絶望のシルフィア
エリスの放った渾身の一撃は、シルフィアの喉元を正確に捉えていた。
シルフィアは理解不能なことへの驚愕と、炸裂する激痛が一気に襲いかかって来たことにより、悶え苦しんだ。
「ゲェッ!……ガッ……!!」
その姿は、あまりにも無様な姿だった。
地面に転がり、首元を抑えながら涎をとめどなく撒き散らす。
目を見開き、必死に呼吸をしながらも激痛からの解放を願っている。
やがて、動くこともままならなくなり、しまいには蹲ってしまった。
そこに、大きく地面を踏み締める音が、シルフィアの顔のすぐそばで発生した。
シルフィアはびくりと体を震わせ、痛む身体を抑えながら、その衝撃の来源へと必死に顔を向ける。
そこには、シルフィアを見下ろしながら、棒を顔面に向けるエリスの姿があった。
――動くな。
まるでそう言ってるかのような気迫が、構えから放たれているようだった。
エリスの目ははっきりとシルフィアを捉えている。
両肩からはとめどなく鮮血が流れ落ち、衣服は見る影もなく赤く染まり、足元には不気味な染みを広げている。
棒にも血が垂れていき、シルフィアの頬に一滴、また一滴と血雫が付着していく。
シルフィアは恐れ慄いた。
あの深手で、なぜまだ立っていられるのか?
それどころか、なぜ動けるのだ?
痛いなんてもんじゃない。それこそ、死んだ方がマシな激痛なはず。
シルフィアは心底動揺し、初めて目の前の少女――いや、もはや『理解不能な存在』へと変貌しつつある者に、純粋な恐怖を覚えたのだ。
エリスは、はっきりとした声でシルフィアに告げた。
「降参、しますか?」
それは、澄んだ声でありながらも、最後の警告であった。
酷い怪我の状態にも関わらず、その構えは変わらず力強いもので。
下手な動きをしたら確実に仕留める、という強い意志が伝わってくる。
刃物でなくとも、致命傷は必至であった。
シルフィアは泣きながら、喉をやられ、声にならない声を絞り出しながら懇願した。
「わ、わかりました! こ、降参! 降参します! い、命だけはどうか……!」
恐怖と痛みで震えるその声は、かつての優雅さや嘲笑は微塵もない。
ただ必死に生き延びようとする弱者のそれだった。
本当に無様で、情けなくて、哀れな存在。
かつてのシルフィアが今の自分を見たら、間違いなくそう嘲笑するだろう。
シルフィアの懇願に、エリスはほっとしたような安堵の表情を浮かべた。
「――それなら、先程の宝石を」
その言葉の意味を瞬時に理解したシルフィアは、魔封石を取り出した。
エリスはすかさず、魔封石を棒で叩き潰した。
すると、魔王を捕らえていた紫光の檻が崩れ、ゆらめいてゆき、そして静かに消え去ったのである。
《エリス……!!》
解放された魔王はすぐにエリスの状態を確認した。
しかし、エリスはもはや、応える余力さえない。
ただ、魔王の無事を確認できたことに安堵の表情を浮かべ、小さく頷くだけだった。
「…………っ!」
エリスは力なく、静かに地面へと倒れ込んだ。
激痛が全身を支配し、瞬く間に周囲が血の海と化していく。
「……ぁ……ぅ……」
エリスはうめき声を上げ、小さな痙攣を何度も、何度も起こしていく。
片肩と脇腹の裂傷はかなり深く、確実に生命を削り取っていく致命傷である。
あまりにも多くの血液を、短時間で失ったせいか、その肌の色は青くなり、そして土気色に変わりつつある。
その変化は、このままだとエリスが確実に『死』を迎えることを意味していた。
「……………………」
先程まで威勢が良かったエリスの、無様な現状を見るシルフィア。
恐怖心が少しずつ引いていくのを感じ、そして、それに取って代わるように、激しい怒りと屈辱がこみ上げてきた。
こんな小娘に。
魔王の力すら封じた自分が、あのような無様な姿を晒させられた。
体の痛みはあるが、それ以上に自尊心を粉々にされた屈辱感がシルフィアを灼いたのだ。
「……こっ……この……小娘が……!」
シルフィアの目に再び凶光が宿る。
そして『絶対に殺してやる』という強い意志を元に、苦し紛れに手を動かし始めた。
そうして展開したのは、範囲は極小だが、最速で発生させることができる、トドメの一撃にしか使わない確実な殺傷魔法。
「――死ね!」
その声と共にシルフィアは風の刃を、エリスの首元めがけて静かに放った。
その刃は、エリスの首元に深々と突き刺さった。
――はずだった。
「……えっ?」
シルフィアは確かに風の刃を放った。
しかし、エリスの首は未だ繋がっている。
風の刃はなぜか雲散霧消してしまったのだ。
まるで何かに阻まれたように、不自然に消え去ったのである。
「な、なぜ!?」
シルフィアは後ずさりした。
突然のことに思考が追いつかない。理解できない。
いったい何が起きている!?
