元勇者 VS 風魔士
濃度の高い魔力の光が、シルフィアの両手に集まっていき、冷たい嘲笑が木々の間で反響する。
「ふふっ、その余裕……いつまで保っていられるかな」
その問いにエリスは答えない。
じゃり、と足元を踏み締め、全神経は眼前の敵へと集中。
樫の木の棒を両手で握りしめ、呼吸を整える。
その赤い瞳は、風の音からシルフィアの一挙一動、魔力のわずかな波動さえも逃さず捉えている。
魔王の力に頼れない今、エリスの武器は己の技術と観察眼、そして鍛え上げた精神力しかない。
挑発に乗らないエリスに、シルフィアはさらに嘲笑した。
「無視? ……ふん、強がっちゃっ――ッ!」
「たあっ!」
シルフィアがその言葉を終える前に、エリスが急に動きだし、奇襲を仕掛ける。
それは、瞬時に屈み、その瞬間片手一杯に握りしめた小石を勢いよく投げ放つ、所謂『石飛礫』だった。
「ふん、舐めるんじゃないよ!」
シルフィアは片手を振り上げると、周囲に突風が吹き渡る。
そして、宙を舞う石を絡め取り、そのままエリスに放ち返した。
「おっと」
呑気な声のままエリスは大木の幹に隠れ、反撃の石飛礫をやり過ごす。
ビシッ、ビシッと軽快な音を立てながら小石は大木に衝突した。
(――成程)
エリスは一つ、理解した。
「妙な真似をしても駄目。避けなければすぐに楽になるんだから。……まぁ、死ぬより苦しい目に遭わせるんだけど……ねっ!」
続いてシルフィアは光を纏った人差し指をゆっくりと動かし、虚空を薙ぎ始めた。
空気が擦れる甲高い音が響き渡り、耳にしたエリスは咄嗟に横に飛び、回避行動を取る。
先ほどいた場所にピシィッ、と立て続けに音が響く。
そして、数々の木の幹が、見えない刃に切り刻まれた。
避けきれなかった攻撃により、エリスの太腿にも軽い裂傷が走り、赤い一筋が垂れていく。
――シルフィアは人差し指の軌道上に、細かな風の刃を飛ばしていたのだ。
(……数も多く、発生も速い。ですが、威力はそこまで、ですね)
痛みは然程ではない、と木の幹を盾にしながらやり過ごそうとするエリス。
「隠れても無駄!」
次にシルフィアは拳を握り締め、大きく手を振りかぶった。
その行動に、エリスの第六感が強烈な警告を発した。
(――来る!)
その言葉と同時にエリスは棒を地面に突き刺し、勢いよく跳ね上がることで瞬時に木の枝へ乗り移った。
そしてエリスが場から飛び移った次の瞬間、シルフィアの大きく振り抜いた拳から、激しく甲高い音が響き渡った。
それは、巨大な風の刃を投げ放った音。
そばにあった大木は、最も簡単に切断され、メキメキメキ、と大きな音を立てて倒れていく。
その後ろに並んでいた木々も巻き添えで切断され、広範囲に切断された木の残骸が地面を埋め尽くしていた。
その威力に、エリスは目を見開いた。
「ふん、どうやら私の魔法に恐怖したみたいね。可愛い顔を凍らしちゃって、わかりやすい」
嘲笑するシルフィアに、エリスはじっと見つめる。
その表情はただただ疑問を浮かべているようにしか見えない。
エリスの様子に、シルフィアは軽い苛立ちを覚える。
「……何、その目は? 馬鹿にしてるの?」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、意外と当たらないものだなって」
「――はぁ?」
シルフィアの優雅な口調が急に低音になり、重く響き渡る。
エリスの言葉が癇に障ったのだ。
“当ててみろよ“
