看取り師
次にエリス達が到着したのは、「ドミナント」という小さな街。
その街中で、とあることがきっかけで肩を負傷したエリスは、ゆっくりと歩いていた。
向かう所は、街の外れにひっそりと佇む建物――診療所。
「こ、こんな軽い怪我なんかで、お医者様の力は必要はありませんってば」
《大人しく言うことを聞け。擦り傷と打撲とはいえ、悪化すると危険だ》
魔王はエリスの肩の上で、エリスを睨みながら尾を振っている。
全てはエリスの愚直な自己犠牲心が引き起こしたものであることを、強く非難しているように見えた。
◇ ◇ ◇ ◇
ことのきっかけは、この街に辿り着いた数時間前のこと。
食料を補給するため、商店街を歩くエリスが突然、危険を感知した。
その意識の先には、数歩先にいる幼い少女。
「危ないっ!」
エリスは瞬時に駆け出し、少女を抱えて横に飛んだ。
その瞬間、場に轟音と共に木材が崩れ落ち、舞い上がった埃が周囲を覆う。
工事用の積み重なった木材が傾き、崩れたのである。
「大丈夫ですか?」
「あ……ありがとう、お姉ちゃん」
少女が無事だったことにエリスが安堵した瞬間、肩と脚に痛みが走った。
どうやら軽い擦り傷と打撲を負ってしまったらしい。
しかし、我慢できない痛みでもないため、埃を払って立ち上がり、そそくさとその場を後にしようと画策した時だった。
木材の所有主が慌てて駆け寄ってきたのだ。
「お嬢ちゃん、大丈夫か!? 俺の不注意のせいで本当にすまなかった……」
「いえいえ、問題なく間に合ったので良かったですし、そのお言葉だけで十分です」
「そうは言っても……ん? 軽い怪我をしているようだな。ちょっとした診療所が街の外れにあるので寄ってみてくれ。時間が経つにつれて痛みが酷くなる可能性もある」
「え? え? そ、そんな……お金は別にいいですよ。……あ、ありがとうございます」
善意を断ろうとしたが、無理やり押し付けるように治療用の資金を押し付けられるエリス。
所有主の謝罪と共に渡された金貨を掌に置きながら、エリスは戸惑いながらもありがたく受け取るのであった。
こうして平和な街中で発生した小さな事件は静かに収束した。
◇ ◇ ◇ ◇
街の外れにひっそりと佇む診療所は、看板の色あせた、どこか時代を感じさせる佇まいをしていた。
「おや、珍しいお客さんですね。旅をしている方かな」
入口で掃き掃除をしていた老医師が、優しい笑顔でエリスを迎え入れた。
「ちょっとした怪我でして……手当てをお願いできますでしょうか?」
「もちろん。中へどうぞ」
診療所の中は質素だが清潔で、窓辺には可憐な春の花が活けられていた。
エリスは診察台に腰かけ、老医師の手当てを受ける。
「擦り傷と軽い打撲だけですね。数日もすれば治るんじゃないかと思われます」
「何ともなくて良かったです。ありがとうございます」
「ですが、油断は禁物ですよ。一応冷却と手技療法にて施術しますので、少々お待ちを」
その時、奥の部屋から静かな足音が聞こえ、一人の女性が現れた。
清楚な白衣を纏い、長い黒髪を後ろで一つに束ねた女性が、廊下を静かに歩いてくる。
「リリィ、ちょうど良かった。新しい患者さんだ。後の処置を頼めるかな」
「承知しました、先生」
老医師が退席した後、リリィと名乗った女性は無表情でエリスに向き直り、手当てを始めた。
その動作は、非常に手慣れたものだった。
触診し、エリスの微妙に変わった顔つきから打撲部位を確定させ、無駄のない動きで氷嚢を作り、当てがった。
冷却している最中、擦り傷のある部位を消毒し、薬草を塗り込んだ布を貼り、包帯を巻いていく。
冷却が終わった患部を緩めるため、マッサージを行い痛みを散らしていく。
誰が見ても、完璧かつ迅速な治療だった。
しかし、リリィの瞳には深い悲しみが淀んでおり、虚無感がにじみ出ている。
それをエリスは見逃さなかった。
「しばらくは激しい運動はお控えください。心配ならば、三日後に再度来院されると良いでしょう」
