その名はシルフィア
商人や職人達が立ち寄る、小さな酒場。
エリスがゆっくりと食事をしていると、隣のテーブルから緊迫した声が聞こえてきた。
「聞いたか? 北の森で、とある旅人が『カマイタチ』にまたやられたらしいぞ」
「ああ、知っている。腕に切り傷を負ったが、命に別条はないそうだ」
「とはいえ、もう三人目だろ? 魔女の仕業って噂、本当かもしれないな」
エリスは手を止め、耳を澄ますと肩の上の黒猫も同調した。
(カマイタチ……魔女……)
エリスは静かに考え込んだ。
死者は出ていないというが、だからこそ見過ごせない。
無差別に傷つける何かが森にいるなら、それは野放しにはできない存在だ。
「村の者たちは近づくなと言っているが、あの森を経由しないと不便にも程があるんだよなぁ……」
「いつどこで怪我するか分かったもんじゃないし、仕方ないとはいえ、なぁ」
エリスは話を聞きながら、思った。
死者がいないということは、意図的に致命傷を避けている可能性もある。
だとすれば、話し合いの余地があるかもしれない。
《……また余計なことに首を突っ込むのか?》
魔王の呆れた声が頭に響くと、エリスはバレていたことに苦笑いで返す。
「おそらくカマイタチの正体は魔法。そして、噂の魔女があなたの元部下の可能性もありますし、ね?」
《……ふん、無駄な騒ぎを起こす愚か者の顔を一目見るだけだからな》
「ふふっ、ありがとうございます」
そしてエリスは食事を急いで終わらせ、元気な声でお会計を所望した。
次なる人助けの道が拓かられたからであろう。
その姿を見て、魔王は大きなため息をつくのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
エリスは街から少し離れた深い森へと足を踏み入れ、やがて木漏れ日の差す小道へと続く道を見つけた。
鬱蒼と生い茂る森ではあるが、快晴のためか木漏れ日が暖かく、気持ちがいい。
肩の上の魔王も、ただの黒猫のように日向ぼっこを満喫している。
しかし、二人の赤い瞳は常に細められ、周囲を警戒している。
――人間には感知できない微細な変化すらも、捉えているようだった。
「今日もいい天気ですね、魔王」
エリスは深呼吸し、自然な会話を始めるが、魔王は緊張感がないことに釘を刺す。
《ふん、のんびりとしたものだな……ッ!》
しかし、突然、魔王の身体がエリスの肩上で緊張した。
黒猫の背中の毛が逆立ち、低いうなり声のようなものを発している。
《……この気配、来るぞ!!》
その言葉の直後、森の静寂を切り裂くように空気の擦れる音が響き渡った。
それは、鋭利な刃物が風を切るような、かすかながらも不気味な音。
――カマイタチが二人に襲いかかってきたのだ。
「――おっと、危ないですね」
呑気な声を発しながら、エリスは超人的な第六感によって咄嗟に横に飛び、余裕を持って攻撃をかわした。
次の瞬間、元いた場所の後方にある大きな樫の木に、細かい刃痕が刻まれる。
カッ、カッ、という軽快な音が複数のカマイタチの正体を証明していた。
「背後からの奇襲、よく避けたものね。流石にそう簡単にはいかない――そうでしょう? 元『勇者』様?」
優雅な、それでいて冷たい女性の声が森の中に響き渡ると、声の主は木々の影からゆっくりと姿を現した。
20代前半ほどの外見で、深緑のローブがその均整の取れた体型にまとわりついている。
長い緑髪は風に靡き、鋭い眼光を持つ整った顔には、冷たい嘲笑と余裕に満ちた輝きが宿っていた。
「……どなたですか?」
エリスは警戒して一歩引き、肩の上の魔王を守るように姿勢を低くする。
「私はシルフィア。あなたの肩上にいる、魔王様の誇り高き幹部の一人よ」
「……魔王のこと、ご存じなのですね」
「勿論。そして貴女……世界を救った元『勇者』と共に相棒として旅をしているってね。噂には聞いていたけれど、なんとも哀れな光景だこと」
出会ったことのないシルフィアが、勇者と魔王の現状を知っている。
それは、情報源となる存在が他にいることの証左である。
「……どこでその情報を得たか教えて貰えませんか?」
「嫌。どうせ貴女の旅はここで終わるから、話しても無駄なの」
とりつくしまもない状態のシルフィアに、魔王がエリスに伝えるように言った。
「《久しいな風魔士シルフィア、お前の目的はなんだ? 余の復活を企んでいるのであればやめておけ。この娘には勝てん》……とのことです」
「……魔王様、すっかり人間風情に当てられてしまったのですね。元勇者でしかない者をそんな脅威に思うとは」
シルフィアは高らかに笑った。
その笑い声はどこか不気味な響きを帯びている。
「今すぐその洗脳を解いてあげますので、手を出さないでね。大丈夫、すぐ終わるから」
そう言うと、シルフィアはローブの内側から不気味な紫色の宝石を取り出した。
「――ッ!?」
怪しげに輝く宝石に、エリスの第六感が最大級の警告を発した。
そして、行動を起こそうとするも、シルフィアが魔封石を掲げる方が先だった。
《なっ……これは!?》
宝石から紫光が迸り、複雑な魔法陣が空中に展開すると、魔王の身体を淡い光が包み込んだ。
淡い光は檻のように魔王の動きを完全に封じ、エリスに対する声も途切れてしまった。
