魔法の特訓!
穏やかな春の日差しが林間の空地に差し込み、小鳥のさえずりが心地よく響いている中。
エリスは魔王から渡された一本の短めの枝を、緊張した面持ちで握りしめている。
ちなみにこの枝は魔法を使うとき、短めの杖を利用すると集中しやすいという傾向を基に、魔王がそこいらで拾ったごく普通の木の枝である。
《さて……そろそろ始めるとしようか》
「――よろしくお願いします!」
魔王は黒猫の姿で近くの丸太の上に座り、満足げに尾を振った。
《ふむ、良い心構えだ。では早速、魔法の基本から教えていくとしよう》
魔王は優雅に前足を上げ、説明を始めた。
《まず、魔法とは空間に漂う魔力素を演算し、精神力と組み合わせて使用するものだ》
「…………」
《魔力素は普段、何気なく感じている大気の隅々まで満ちている。気づいていないにせよ、一度感じ取れば大気との違いは明快であることが理解できよう》
「……………………?」
エリスは真剣な顔つきで魔王の言葉を聞き、咀嚼していこうと試みた。
しかし、今まで生きてきた中で実感のないことを言われても、理解するのは難しくて、訝しげな顔しかできない。
《……ごほんっ! とりあえず、最初に魔力素を感知することから始めるとするか》
気を取り直して、魔王はとりあえず初歩も初歩である『魔力素の感知』から始めるよう促した。
わかりやすい提示に、エリスは真剣な表情のまま大きく頷いた。
「はい! 魔力素を感知するんですね……!!」
エリスは集中し、瞑想を始める。
周囲に漂う大気に、魔力素が満ちている。
それを、肌感覚で掴むべく、全身に気を張り巡らした。
「………」
「……………」
「…………………」
――しかし、しばらく静寂が続いた後、エリスが申し訳なさそうに目を開けた。
「あの……魔力素って、どんな感じなんですか? 特に何も感じられないのですが」
《……どんな感じ……と言われてもな》
魔王は少し驚いたように目を細める。
当たり前のように感じとっているものを、言語化するのは難しい。
大気とは違うものだ、ということぐらいが精々なのである。
《……次の段階に進むぞ。感覚よりも実践した方が早いかもしれん》
「実践ですね! ……えっと、何をすればいいのでしょうか」
《最も簡単な小さな光球を作ることから始めるとしよう。この黒猫の姿ですら可能な、初歩も初歩の技術だ》
魔王が見本を見せる。
黒猫の小さな前足から、美しい光の球が浮かび上がった。
《……この通りだ。木の枝の尖端に意識を集中しながら、魔力素を掴みつつ放つイメージをするのだ》
「む……難しそうですが、やってみます!」
《声を出しながら行うのも効果的だ。参考にしてみよ》
エリスは枝を構え、真剣な表情で唱える。
「光よ、集まれ!」
しかし、何も起きなかった。
木の枝の尖端が光ることすらない。
《集中が足りん! もっとイメージを強くしろ! 頭を使い、演算するのだ!》
魔王の指導は厳しくなり、負けじとエリスは何度も挑戦する。
枝を振り、様々な呪文を試す。
「光よ!」
「輝け!」
「ルミナス!(?)」
しかし、何一つ起きない。
相変わらず枝の先が少しも光ることすらなく、完全な無反応が続く。
《……なぜだ?》
魔王は首を傾げる。
《魔法は誰でも使えるものだ。お前に才能がないなどありえない》
「ま、まだまだ! 頑張りますよ!」
◇ ◇ ◇ ◇
いつの間にか陽は高い位置まで登っていた。
必死に木の枝を振りながら、ああでもない、こうでもないと魔法を唱えようとするエリス。
このままでは埒が開かない。
魔王は次なる手段を試す。
《別の方法を試してみるぞ。空間認識だ。大気に満ちる魔力素の流れを把握せよ。魔力素そのものではなく、『流れ』だけでいい」
しかし、エリスは木々のざわめきや土の匂いしか感じられない。
《ならば属性変換だ。まずは火から》
だが、エリスは火花すら発生させることができない。
《無理なら基礎からだ。魔力素の理論を教える》
魔王は複雑な数式や理論を説明し始める。
しかし、エリスは五分で目が回りだす。
黄昏時になり、空が茜色に染まりつつあった。
エリスは相変わらず、完全に魔法が使えない。
《なぜだ……》
魔王は深刻そうに首を振る。
《もしや勇者の素質があるからなのか? 勇者としての力が残っていて、通常の魔法体系と干渉しているのか? それとも……」
魔王は考察を深めるが、いくら考えても答えは出ない。
エリスはただ、無反応なままだった。
「すみません…私、頭が悪いからでしょうか?」
エリスは申し訳なさそうにうつむく。
《いや、そうではない。魔法の演算は確かに頭脳を要するが、お前の知能に問題があるわけではない。これは……何か別の要因があるに違いない》
