真剣勝負という名の、別れの挨拶
カムイが実践で稽古の成果を発揮した後、それから数日が過ぎた。
朝の宿の庭には、いつものようにエリスとカムイの姿があった。
樫の木の下で、二人は向かい合って基本の型を繰り返している。
カムイの動きは随分と滑らかになり、無駄がなくなっていた。
「はい、今日も良い動きでしたね。この調子なら、先日の二人の暴漢相手でも一人で立ち回れるようになると思います」
エリスが微笑むと、カムイも嬉しそうに笑い返す。
しかし、その笑顔の奥に、ほんの少しの翳りがあることにエリスは気づいていた。
お互い、口には出さない。
けれど、別れの時が近づいていることは、二人ともわかっていた。
エリスは寂しげな微笑みをしながら、思った。
カムイはもう一人でも大丈夫。
母親を守れるくらいに、護身術の技術が上達したから。
――だから、もう自分は必要ない、と。
《……お前達は似た者同士だな》
魔王が木の上で呟く。
《互いに別れを感じながら、それを言葉にしない。不器用なものよ》
魔王の言葉を無言で肯定するエリスは、苦笑しながらカムイを見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、その日は突然訪れた。
朝の練習を終え、一息ついた時のこと。
「エリスさん。お願いがあります」
「何でしょう?」
カムイは深く息を吸い込み、真っ直ぐにエリスを見つめた。
「私と、真剣勝負をしてもらえませんか?」
カムイの目は、本気そのものだった。
これまでの練習とは違う、強い光を宿した瞳。
「稽古ではなく、全力での勝負をお願いします」
エリスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。
「はい、わかりました」
理由は尋ねなかった。
尋ねなくとも、カムイの気持ちを理解していたからだ。
カムイは自分の成長を確かめたいのだ。
そして、別れを決意するために、どうしても必要なことがあるのだろう。
魔王が興味深そうに尻尾を振り、二人を眺めている。
《……本気の勝負か、面白い》
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
庭の中央で、二人は向かい合った。
武器は持たない、素手同士の勝負。
朝日が二人を照らし出し、長い影が地面に伸びていった。
「では、始めましょう!」
エリスの掛け声と同時に、カムイが動いた。
これまでに教わった理合の技は、基本は受動的なものだ。
相手の力を利用して制する技――自ら積極的に攻めるものではない。
カムイはそれをよく理解していた。
だからこそ、勝つためには自分から攻めていくしかない。
「たあっ!」
カムイの拳がエリスに向かって伸びる。
しかし、エリスは軽くカムイの手首を払う。
カムイは体勢を立て直し、再び間合いを詰める。
今度は懐に入り込もうとするが、その勢いを利用し、エリスはするりと背後に回った。
「くっ……!」
カムイは必死に食らいつく。
手を伸ばし、掴もうとするが、全て読まれているかのように払われる。
やっとの思いでエリスの襟を掴んだと思った次の瞬間、手首を捻られ、逆に危機に陥る。
――無駄に動かされている。
そう気づいたのは、肩で息をし始めた時のことであった。
「はあ……はあ……!」
カムイの呼吸は次第に荒くなる。
額には汗が浮かび、動きにも疲れが見え始めていた。
一方、エリスは微笑みを浮かべたまま、涼しい顔でカムイの動きを受け続けている。
その余裕の表情が、カムイの闘志にさらに火をつけた。
「まだ……まだです!」
カムイは体勢を立て直し、再び攻め立てる。
正面から、フェイントからの側面、下半身を狙った突進。
――持てる技術の全てを、カムイは繰り出していく。
しかし、エリスはそれら全てを軽く捌いていった。
時には受け、時には流し、時にはかわす。
その動きはまるで、風が吹き抜けるかのように自然だった。
そして、決着の時が訪れた。
肩で息をするカムイ。
その全身からは汗が滴り落ち、手足は鉛のように重くなっていた。
