばすっかり元気になってた」
その記憶は、レインにとってかけがえのない宝物のようだった。
話す声に、わずかな温もりが戻る。
「でもね、今はセシリア様が苦しんでいるの。とっても悲しそうな顔をしてるって、色んな人から聞いたよ」
両親が何かを言いかけるが、レインは続けた。
「だから、これでいいの。セシリア様はいつも私を助けてくれた。今度は、私がセシリア様を休ませてあげたいんだ」
レインの言葉に、エリスの胸が締め付けられる。
自分の命さえ危ういかもしれないのに、それでもこの子はセシリアを思いやる気持ちを失っていない。
こんな幼い少女が、死をも恐れていないのだ。
「でも、あなたの身体は……今後もっと悪くなるかもしれないのでしょう?」
エリスがそう尋ねると、少女は少しだけはにかむように笑った。
「勿論だよ。お父さんもお母さんも、いつも心配してくれてる」
「それなら……!」
「でもね、私は元気になったセシリア様に直してもらうまで、絶対に生きてみせる。もしも本当に具合が悪くなっても、きっと我慢してみせる!」
少女の答えに、エリスは言葉を失った。
それは、諦めではなかった。
むしろ、強い覚悟だった。
セシリアが再び立ち直ってくれることを願う、純粋な強さだった。
「勿論、私だけじゃない。この街にいる他のたくさんの人も、セシリア様が元気になるまでは頑張ろうって元気づけてくれるから。――だから、絶対に大丈夫だよ!」
エリスはレインの前にしゃがみ込み、その目を真っ直ぐ見つめ、その頭を優しく撫でた。
「――レインさんは、本当に強い人ですね」
「強くなんかないよ。私、ただ……」
「いいえ、とても強いです。だってあなたは、自分のことよりも、セシリアさんのことを想っている。それは、誰にでもできることじゃありません」
レインは照れくさそうに俯いた。
本当は怖いけれど、それ以上にセシリアを苦しめたくない。
そんな複雑な感情が垣間見えるような表情をしているのを見たエリスは立ち上がり、決意を固めた。
「――私は今から、セシリアさんのところへ行ってきます」
「え? でも、セシリア様は……」
「ええ、わかっています。でもレインさんの想いを、セシリアさんに伝えなければ」
レインの目が驚きに見開かれる。
「私の……想いを?」
「はい。セシリアさんを必要としている人が、苦しみながらも待っていることを、ね」
エリスはそう言うと、優しく微笑んだ。
「だから、レインさんはここで待っていてください。私が必ず、セシリアさんを元気な姿に戻しますから」
レインはしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……わかった。どうか、セシリア様をよろしくね」
「ええ、必ず」
エリスはレインの頭を再び撫でると、霧の向こうにある礼拝堂へと向かって歩き出した。
肩の上の魔王が、珍しく何も言わずに見守っている。
その瞳には、エリスの意志の強さを理解しきっている満足感が見えた。
セシリアを必要としている人がいる。
苦しみながらもなお、待ち続けている人がいる。
それを気づかせなければならない。
本人が知らない間に、見捨てたことになりかねないから。
(もう、繰り返させません。あなたが私を見捨てたと思い込んでいるように。レインさんを、見捨てることにならないように)
霧の中を、エリスの足音が静かに響いていく。
その足取りは、力強く地を踏み締める、決意のこもった気迫が込められていた。




