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朝の鍛錬と、一人の少女との出会い


 東の空がようやく薄明るみを帯び始めた頃、宿の一室でエリスは目を覚ました。


 窓の外はまだ深い藍色に包まれ、街はしんと静まり返っている。


 一番鶏の声すら、まだ遠くで控えているようだ。


(今日も晴天になりそうですね。……よし)

 

 エリスはそっと布団から抜け出し、窓辺に立つ。


 冷たい朝の空気が、窓越しにほんのりと伝わり、街並みの姿形がゆっくりと浮かび上がっていく。


(さて、今日も元気に始めましょうか)


 エリスは静かに深呼吸を一つすると、身支度を整えた。


 動きやすいようにと宿の主人に譲り受けたという、やや大きめの麻の服に着替え、足元を固く縛り直す。


《……随分と早いな。街中が寝静まっているというのに》

 

「ええ。朝の静かな時間が、一番集中できるのです」


 エリスは小声で答える。


 ベッドの上で横に伸びる魔王は、大きなあくびを一つ見せると、また目を閉じた。


 その平和な姿にエリスは微笑み、そっと室を抜け出した。

 行き先は、宿の裏手にある小さな庭。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 

 庭はほぼ正方形で、四方を塀に囲まれており、中央には老いた槐の木が一本、ゆったりと枝を広げていた。


 地面は土が固く踏み締められており、誰かが度々ここを使っていることがわかる。


 エリスは槐の木の傍らに立つと、まず目を閉じた。


「ふぅ……」 


 ゆっくりと呼吸を整え、全身の感覚を研ぎ澄ませていく。


 冷たい空気が肺に入り、静かな血液の流れを感じる。

 

 耳を澄ませば、ごく遠くで聞こえる小川のせせらぎ、木々の間を抜ける微風、そして自分自身の鼓動。


 これが、最近エリスが行う日課の始まりだった。

 魔王の力を借りず、己の身体能力だけを頼りに戦うことができるようにするために。


 

 やがて、エリスの足がゆっくりと動き出す。


 最初はごく単純な歩行。

 一歩一歩、体重の移動を確かめながら、地面を感じながら歩く。


 その動きは滑らかで、ほとんど音を立てない。

 まるで地面を撫でるように。


 次に、歩行がゆっくりとした型へと変化していく。

 両腕を静かに振り、体の軸をぶらさずに旋回する。


 一つ一つの動作に意味があり、無駄がない。

 これは、かつて戦士として身体に刻み込まれた記憶を、今の脆い身体で再現する試みでもあった。


(軸を安定させて……視線は常に先へ……)


 エリスの動きは『静』そのもの。

 早朝の微光の中、黒髪の少女が無音の踊りを披露しているようだった。


 

 少しの間、歩行をすることで十分に身体が温まった頃。

 エリスはようやく、傍らに立てかけてあった樫の木の棒を手に取った。

 

 長さは彼女の背丈よりも高い、すっかり手に馴染んだ愛用の武器である。

 

 棒を手にした瞬間、エリスの雰囲気がわずかに変わる。


(掌から指の先まで、全神経を得物に通わせる)

 

 それまでの『静』が『動』へと移行する雰囲気が漂い始める。


 最初はゆっくりとした型から、基本動作を行っていく。

 扱い、突く、払う、薙ぐ、といった動きを一つ一つ丁寧に、正確に繰り返す。


 棒が風を切る音が、静寂の中に規則正しく響いた。


「――はっ!!」


 息づかいだけが、彼女の集中の深さを物語る。


 そして、突然、動きが加速した。


 エリスが低い姿勢から地面を蹴ると、次の瞬間、その姿はぼやけ、棒が空中に弧を描く。

 風切音が鋭い響きに変わった。


 

 間髪入れずに、木の幹めがけて放たれる連続突き。


 しかし、棒の先端は樹皮に触れることすらなく、ごくわずかな距離で止まる。

 一瞬の静止の後、今度は大きく回転し、背後からの虚の攻撃を想定して振り払う。


 極めて鮮やかな、動と静の切替。

 爆発的な加速の直後に完璧な静止。


 そして再び、流れるような連続技へと移行する。


 エリスの戦い方は、力に頼らない。

 全ては「先読み」と「捌き」に基づいている。


 仮想の敵の動きを想定し、その力を利用し、無駄のない最小限の動作で対応する。

 棒術と体術が渾然一体となり、その周囲には無敵の領域が生まれているように見えた。


「はっ!」


 時折、エリスは跳躍した。

 かつてならば軽々と越えられたであろう高さも、今は精一杯の努力を要する。


 しかし、その身のこなしは驚くほど軽やかだ。

 着地の衝撃を足首、膝、腰で見事に吸収し、次の動作へと移る。


(もっと、流れるように!)


