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湖畔の街にて、少女は『聖女』と邂逅する


 エリスと魔王は、静かな湖畔の街『ミストレイク』へと辿り着いた。


 街道から街へと続く道は霧に包まれ、視界がぼやけていく。

 まるで世界の境界線そのものが曇っていくかのようだった。



◇ ◇ ◇ ◇


 

 街の入口に立つと、湿った冷気が肌にまとわりつく。


 常に立ち込める霧が太陽の光を遮り、昼間でも薄暗く、どこか物憂げな空気が漂っていた。


「かつては水と光の魔法で知られた療養地だったと聞きますが……これは……」


 今やその面影は稀薄となっており、行き交う人々の歩みもどこかしら暗いものとなっていた。


《なんとも陰鬱な街だ。魔力の淀みもひどい。ここに長くいれば、健常者でも病みつくだろうに》


「そうですね……でも、どこか悲しい感じがします」

 

 エリスは胸に手を当て、深く息を吸った。

 

 たくさんの後悔と、諦めの感情。

 幾多の負の感情が、霧と一緒に街を包んでいるようにさえ見える。


 エリスの鋭い共感力は、この街の空気そのものが深い悲嘆に満ちていることを感知していた。

 


「とりあえず、今夜泊まる場所を探すことが先決ですね」



 

◇ ◇ ◇ ◇



 

 一晩の宿泊をするため、エリスは小さな宿に足を踏み入れた。


「いらっしゃい……って、あらまあ可愛いお嬢さんだね、珍しい」

 

 宿の主人である老婆は優しいが、出迎える際にどこか疲れた表情を浮かべている。


「せっかく来てくれたのに悪いけれど、この街に見所なんて何もないよ」

 

「いえ、とても美しい街だと思います。霧に包まれた湖が神秘的ですし」


 老婆は哀れむように首を振った。

 

「昔は霧なんて一切なく、湖面がもっと光り輝いていたんだよ。陽光が反射すると街全体が煌びやかになるから、たくさんの療養客で観光しに来ていたね。でも今は……霧が深くて、太陽の光もほとんど差し込まない」


 老婆は遠い目をしながら、かつての街の光景を思い浮かべる。

 

 大きなため息をつき、肩を落としながら仕事に戻っていくのを、エリスは複雑な心境で見送るのであった。




 


 

 宿の部屋は質素だが清潔で、窓からはかすかに湖の水面が見えている。


 少し眺めてみるが、やはり来た時と同様、濃い霧が立ち込めており、陰鬱なものにしか見えない。


《なぜ、こんな土地でわざわざ足を止めるのだ。 早々に立ち去るのが賢明だろう》

  

 エリスが荷物を解いていると、魔王が不満げに呟いた。


「でも……何だか気になるのです」


 理由を言葉に起こすことはできない。


 しかし、胸騒ぎがするのも確かであった。


 


◇ ◇ ◇ ◇


 


 翌日、エリスが朝食を済ませようとすると、老婆が埃を被った一冊の分厚い本を抱えて近づいてきた。


「お嬢さん、字は読めるかい?」

 

「はい、大丈夫です」


「それは良かった。悪くは言ったけれど、こんな場所でも私の故郷だからね……」


 老婆は一冊の本をエリスに差し出した。


 その表題は『大湖の街にて生まれ出た、水光療法学』と書かれている。


「暇な時に読んでおくれ。お嬢さんが少しでも、この街を好きになってくれたら何よりだ」


 本の装丁は年月で褪せているが、金文字のタイトルはかすかに輝きを保っている。


「ありがとうございます、お婆さま。ぜひ、拝読させていただきます」


 エリスが感謝して本を受け取ると、老婆は寂しげな笑みを浮かべた。


「今のミストレイクに、もうこんなものは必要ないんだけどね。『聖女』さまも、今じゃ隠居しちまってるし」


「聖女さま、ですか?」


 老婆の目にかすかな輝きが戻った。

 

「ああ、この街には『聖女』と呼ばれる偉大な魔術師さんがいてね。セシリア様って言うんだ」


 老婆は、懐かしむように『聖女』について語り始める。


「この街で生まれた、とても優しくて、強い魔力の魔術師さんだ。彼女一人の力が、この街の活力になっていた、とも言われているよ」


 老婆は語る。


 『聖女』は、浄化と癒やしの魔法に長けていた。

 『聖女』は、重い病気の者や魔物に傷つけられた兵士を、何人も救った。

 『聖女』は、ありとあらゆる全てを癒していた。だからこそ、この街に医者はいない。

 

 そして『聖女』は、いつも優しく、絶え間なく微笑みを浮かべていた。

 それを見た街の人々は、心の底から元気になるようだった。



 ――老婆は語り部のように、『聖女』について紡ぎ出していった。

 まさしく、この街における生ける伝説のような存在なのだろう。

 


「セシリア様の魔法はね、霧の中に差し込む陽光のように温かくて、触れただけで痛みが和らぐんだ。でもね……」


 老婆は窓の外の霧を見つめながら、懐かしそうに語り続ける。

 しかし急に、その表情が曇り、声が沈んだ。

 

「以前、王都に呼び出されてから、すっかり変わっちまったんだ。帰ってきた時は、もう別人のように沈んじまって。それ以来、魔力を一切使わなくなった」


 ドクン、とエリスの鼓動が大きく響いた。

 王都――その言葉が、とある予感をエリスに迸らせる。


「今じゃ礼拝堂にこもりきりで、誰にも会おうとしない。思えばセシリア様のご心痛が、街全体に影響しているのかもしれないねえ」


「お婆さま、その礼拝堂はどこに?」


「え?……街の外れにあるけれど。でも行っても無駄だよ。門前払いされるだけさ」



 

◇ ◇ ◇ ◇



 エリスは早歩きで湖の畔を歩いていた。

 向かうは、街の外れにある礼拝堂。



 ――『聖女』と呼ばれるセシリアに会いにいくのだ。

 


 魔王の冷笑がエリスの頭に響く。

 

《王都と聞いたからにはお前も察しただろう。普通なら、これ以上深く関わる必要はない》


「そうかもしれません。――ですが」

 

 本の表紙をそっと撫でながら、エリスは真っ直ぐ前を向く。


 

「きっと、遭わなければ後悔すると思うのです。だって、そのために私は、旅をしているのだから」



 エリスが旅をする目的。

 それは、『永劫回帰の儀』にて処刑された己を、見捨てたことによる贖罪の意識に囚われた者を赦すためだ。


 恐らく――この先出会うセシリアもまた、贖罪の意識に囚われた者に違いない。



 エリスは確信じみた想いを胸に、街はずれの礼拝堂へと足を進めるのであった。

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