そう言ってるかのような挑発を、エリスが向けてきたように聞こえたからだ。
「――だったら、お望み通り、当ててあげる! バラバラになるようにね!」
シルフィアが再び両手に魔力の光を纏わせ、エリスを切り刻もうと両手で虚空を薙いでいく。
無数の見えない大きな風の刃が甲高い音を立てながら、ありとあらゆる角度からエリスに向かって襲いかかってきた。
(この甲高い音、速度と大きさによって違う)
前方全ての範囲から、風の刃は長さを変え、速度を変え、エリスの回避行動を封じるように計算され尽くしていた。
しかし、エリスは音と、シルフィアの動きから風の刃の大きさと形を想像する。
それは単なる想像を超えていた。
エリスの驚異的な共感力と第六感が極限まで高められ、視界の中に、本来なら見えないはずの風の刃が、微かに色づいた軌道として浮かび上がってくる。
その速度、範囲、威力。
すべてがエリスの肌感覚で理解できるようになっていく。
「避けてばかりじゃどうにもならないわよ!」
シルフィアはさらに魔力を込め、風の刃の数を増やす。
刃は複雑に絡み合い、エリスの動きをさらに制限し始める。
その時、エリスの唇が微かに動いた。
「次は右斜め上、三本。その後、左下足払い、しかし本命は――」
それは独り言のような呟きだった。
さらにエリスは集中した。
第六感が冴え渡り、眼前のシルフィアの行動を全て読み解いていく。
そしていつしかこう思った。
――自分がシルフィアなら、どう動くか、と。
それは、超越した共感力による、思考と行動の完全模倣。
シルフィアの一挙一動を、全てありのままに理解しようとしていたのだ。
相手の気持ちを想像するだけではない。
相手そのものになり、その術理を体感しているようだった。
風の刃が空気を切り裂き、絶え間なく飛び交う中。
エリスの肌は無数の小さな傷を負い、衣服の端を細かく切り刻まれていく。
最小限の動きで刃をかわし続けるが、決して余裕があるわけではない。
額に汗がにじみ、呼吸は次第に荒くなっていく。
風の刃の展開を「読む」ことによる、ギリギリの回避行動だった。
(小さな刃を無数に展開。だけどそれはフェイントで、狙いは私の足元!)
軽い跳躍と、棒を操ることによる方向転換により、シルフィアの攻撃を全て捌いていくエリス。
かすり傷ですら致命傷になりかねない緊張の連続。
ほんの一瞬の判断ミスが死を意味するものだった。
肩で息をし始めるエリスだが、その動きは止まらない。
シルフィアのあらゆる攻撃を、唯一の最適解を見出しながら避け続ける。
フェイントのようにあえて外して展開した刃。
設置型の罠のように固定した刃。
頭上からの振り下ろし。
竜巻のように囲い込む刃。
――そのすべてを、驚異的なまでの集中力と体捌きで『解析していく』
しかし、それでもエリスの柔肌には無数の切り傷が刻まれ、細かい血のしずくが飛散し、衣服のあちこちが赤く染まっていく。
流血は止まらない。
この状態では長期戦は不可能だ。
(では、そろそろ動きますか)
だから、エリスは冷静に状況を判断し、一歩前に踏み出した。
守りから攻めへの転換。
その決断に、迷いはなかった。
「おっと、前に出るつもり?」
シルフィアは嘲笑し、手札を変えた。
範囲は狭いが、より速く展開できる風の刃を複数、同時に放った。
これは今まで見せたことのないパターン。
通常なら回避は極めて困難なはずだった。
(この程度の攻撃なら……いける!)