「な、なら何度でも……!」
シルフィアは焦りと怒りから、再び風の刃を展開しようとする。
しかしその行動は、信じられない光景によって阻まれた。
「ギャアッ!!」
醜い悲鳴を上げたシルフィアの身体を、黒き雷撃が吹き飛ばした。
鈍い重低音と共に、シルフィアの周囲の地面を激しく打ち始めたのである。
地面は焦げ、深い窪みが無数に穿たれる。
黒き雷撃は怒りで暴れ狂うかのように、周囲の木々や地面、そして岩など全て、破壊し尽くすかのように飛び交っている。
そして、恐怖に慄き、全身を大きく震わすシルフィアの脳裏に、声が響き渡った。
《降参したにも関わらず、それを反故にし、終いには騙し討ちをしようとは……覚悟はできているな?》
それは、魔王の怒りの意思表示に他ならなかった。
降参とは、相手の正々堂々とした精神を信じて行うもの。
その精神を、武人である魔王は大いに好んでいた。
武人として当然持つべき精神であり、敵であろうと尊重したエリスの行いは、愚かな反面、見事であるとしか言いようがなかった。
しかし、シルフィアは、その崇高な精神を貶め、蔑ろにした。
だからこそ、心の底から許せなかったのだ。
「ち、違うんです、魔王様! こ、これはちょっとした出来心で……!」
言い訳がましいシルフィアの言葉に、魔王の怒りはさらに加速した。
「ギャンッ!……? あ……嫌だッ! 離してください! お願いします、魔王様ぁ……!」
黒き雷撃はシルフィアの四肢を拘束し、身動きを取れないように捕縛した。
このままだと、逃げることすらままならない。
――まるで、この場から逃亡を図ろうとしたシルフィアの意図を読んでいたかのようだった。
「………………ッ!」
エリスは声をあげることすら出来なくなっていた。
ただでさえ瀕死の重傷を負い、夥しい血液の流出によって身体が『死』に向かっている中の、魔王の力の付与。
風の刃で大きく裂かれた肩と、脇腹に変容した黒き雷撃が入り込み、さらに鮮血を吹き上がらせている。
エリスの身体を、精神を、魂を喰らい尽くそうとしているのだ。
(エリス……耐えろ! 耐えるのだ……! 勇者であるお前なら、絶対に出来る! そう言ったではないか!)
魔王は焦燥していた。
シルフィアの魔法によって殺される寸前の状況で、こうするしか方法はなかった。
これは賭けであった。
エリスの、異常なまでに痛みを耐える精神が、重傷な身体の上で、己の力の付与に耐えることを魔王は信じたのだ。
それは『死』すら生温い、断絶的に襲いかかる苦しみだろう。
普通の人間ならば、精神崩壊してもおかしくない。
誰一人として。
それこそ、魔王ですら想像を絶するほどの痛みに違いない。
魔王はそれを、エリスなら耐えてくれると信じたのだ。
あの『永劫回帰の儀』における清浄なる炎に焼かれ、絶叫した己とは違い、最後まで声すら上げずに耐え切ったこの少女なら、と。
「……う、うう……グ……グググ……!」
肩と脇腹の致命傷に加え、新たな地獄のような苦しみがエリスを襲う。
しかし、エリスは耐え続けた。
歯を食いしばり、滝のように流れる汗と、全身血に塗れながら。
それでも魔王の強大な力の奔流に耐え続けたのだ。
骨を粉砕されても、筋肉を捻じ切られても、全身のあらゆる部分から、鮮血が吹き出しても。
エリスは決して気絶はせず、痛みから逃げなかった。
最後まで、耐え続けたのだ。
そして、その強靭な意志が、いつしか魔王の力との同調を開始した。
魔王の黒き雷撃が急に姿を変え、靄になるとエリスの身体を優しく包んでいく。
まるで、満身創痍である華奢な少女の身体を癒していくかのような、優しい光となっていった。
「ひっ……!!」
シルフィアの情けない悲鳴が響く。
黒き雷撃を纏うエリスから放たれた気が、身体を一気に貫通していったからだ。
それは、圧倒的な力の差を思い知らされる程の闘気。
ようやく目覚め始めた『勇者の力』に、シルフィアはがちがちと歯を震わせ、涙がとめどなく流れていった。
――今すぐ逃げろ、絶対に勝てるわけがない。導き出されるのは、死よりも苦しい、惨たらしい末路。
しかし、シルフィアに逃げると言う選択肢はない。
魔王の黒き雷撃によって拘束されているからだ。
そして、一瞬の静寂が森を包んだ。
次の瞬間、エリスの身体から眩いばかりの光が迸った。
すると、変化が始まった。
――銀糸のように輝く長い髪が、太陽光を反射して美しく輝き始める。
――真紅の瞳は、深遠な金色へと輝きを変える。
――全身を包むのは、漆黒の気を吸収し、聖なる光へと変換した闘気の奔流。
――その姿は、魔王をただ一人で討ち果たした、かつての『勇者』そのものだった。