《くっ……動けん……! しかも魔力が、完全に遮断されているだと……!》
「これでよし」
シルフィアは第一の目的を果たしたのか、満足げに頷いた。
「紫光の檻は魔力を封じ、外界に影響を与えることができないの。――つまり、もう二度と魔王様の力を得て、銀髪金眼の勇者にはなれないってことね」
残念そうにエリスに告げる、シルフィアの声は哀れみを込めたものであった。
切り札を封じ、すでに決着はついたも同然。
その現実に、魔王は必死にエリスに向かって声を上げた。
《エリス、ここは一旦退け! 余の力がなければシルフィアを倒すのは不可能だ! いくらお前とて、あまりにも不利すぎる!》
その焦りは、猫の鳴き声にも現れ、甲高く響いた。
魔王は紫光の檻の中で必死にもがくが、まったく効果はない。
「どうやら退散しろと言ってるようね。さっさと見捨てて尻尾を巻いて逃げなさい? ――まあ、そんなこと不可能だけどね!」
シルフィアは優雅に手を動かし、周囲に無数の見えない風の刃を展開し始めた。
風の刃はエリスを威嚇するように、周囲の木々や地面に無数の傷跡を刻んでいく。
しかし、エリスは微動だにしなかった。
まっすぐ前を向き、焦りの色一片も見せない。
そして、ゆっくりと魔王の檻を見つめ、静かに言った。
「――魔王、大丈夫ですよ。絶対に、あなたを見捨てませんから」
その声は、魔王に対しても、シルフィアに対しても向けられた、確固たる宣言。
「シルフィアさん。なんとか、話し合いで解決できませんか? 私を殺しても魔王は復活しませんし、戦う理由自体がないのです」
エリスはさらに一歩前に進み出ながら告げるが、シルフィアは高らかに笑い始める。
「何を言うのかと思えば、とぼけちゃって。……なら、貴女の四肢をもいで、動けなくしてから考えようかな。――魔王様復活の方法を考える時間は、たっぷりあるんだから!」
「……遠慮しておきます」
残酷な言葉に、エリスはわずかに眉をひそめたが、恐怖や動揺は微塵も見せない。
シルフィアには、その余裕が気に食わなかったようだ。
「……何よ、その余裕。なんかムカつくんだけど」
低い声になりながら、シルフィアの表情に苛立ちの跡が刻まれる。
一方、エリスは黙って背中の樫の棒をゆっくりと抜いた。
それは、これから発生する激しい戦闘を告げる狼煙であった。
「どうやら話し合いは不可能――なら、お相手しましょう」
エリスは両手で棒をしっかりと構えると、精神統一をするかのように、静かに深く呼吸を始めた。
その赤い瞳には強い意志が宿り、周囲の雑音や恐怖は一切映さない。
ただシルフィアのみを写している。
その全身が、研ぎ澄まされた集中力に包まれているようだった。
《エリス、挑発に乗るな! 今のお前に勝つ術は――ッ!?》
エリスに届かない警告を魔王はするが、突然、声が途中で止まった。
檻の中からエリスを見つめる魔王の表情が、驚愕に満ちたからだ。
《ま、まさか……お前……》
魔王は愕然としてエリスの変化を見守った。
その力強い眼差しと、その構えから放出される闘気。
――それは、武人でなければ感知できないほどの、確かに存在する圧倒的な気迫だ。
まるで周囲の空気そのものが濃縮され、エリスを中心として渦巻いているかのようだった。
《この闘気は……勇者であった頃と遜色ない……いや……!》
かつての銀髪金眼の勇者とは異なる闘気。
今、この黒髪赤眼の少女から放出されているそれは、エリス自身の内側から湧き上がる純粋な力そのもの。
磨き上げられた鋼のような意志、研ぎ澄まされた集中力、そして逆境すらも糧にしようとする強靭な精神力。
――それらが渾然一体となり、周囲に目に見えない威圧感を形成していた。
《力そのものは確かに勇者の頃よりも遥かに劣っている。……だが》
魔王は言葉を失った。
エリスはまさに、己の内なる可能性の核心に触れようとしていた。
外力に依存せず、自分自身の鍛え上げた技術と精神力のみで、強大な敵に立ち向かおうとしている。
シルフィアもまた、エリスの変化に気づいていた。
少女が放った闘気が全身を貫き、動悸と汗が浮かび始めたからだ。
――シルフィアは、エリスに無意識下で恐怖していたのだ。
「……ふん。どうやら、そう簡単にはいかないみたいね。でも……」
シルフィアの余裕が消え、警戒心を帯びた真剣な表情に変わる。
手加減も、油断もしないという宣告であった。
そして、エリスはその言葉に微動だにしない。
赤い瞳はシルフィアの動きを完璧に捉え、次の一手を予測しているからだ。
その呼吸は深く静かで、全身の筋肉は脱力しながらも、いつでも爆発的な動きに出られる準備ができている。
魔王は紫光の檻の中で、ただ見守ることしかできない。
しかし、その表情は不安ながらもいつしか、興奮と期待に塗れるものとなっていた。
《ならば見せてみよ、エリス。……お前の可能性を。そして、無事生き延びるのだ!》
エリス。
かつての好敵手であり、今は最も信頼を寄せる相棒の少女。
その少女が、新たな形で「強さ」に目覚めようとする瞬間が、今である。
その瞬間を魔王は目を見開きながら、一瞬たりとも見逃さないよう強く意識するのであった。