しかし、エリスはそれも先読みしていた。
姿勢を乱さず、最小限の動きで刃を回避すると、一つの刃がエリスの上腕部をかすめ、新しい裂傷が走る。
しかし、エリスは眉一つ動かさない。
むしろ、その勢いを利用するようにさらに一歩前に踏み込み、重心を込める。
そして、ようやくエリスはシルフィアを攻撃できる間合いに踏み込んだ。
「――はっ!!」
千載一遇のチャンスを逃さない。
エリスは手にした棒を強く握り締め、勢いよくシルフィアの胸部へと真っ直ぐに突いた。
「あははっ!甘いっ!」
「――ッ!?」
急な突風がエリスを襲い、伸ばした棒はシルフィアに届かず、身体ごと後方へ吹き飛ばされてしまう。
シルフィアの身体の周囲に展開された、見えない『風の鎧』に阻まれ、弾き飛ばされたのだ。
「無駄な抵抗だと、理解した?」
シルフィアは余裕を取り戻し、冷笑した。
見えない攻撃のほか、見えない防御で全てを受け流す。
完全無欠の戦闘方法は、かつて魔王の配下であったことをありありと映し出している。
(――成程)
しかし、エリスは微かに頷くだけだった。
脳裏で、シルフィアの魔法のパターンが高速で解析されていく。
『風の鎧』を常時展開しているなら、最初の石礫の時に起こした突風の意味は。
――つまり、無敵の防御は、常時展開できるものではない。
『風の鎧』を展開した時、同時に攻撃を仕掛けてこなかった。
――つまり、風による攻撃は防御と同時にはできない。
では、次に攻撃が来る瞬間、そのわずかな隙を作ることは可能か。
その仮説を確かめるため、エリスはある行動を思いついた。
シルフィアの攻撃はさらに激化する。
しかし、その攻撃をエリスはほぼ見抜いていた。
シルフィアが魔力を込めるほんの些細な違い。
それは、魔力の濃度による光。
風を操る両手や身体の動き、そして何より――風の刃による空気の擦れる音。
それらにより、エリスは風の刃の範囲と速度を決定づけていたのだ。
苛立ちから、シルフィアは時折、広範囲で高威力の刃を混ぜるようになっていた。
それは、他の攻撃と比べ“溜め”があり、“大きく振りかぶる”必要のある、わかりやすいもの。
そして、次にその大きな刃が来る時こそが、最大のチャンスだ。
「しつっこいねぇ!!」
シルフィアが広範囲攻撃の構えを見せた瞬間、エリスは動いた。
エリスは風の刃の軌道を事前に読み、あらかじめ回避できる位置まで高速で移動する。
そして、シルフィアが極大の刃を展開した途端、回避するのと同時に、懐から取り出した『あるもの』を投げつけた。
「――えっ!?」
シルフィアはギョッとして、思わず体をよろめかせて『あるもの』を避けた。
――それは、チーズを切るための小さなナイフだった。
小さくとも刃物は刃物。
精一杯の避け方で無傷だったが、その動きは明らかに慌てていた。
(ようやく、見えました。――勝利への道!)
エリスの中で答えがまとまった。
シルフィア最大の隙、それは攻撃と防御の切替の瞬間。
高威力広範囲の攻撃ほど、防御への移行に時間がかかる。
だからこそ、風の鎧や突風でナイフを弾かずに、必死に避けたのだ。
そして、身体能力が高くないシルフィアは、緊急時の回避動作にも弱い。
ならば、全てを賭けた高威力広範囲の攻撃をさせるよう“仕向ければいい“ということだ。
――その方法を、エリスはすでに考えついていた。
「ふ、ふん! 切り札みたいだったけど、残念ね!」
強がるシルフィアにエリスは棒を下ろす。
そして、戦いの前と同様、心を凪のようにして告げた。
「シルフィアさん、もう一度だけ言わせてください。話し合いで解決できませんか?」
「……はぁ? 何言ってるの。命乞いならもっとわかりやすくして頂戴」
「命乞いではありませんよ。私は、負けるつもりなんてありませんから」
それは、シルフィアに対するエリスの最後通牒。
追い詰められている者の言葉とは思えない態度に、シルフィアの怒りの度合いが急に上がった。
「調子に……乗るなッ!!!」