 汗がエリスの額ににじみ、黒髪がほんのりと貼りつく。

 呼吸は次第に荒くなるが、その眼差しは一点を見据え、揺るぎない。


 そして、いよいよ型の最終形である。

 エリスは棒を構え、深く息を吸い込んだ。


 次の瞬間――。


 全身のバネを解放するように、身体が前に躍り出る。


 棒は一度に八方向へと突き出されるかのような速さで振るわれた。

 

 それは、同時に複数の敵を想定したエリスの持つ技術の集大成とも言える技だった。


「――たぁっ!」


 最後の一突きを放ち、エリスはその場に静止した。

 棒を構えたまま、微動だにしない。


 肩が細かく波打ち、激しい呼吸が白い息となって朝もやに消えていく。


 その様子を、木の幹で見上げるようにして見ていた魔王が、ふと興味深そうに尾を振った。

 いつの間にか起床し、エリスの稽古を眺めていたようだ。


 次の瞬間、小さな身体がさっと枝の上へと躍り上がる。


《……戯れにはちょうどいいか》


 魔王はいたずらっぽく目を細め、鋭い爪で枝をがさごそと揺さぶり始めた。


 ひらひらと、無数の枯れ葉が舞い落ちる。


「魔王?」


 エリスは一瞬動きを止め、目を丸くした。


《――試してみよ》


 ただ一言、魔王はエリスに告げた。

 その意味をエリスはすぐに理解する。


 落下する葉を、一つ残らず狙い撃てというのだろう。

 但し、払いではなく突きのみで。

 


 魔王の声には、揶揄いと、少々の期待が込められている。


 ――この程度、造作もないだろう?


 そんな言葉が浮かび上がるくらいだった。

 

 エリスは深く息を吸うと、すぐに姿勢を低く構えた。


 瞳の焦点が、飄々と落ちてくる無数の葉の一枚一枚に、急速に合わされていく。


「……わかりました」


 エリスは集中し、その呟きとほぼ同時に棒が動いた。


 最初の一撃は、ひらりと舞う楓の葉を正確に捉え、真芯を貫いた。


 次の瞬間、彼女の身体は旋回し、三枚の葉が同時に落ちるポイントへと棒を伸ばす。


 パシッ、パシッ、と乾いた音が続く。


 エリスの動きは、即興の舞のようだった。


 足さばきは細かく、体の軸はぶれることなく、棒の先は常に落ちてくる葉を追いかける。


 大きい葉、小さい葉、くるくると回転する葉。


 ――エリスはそれら全ての動きを予測し、決して地面に落ちる前に棒先で捉え、弾き、あるいは貫いていく。


 その集中力は常軌を逸していた。

 周囲の空気さえもが張り詰めたように感じられる程だった。


 エリスの額に汗が光り、呼吸は浅く速い。

 しかし、その手は微動だに揺るがない。


 十数枚の葉が、ことごとくエリスによって処理されていく。

 地面に落ちた時には、全てが原型を留めていなかった。


 最後の一枚。

 高いところからゆらゆらと落ちてくる小さな葉。


 エリスは一呼吸置き、棒を構える。

 そして、葉がちょうど目の高さに来た瞬間、棒の先端でごく軽く、そっと弾いた。


 葉はその衝撃でふわりと浮き上がり、もう一度、ゆっくりと舞い落ちていく。


 ――葉に衝撃を与えない程度に、最大限の加減をしたのだ。


 エリスは棒を下ろし、深く息を吐いた。


《……ふん、見事だ》


 枝の上から、魔王の声が聞こえた。

 尊大な口調の中に、隠しきれない感心の色がにじんでいる。


《あれだけの数を、しかも余の力を付与していない身体で。全く、大した上達ぶりであるな》

 

「ふふ、ありがとうございます」


 エリスは照れくさそうに頬を染めながら、空を見上げた。

 東の空はすっかり明るくなり、朝日が木々の間から差し込み始めている。


 

 やがて、エリスはゆっくりと構えを解いた。

 そして、東の空に登り始めた太陽に向かって、深く礼をした。


 戦士として、鍛錬の場と己の身体に感謝を捧げる静かな儀式である。


《これで満足か?》

 

「ええ……今日は、なかなか調子が良かったようです」


 エリスは汗ばんだ額を手の甲で拭い、ほんのりと紅潮した頬に涼しい風が気持ちいい。



◇ ◇ ◇ ◇


 

 次に、庭の隅にある井戸へと歩み寄った。


 古びた釣瓶桶を下ろし、冷たい水を汲み上げる。

 軋む音が朝の静けさに響く。


 エリスは水を手ですくい、顔にかけた。

 冷たさが心地よく、汗とほこりを洗い流す。


 何度か繰り返し、さっぱりとした顔を上げると、水面に映る自分の姿が少し誇らしげに見えた。


「さて! 今日も一日、元気に頑張りましょうね!」


 エリスはそう呟くと、肩の上に登ってきた魔王をそっと撫でながら、朝食の香りが漂ってくる宿へと戻っていく。



 

 

 ちょうどその時だった。

 パチパチパチ、と近くの大木から細かな拍手が聞こえてきたのだ。


 

「あ、あの! すごく、かっこよかったです!」


 

 木の影からひょっこり姿を現したのは、エリスよりも少し幼い少女。



 その瞳には、憧れと羨望。

 そして、期待に満ちた光が浮かび上がっていた。

 

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