魔王は少女に謝罪する。すまなかった、と。
朝もやが窓ガラスに白く結び、宿の一室をぼんやりと照らし出している早朝。
エリスは布団の中にじっと横たわり、目だけを開けてぼんやりと天井を見つめ続けていた。
《エリス、もう朝だ。そろそろ起きる時間であるぞ》
顔の横に座る魔王がエリスの顔を軽く叩き、起床を促す。
しかし、エリスは微動だにせず、ただ無言のまま天井のひび割れを追い続ける。
《……聞こえているのか?》
今度は少し声を大きくして呼びかける。
それでも反応がないことに、魔王の尾先がイライラと揺れた。
《今日は西の街道を進むのだ。早く支度を始めろ》
「……はい」
ようやく口を開いたエリスだったが、その声には感情の一片も込められていなかった。
エリスはゆっくりと起き上がると、機械的な動作で身支度を始める。
《…………?》
魔王は妙な違和感を覚えた。
普段なら少女の優しい「おはようございます」という響きから一日が始まるのだが、今日に限ってはそれがない。
一つ一つの行動全てが無表情に行われていたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
二人が宿を出ると、街道には朝露がきらめいていた。
遠くで小鳥のさえずりが聞こえ、どこからかパンの焼ける良い香りが漂ってくる。
本来ならば、エリスがその景色や香りに感動し、嬉しそうに話し始めるはずの朝だった。
しかし、今日に限っては会話は無かった。
《…………》
時間が経つにつれ、エリスの変化は見てわかるほどになっていた。
以前は笑顔を絶やさないまま街道を、山道を歩む中で、旅の計画について楽しそうに二人で話し合っていた。
しかし、今では最低限の必要な言葉さえも惜しむようになっている。
《このまま街道を真っ直ぐ進むとしよう。そうすれば、次の街まで三日ほどで着くはずだ》
「了解しました」
魔王の助言に対し、エリスの返事は相変わらず一言で終わらせていた。
エリスはただ真っ直ぐ前を向きながら歩き続け、周りの景色には一切目を向けようとしない。
《腹が減ったな。あの木陰で休憩するか》
「そうしましょう」
《…………》
《先は長い。今ある食糧なら十分保つだろうが、贅沢はするなよ》
「はい」
《………………》
《……まあ、体力が無くても苦しむだけだからな。贅沢では無くとも、十分な食事は摂るようにせねば》
「ありがとうございます」
《……………………》
食事の時すらも、いつもとは違い、能動的に魔王はエリスに話しかける。
しかし、エリスの反応はただ一言返すだけ。
完全なる一方通行の会話に、場の空気も凍りつくようだった。
寒々しい、苦痛に満ちたような空間での食事が終われば、また移動だ。
目的地まで伸びる街道をまっすぐ歩くエリスの歩調は乱れずに、休む気配すら見せなかった。
まるで、何も考えたくない、と思い詰めている何かを振り払うかのような必死ささえ覗かせていた。
◇ ◇ ◇ ◇
二日目が経過した頃、魔王は困惑していた。
エリスの態度が明らかに変わっていたからだ。
魔王が話しかけても、エリスは俯いたまま歩き続け、返事をすることは稀だった。
食事の時も、魔王におかずを分け与えることもなく、ただ無言で黙々と食べるだけ。
時折、魔王に向けられる視線には、深い失望の色がにじんでいた。
《エリス、明後日には次の街へ着くだろう。体調は問題ないか?》
「はい」
《……気分が悪い時は遠慮なく言え。お前に倒れられても余は何もできんからな》
「わかりました。ありがとうございます」
まるで他人と話すような、距離を置いた対応。
魔王の尾は次第に力なく垂れていった。
◇ ◇ ◇ ◇
そして三日目。
《エリス!!》
夕暮れ時の野営の準備中、魔王は爆発した。
忍耐がついに限界へと達したのだ。
《先日からわざとらしい態度を向けおって! なぜ余を無視する!? 余がお前に何をしたというのだ!?》
エリスはゆっくりと振り返り、魔王を見つめた。
その瞳には深い悲しみが満ちており、涙は浮かんでいないものの、痛みに耐えるように細められていた。
「…………」
何かを言いかけるが、またエリスは野営の準備にとりかかる。
それは、“話すだけ無駄だ“と完全に失望しているかのようにも見える動作であった。
《……ッ! 余に不満があるのはよくわかるが、口に出さねばわからぬ! ――言ってみるがいい! お前らしくない態度の主原因を!》