シルフィアは再び両手に魔力を込め始める。
そして、また無数の風の刃を展開しようとしたその瞬間、エリスから再び『とあるもの』が投擲された。
「――なッ!」
シルフィアが咄嗟に風を操作し、吹き飛ばして地面に転げさせた『とあるもの』。
それは、単なるジャガイモであった。
「……なんのつもり? ふざけて――ッ!!???」
怒りに声を震わせながら問うシルフィアが途中でその言葉を止め、混乱した態度を表した。
なぜなら、頭の上に生温い何かが降ってきたからだ。
それは、異臭を発し、脂ぎっているもの。
《あ、あれは、余が楽しみにしていた……》
魔王は思い出す。
いつか食べようと思ってエリスに買って貰い、残しておいた生魚。
日が経過して、とんでもない異臭を放ち、油に塗れているものである。
そんなものが髪に付着するのを想像するのは、恐ろしくてできないくらい不快なものであり、怒り心頭になるに違いない。
そして、例に漏れず、シルフィアも同様の感情を表すのであった。
「ふ……ふ……! ふざけるなっ!!!!」
シルフィアは両手に今まで以上の魔力を集中させる。
その濃度は、全魔力を注ぎ込んでいるかのようで、周囲にの空気も歪ませ始める。
舞った木の葉は次々と裂け、粉々になっていく。
空気も甲高い音を立て、悲鳴を上げているかのようだった。
魔力の充填が完了し、シルフィアが両手を振りかぶる。
そして、叫んだ。
「消えろっ!!!」
シルフィアが叫ぶのと同時に、エリスが絶対に避けられないと確信した広範囲の風の刃が展開された。
風の刃は両足、両手をタイミングをずらして複数に渡り狙い、回避した後の予測地点にも展開する完璧なる布陣。
一つ二つ回避しても、この広範囲、この速度、この様々な角度なら全ては絶対避けられない。
致命傷は絶対である。
(――この勝負、もらった!)
シルフィアの目には、すでに勝利の光が輝いていた。
しかし、その目に映ったのは、自分へと一直線に駆け寄ってくるエリスの姿だった。
エリスは回避行動を取らなかったのだ。
「そのまま切り刻まれろ!!」
その言葉にすら応えないエリスは、そのまままっすぐ駆けて来る。
足元に展開される高速の大きな風の刃を、前方への跳躍でかろうじて避けた。
しかし、その跳躍では、全ての刃は回避できなかった。
その片肩には、その脇腹には。
大きな風の刃が深々と切り刻んでいった。
「…………ッ!!!」
ザシュッ、と鈍い肉を裂く音が森に響く。
その華奢な身体の片肩と、脇腹に大きな裂傷がばっくりと開き、鮮血が宙に舞い、激痛がエリスの全身を駆け抜けた。
その目が一瞬、超大な激痛で見開かれた。
(貰った……! 致命傷……!!)
シルフィアは確かな手応えを感じた。
今まで回避されていた攻撃がここに来て、ようやく大きな成果を遂げたからだ。
これでもう、標的は痛みで動けない。
後はじわじわと痛めつけて、目標を達成するための道具にするだけ。
シルフィアはそう考えていた。
急激に、周囲の光景がゆっくりになっていることに気づいたシルフィアは、とあることに気づいた。
――何かが、おかしい。なぜ、小娘は倒れない?
そう、エリスの駆ける速度がまるで落ちていないのだ。
普通なら全身の意識を激痛に持っていかれ、歩みを止め、地面に転がり悶えることを得ないはず。
だが現実は痛みに耐え、ただまっすぐ、自分への歩みを止めていない。
――それは、まるで《こうなることがわかっていた》かのようだった。
その瞳には、痛みよりも強い、揺るぎない決意の光が燃えている。
(まさか……!!)
シルフィアがエリスの真の意図に気づき、驚愕の叫びをあげたその時。
それは、シルフィアの咄嗟の『風の鎧』が展開されるまでのほんの一瞬のこと。
その刹那の隙を正確に縫うように。
傷ついた両肩から迸る鮮血を引き連れた、エリスの全身全霊を込めた渾身の一撃。
「――はっ!!!」
――そのひと突きが、シルフィアの喉元を鋭く、そして強く打ち抜いた。