対するエリスは、相変わらず微笑みながら、静かに立っている。まだまだ余裕がありそうだ。
「やはりお強い……ですが、私だって!」
カムイは最後の力を振り絞り、エリスに向かって飛び込もうとした。
――その瞬間だった。
エリスがようやく、自ら動いたのだ。
「……えっ?」
カムイの口から、呆けたような呟きが漏れる。
エリスの動きが、まるで見えなかったのだ。
そして、気づいた時には、己の身体が宙に舞っていた。
くるりと一回転し、地面へと叩きつけられる。
背中に土草の柔らかな衝撃が走り、空が見えた。
カムイには、何が起きたのかが掴めていない状態だった。
すると、エリスの優しい声が、頭上から聞こえた。
「……降参、ですね?」
微笑みながら、降参を促すエリスの顔は、強者の余裕を見せていた。
カムイは大の字になったまま、大きく息を吐いた。
全身の力が抜け、戦意が完全に消え去るのを感じる。
「――降参です」
カムイの声は、悔しさよりも、むしろ清々しさに満ちていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カムイはゆっくりと起き上がり、エリスを見つめた。
その目からは、涙が溢れ出していた。
「……ありがとうございました」
「どうして泣くのですか?」
「だって……だって、エリスさんは本当に強いから……! 私がどんなに頑張っても、全然敵わなくて……でも、それが嬉しいんです!」
カムイは涙を拭いながら、笑った。
「エリスさんみたいな強い人に、護身術を教えてもらえたこと……一生の宝物です」
「カムイさん……」
エリスの胸の奥が、じわりと温かくなる。
「これからも、母を守るために稽古は続けます。エリスさんに教わったこと、ずっと忘れません! ――いつかまたお会いした時には……その時は!」
カムイの目には、決意の光が宿っている。
エリスが教えてくれたことを、これからも続けていくように。
「頑張ってくださいね、カムイさん。応援しています」
エリスがそう言うと、カムイは大きくうなずいた。
「はい! ありがとうございました、エリスさん!」
二人は固く抱き合った。
別れの時が、静かに訪れようとしていたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、その日のうちにエリスは魔王と共に街を離れた。
街の出口で、お互いが見えなくなるまで、カムイはいつまでも手を振っていた。
街道を歩く中、黒猫の姿をした魔王が肩上で尋ねる。
《……その表情、一時の師匠業の手応えはあったようだな》
魔王の言葉を肯定するように、エリスは優しく微笑んだ。
「とても良い経験になりました。誰かに何かを教えること、その成長を見守ること……これもまた、大事なことだったんですね」
《ふん……あのカムイとやらも随分立派になった。お前の教えが正しかったからだ。誇るがいい》
エリスは嬉しそうに笑った。
「魔王にそう言っていただけるなんて、明日は雨が降るんでしょうかね?」
《な……! ち、調子に乗るんじゃないぞ! お前はまだまだ半人前だからな!》
魔王から強い言葉が発せられる。
棒術は随分上達したとはいえ、武の極みに到達している魔王にとっては、まだまだヒヨッコ同然であったからだ。
しかし、その目はどこか優しく、エリスを見つめていた。
本当は、誰よりも強くて、誰よりも頑張るエリスであることを知っている。
けれど、素直じゃないから仕方ない。
――それが魔王という存在だったからだ。
エリスはくすりと笑い、魔王の頭をそっと撫でた。
「ふふっ、まだまだ教わらなければならないことはたくさんありますもの。――これからも色々教えてくださいね、魔王」
《……ふん、調子のいいやつだ》
一人の少女を、一人前まで育て上げることができたエリス。
それは、大きな自信となったに違いない。
しかし、それでも彼女にとって、魔王は師同然である。
知らないことが多いこの世界で、様々なことを教えてくれる存在。
そんな尊敬すべき師匠且つ、大切な相棒に、エリスは微笑みながら愛しい想いで顎を撫でるのであった。