「ありがとうございます、リリィさん……ですね?」
「はい。――それでは、私はこれで」
エリスが尋ねると、リリィは微笑みながらわずかに頷き、診療所の奥へ戻っていった。
◇ ◇ ◇ ◇
診療所の奥へ戻っていくリリィの背中には、言い知れぬ孤独感が纏わりついている。
そして、その時の表情も併せて、エリスの脳裏にこびり付いていた。
《エリス、加療の必要がないのであるなら、すぐに出発するぞ。こんな軽い怪我で足止めを喰らうのも無駄な時間だ》
(でも魔王、あのリリィさんのこと……何故か気になるのです)
老医師は、リリィの姿に深いため息を吐き、両目を指で拭っていた。
何か知っているのかもしれない。
エリスはさりげなく老医師に質問した。
「先生、あのリリィさんという方は……」
「リリィのことかい? ……彼女は、ここで『看取り師』をしているんだ」
「看取り師……?」
「治療をしても無駄だと判断された、末期の患者さんの最後を看取る、とても大切な仕事だ」
通常、ある程度の負傷や病気などは、回復術によって治療を行うことができる。
しかし、あまりにも肉体が消耗したり、老化している場合、回復術が効かなくなり、末期と判断されるのだ。
「末期の患者さんは例外なく、その最期までの間、苦しんでいく。覚悟を決めたとか、大丈夫とか言っても例外なくその結末を迎えるにあたって、焦燥してしまうのが普通なのだ」
「……でも、それは当たり前のことだと思います。私には、とても責めることもできません」
「お嬢さんの言う通りだ。だからこそ、その負担を少しでも緩和するために必要なのだよ。『看取り師』が」
老医師は寂しげな笑みを浮かべた。
「誰もができる仕事じゃない。人の死に立ち会うのは誰だって辛いからね。特にリリィのような若い女性がこの仕事を選ぶのは珍しいんだ」
エリスの胸に、なぜか漠然とした痛みが走る。
リリィの瞳に宿っていた深い悲しみ――それは単なる職業上の疲れではなさそうだった。
《エリス?》
(あ、いえ……少し、あのリリィさんのことが少し気になったので)
エリスは診療所の待合室に腰かけ、リリィの動きをそっと観察し始めた。
患者の部屋を回り、優しく声をかけ、手を握り、穏やかに会話をする。
その動作は丁寧で真心がこもっているように見えたが、表情には常に深い陰が差していた。
◇ ◇ ◇ ◇
エリスはリリィに三日後の再来を約束して診療所を後にした。
しかし、エリスの心にはリリィの悲しみに満ちた瞳が深く刻み込まれていた。
春の風がエリスの黒髪を揺らす中、何度も振り返って診療所を見つめた。
(気のせいじゃない……あの様子……)
エリスの胸に去来する複雑な思い。
これは単なる偶然の出会いではない。
――そんな確信が、静かにエリスの心の中で大きくなっていった。
診療所を出ると、夕暮れが近づいていた。
街灯が一つまた一つと灯り始め、商店街の喧騒も次第に静まっていく。
「リリィさん……何か悲しいことがあったのでしょうか」
《当然だろう。看取り師などという仕事を選ぶ者は、往々にして過去に囚われているものだ》
エリスは歩きながら、リリィの空虚な瞳を思い出す。
あの目は、かつての自分が監獄で見た衛兵たちのそれに似ていた。
罪悪感と諦念が混ざり合った、複雑な表情だ。
「もう少し……この街に滞在してみようと思います」
《……ふん、相変わらずの厄介事好きだな》
エリスは胸のあたりに手を当てる。
かつて清浄なる炎に包まれた時、勇者であったエリスを看取る民衆の中に、あの空虚な瞳を持つ者たちがいたことを思い出していた。
《ならば好きにしろ。ただし、無理は禁物だ。お前の身体はまだ完全には回復していないのだからな》
「ありがとうございます、魔王」
夕闇が深まる中、エリスは宿へと続く道を歩き始める。
エリスの心には、リリィという女性の謎を解き明かしたいという思いが、静かに灯り始めていた。




