その人助けは、復讐の種となる。
夕暮れ時、とある街の大通りは一日の終わりを告げる人々の喧騒に包まれていた。
陽が西に傾き、建物の影が長く伸びる中、エリスは肩に乗った黒猫の魔王と共に、のんびりと道を歩いている。
どこにでもいる村娘にしか見えない彼女であるが、その瞳だけは鋭く、周囲を細かく観察していた。
「今日も一日、たくさんの人にお手伝いができましたね」
エリスが穏やかに呟くと、肩の上の黒猫は面倒臭そうに尾を振った。
《相変わらず、お前は細かいことに首を突っ込みすぎだ。町内の世話役でも気取っているのか?》
「そんなことありませんよ。お困りの方を見かけたら、放っておけませんもの」
足を挫いた老人に肩を貸しながら、家まで案内をしたり。
小さな装飾品を落とした妙齢の女性と一緒に地面を這いつくばって探し物をしたり。
泣いている子供の手を固く握り、親を探したり。
些細な物事達も、放っておけなかった。
エリスの言葉には、一片の迷いもない純粋な善意から発せられたものだった。
しかし、そんなエリスの鋭い第六感が突然、人混みから漂う悪意の波動を感知した。
(……この中に、よからぬ意図を持った者がいますね)
エリスが視線を向けた歩行者の波の中に、痩身の男がいた。
その名はギャレン。
――界隈では有名な窃盗者であり、巧みに人混みに紛れ、次の獲物を探している最中だった。
魔王が低い声で問いかける。
《……また面倒事に巻き込まれる気か?》
「ええ、ちょっとだけです」
エリスはごく自然な笑みを浮かべながら、視線を逸らさずに答えた。
「あの方、とても慌てているようでしたから。もしかすると、ね」
エリスの超人的な観察眼が、ギャレンの全身の微妙な動きを読み解いていく。
視線の動かし方や肩の傾き、足の運び……そのすべてが、意図を告げていた。
まるで獲物を狙う獣のように、ギャレンは完璧なタイミングを伺っている。
「まずは周囲を確認……そしてゆっくりと接近……右足に体重をかけ、左足を滑り込ませる準備……」
ギャレンの行動をぶつぶつと呟きながら観察し、次なる行動までエリスは予測する。
その姿に、魔王は呆れ返った。
《……窃取の手法について随分と詳しいのだな》
(ええ、かつて何度か接触したことがありましたので)
エリスはごく自然に露店の果物を手に取りながら、横目でギャレンを観察しつつ、心の声で返した。
ギャレンはゆっくりと標的に近づき始める。
対象は年配の女性で、買い物袋を片手に財布を開き、小銭を数えているところだった。
ギャレンの唇がわずかに歪んだ。
女性が財布を懐に入れようとした瞬間、ギャレンの動きが加速した。
わずかな隙。
ほんの一瞬の油断を突いて、その身体を滑り込ませる。
「ちっ、気をつけろよな、おばさん」
ギャレンはわざと軽く女性にぶつかり、その瞬間に財布を奪い取った。
流れるような動作で、女性の懐にはもう財布はないのだが、当の本人は気づけていない。
しかし、その直後――。
「わわっ!」
エリスがわざとらしい驚きの声を上げ、ちょうどギャレンの進路上に現れた。
計算されたタイミングで、わずかに足を滑らせたのだ。
「痛っ! ……ああ、すみません! お怪我はありませんか?」
エリスは申し訳なさそうに手を合わせると、心配そうにギャレンを見つめた。
その瞳には一片の悪意もなく、純粋な心配の色しかなかった。
「……き、気をつけろよ嬢ちゃん」
ギャレンはむっつりと答えると、早々にその場を離れるべく、踵を返して雑踏の中に消えていった。
ギャレンが去った後、エリスは女性の元へ歩み寄った。
「これ、落ちていましたよ」
エリスはさも自然に、地面から財布を拾い上げたように見せかけて差し出した。
実際には、ギャレンにぶつかった瞬間、彼と同じ技を使って財布を奪い返していたのである。
「まあ! ありがとう、お嬢ちゃん! 気づかなかったわ!」
女性は感謝の言葉を繰り返し、エリスは照れくさそうに頷いた。
《なんという見事な窃取。お前にこんな才能があったとはな》
(や、やめてくださいよ。ちっとも嬉しくありません)
魔王が認めるように呟く一方、エリスはその言葉に複雑な気分になる。
盗みの才能があると言われ喜ぶわけがないのだ。
「とにかく財布を守れて良かった。今日はいい気分で眠れそうですね」
《しかし、あのギャレンという輩……どうやらお前のことを覚えたようだぞ》
「大丈夫です。きっと、あの方も本当は良い方なんです。ただ、少し道に迷っているだけで」
《……甘い奴だな、お前は》
エリスはその場を離れ、宿に向かって歩き始めた。
今日一日の出来事を思い返しながら、伸びをしながら静かな満足感を覚えるのであった。
◇ ◇ ◇
一方、とある路地裏――。
「ちっ……まさか、この俺が逆に小娘ごときにやられるとはな」
ギャレンが壁に踵を打ち付けながら、悔しさを滲ませている。
ようやく財布がないことに気づき、エリスに取られたことを理解したのだ。
「待ってろよ、近いうちに思い知らせてやる……!」
その目には怒りと屈辱の色が燃えていた。
自尊心の高いギャレンにとって、これは許し難い侮辱だったのである。
すると、ごそごそと懐から小さな瓶を取り出した。
中には無色透明の液体が入っている。
「こいつを試してみるか。ククク……後悔に塗れる顔が楽しみだぜ……!」
歪んだ笑みを浮かべながら、ギャレンは明日への悪だくみを脳裏に巡らせる。
こうして、エリスの純粋な善意は、逆に怨恨を買う形となった。
エリスは無意識のうちに、他者に復讐を企てられていることにも気づかず、平和な夜を過ごしている。
「今日も、良い一日でしたね、魔王」
《……ふん。だが、これからも無闇に危険を冒すんじゃないぞ》
「はい、気をつけますね」
エリスは温かい布団の中で静かに体を横たえた。
今日という日が、明日へのどのような影響をもたらすかも知らずに。
――そして、自分が無意識のうちに敵を作ってしまったことにも気づかずに。
夜は静かに更け、エリスは深い眠りについた。
明日の災厄など知る由もなく、その顔には平和な笑みが浮かんでいる。
――その一方で、街の片隅では復讐の計画が着々と進行しているのであった。