さらに修行は続く。
夜の帳が下り、野営の準備を終えたらすぐに練習だ。
しかし、魔法は相変わらず無反応。
エリスはますます落ち込んでいく。
「はぁ……はぁ……!」
肩で息をするエリスは疲労困憊になっていた。
無理もない、一日中思考と動作を繰り返していたのだから。
今はもう、最低限の力しか残っていない。
だが、エリスの瞳には諦めの文字はなかった。
《エリス、今が好機だ! 全身が脱力し、余計な力が入っておらず、魔法を使用する重要な精神状態である『静』の心となっている今こそ、魔法を使用するにうってつけであるぞ!》
おそらく、これが本日最後の好機だろう。
魔法を使用するための数々の条件が、ここまで揃っているのだから。
エリスは深呼吸をしながら、枝を前に掲げる。
そして、目を瞑りながら集中し、詠唱を始めた。
「――原初の闇を裂きし、最初の光よ。混沌の海に浮かびし、永遠の灯火よ。我は願う、汝の威光を以てこの世界に、温もりを灯さんことを……」
《お……おお! いいぞ、その調子だエリス!》
「燃え上がる力ではなく、包み込む擁護として。灼熱の裁きではなく、静かな赦しとして。汝の一片を、この手に委ね給え……」
それは、魂の奥深くから紡ぎ出す詩のような詠唱であった。
「聖なる火よ、我が祈りを受け入れよ。そして、穏やかに、ここに顕現せよ――」
《出るか……! 勇者であったお前が、初めて使う魔法が!》
そして、エリスは大きく木の枝を振りかぶり、前方に掲げ、叫んだ。
「せえええいっ!!」
《うおおおおおっ!!!!》
――しかし、何も起きなかった。
エリスの叫び声は木霊となって森林の奥深くに消えていく。
魔王も口を開けながら呆けている。
ここまでやって駄目なのか、と。
「……やはり、駄目ですね」
ついにエリスは諦めの表情を浮かべた。
エリスは木の枝を地面に置き、深々と頭を下げる。
「魔王、本当にすみませんでした。いろいろと教えてくださったのに、私、全然できなくて」
エリスの声は震えていた。
「一日中付き合っていただいたのに、何一つできませんでした。才能がないのに、無理なお願いをしてしまって本当に……」
エリスは顔を上げるが、目はうつむいたままだ。
「もう、魔法は諦めます。……ですが、棒術がありますから、大丈夫ですよ!」
無理に明るい空気を出そうとするエリスに、魔王の心が痛んだ。
これまでどのようなことに対しても前向きだったエリスが、初めて完全に諦めの姿勢を見せたのだ。
――だからこそ、魔王は放っておけるわけがなかった。
《……魔法には向き不向きがある。そんなに落ち込むな》
そして、魔王の声は優しく力強いものに変わる。
《だが、よく聞け、エリス。魔法が使えなくとも、お前にはお前の戦い方がある》
エリスはゆっくりと顔を上げる。
涙はないが、深く傷ついた表情を浮かべている。
《お前の第六感と戦闘技術は、魔法に勝るとも劣らぬ力だ。むしろ、魔法に頼らないお前の戦い方こそが、真の強さなのだ》
「でも、魔法が使えれば、もっと戦い方も広げることが……」
《違う》
魔王ははっきりと否定した。
その言葉の強さに、エリスは目を丸くする。
《お前の力は『言葉』だ。戦うことで相手に共感し、折衝を行い、そして分かりあうための道筋を産み出す》
魔王の脳裏に浮かぶのは、かつての配下であったバルドル、シルフィアである。
かつて魔族以外を見下し、自分達が頂点に立つ存在だと疑いもしなかった者たちだ。
そんな彼らが、エリスとの戦いを経て認め合ったのだ。
もし、エリスが魔法を使うとなれば、たちまちその力という名前の『言葉』が歪んでしまう恐れがある。
――だから、エリスはこれでいい。
魔王はそう確信したのだ。
《お前にはお前の道がある。魔法に頼らない、お前の戦い方を信じろ。……少なくとも、余はそう思う》
エリスはしばらく黙っていた。
しかし次第に顔を上げ、かすかな微笑みを浮かべた。
「……そうですね。私は私のできることで、頑張ります」
エリスの表情は依然として落ち込んでいたが、少しだけ前を向こうとする意志が見えた。
《ゆっくり休むがいい。結果は出なかったが、その努力は無駄ではない》
「ありがとうございます、魔王」
野営場所の焚き火のそばへ戻るエリスの背中は、少しだけ小さく見えた。
それでも、しっかり前を向いていた。
とりあえず元気を取り戻したことに、魔王は胸を撫で下ろす。
一方、心の中では一つの疑問が浮かび上がっていた。
(……しかし、なぜ魔法が使えないのかは結局見当がつかぬ。勇者という存在だからこその異常性か? それとも何かが……)
その疑問に、答えられるものは誰もいなかった。