薪を優しく燃やしていく炎が、エリスの顔を照らし出している。
エリスの痛々しい寂寥感を覚える表情がさらに苦痛に歪み、静かに魔王へ問いをした。
「……魔王は、自分が何をしたのか、本当にわかっていないのですか?」
その痛みに満ちた眼差しを見た瞬間、魔王の中にあった怒りは消え去った。
代わりに、これまで感じたことのない不安が胸をよぎる。
「先日、私を騙してあの依頼を受けさせて、危険な場所と知っていたのにわざと誘導して、レオンさんたちを危険な目に合わせましたよね」
エリスの声はかすかに震えていた。
結果的には深刻なことにはならなかった。
だが、少しでも状況が違えば間違いなく彼らの内の一人は命を落としていた。
「そして先日、ユーノくんを助けに行った時の魔獣から逃げる最中、わざと危険な方角へと誘導し、私だけではなくユーノくんまで命を落とすことになるよう仕向けましたよね」
《そ……それは……》
「全部……全部わかっていたのに、なぜあんなことをしたんですか?」
《……余はお前を、……いや》
魔王はその後の言葉を口に出すことはできなかった。
“お前を強くするためだ“
“だから、あれはお前のためだったのだ“
そんなことを一言でも発すれば、エリスは以降、完全に己を拒絶するとわかっていたからだ。
『潜在能力を引き出し、その力をどのような存在よりも強く使役できるようにする』
そんなことを、エリスは全く望んでいない。
全ての力を解放し、共に並び立つ存在にしたいというのは魔王の自己中心的な目的でしかなかったからだ。
そんな目的のために、他者を危険な目に合わせてしまった。
その事実は、エリスにとって悔やんでも悔やみきれないことであるのは当然だった。
エリスの他者に対する自己犠牲心。献身の心。そして、見返りを求めない優しさ。
そんな純真無垢な姿に、魔王こそが惹かれたのだから。
そんな当たり前の事実に、どうして気づかなかったのだ、と魔王は激しく後悔するしかなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
そして四日目の朝。
魔王は重大な決断を下した。
エリスが相変わらず無言で身支度をしている時、魔王は静かに口を開いた。
《エリス。聞いてくれ》
珍しく、魔王がいつもよりも穏やかな口調となっていた。
言葉を耳にしたエリスの手が一瞬止まったが、相変わらずその顔を向けずにいる。
《余は、お前に謝罪する》
「……っ!?」
急な謝罪の言葉に、エリスの心は追いつかずにいる。
息が止まるような衝撃を受けるだけであった。
《この数日、お前の態度について深く考えてきた》
これまでにない穏やかさで魔王は告げる。
そして、淡々と謝罪の弁を述べていくのであった。
《余はお前を危険に巻き込みすぎた。他者を巻き添えにすることも許されざることだった》
「…………」
《しかもそれが、お前を強くしたい、という身勝手な想いからなのだから、救いようがない》
エリスはようやく魔王の方に向き直った。
その目には、困惑の色ばかりが浮かんでいる。
《今後も余は、お前の意思を無視し、同じことをするかもしれない。だから……もしお前が望むのなら》
そして魔王は、息を軽く吸いながら、決断するかのように告げた。
《――お前の意志に従おう。ここでお別れだ》
「……え?」
魔王の言葉に、エリスの顔色が一瞬で青ざめた。
唇がわずかに震え、目を見開いた。
《なに、猫になったとはいえ余は魔王だ。生きていく算段なぞとうにできている。心配しないでいい》
無論、ただの強がりであることは魔王自身、よくわかっている。
野良猫にすら負けるような力しか持てず、狩りなどやったこともない。
せいぜい人間に媚びながら、微かに命の糸を繋いでいくことしかできないだろう。
しかし、それでも良かった。
目の前にいる少女を傷つけることよりも、罪深い行いをするよりかは、どんなことであってもマシに思えたからだ。
エリスに背を向け、歩き出す魔王。
その姿は落ち込んでいるものとは真逆で、背筋をしっかり、真っ直ぐにしながら、誇り高く歩んでいくもの。
決意は固く、不退転の意思を感じさせる姿であった。
「――――ッ!」
しかし、次の瞬間、エリスは魔王に飛びつき、跪きながら強く抱きしめていた。
《……エリス?》
「……ごめんなさい」
突然のエリスの行動に、魔王は動揺した。
そして、その身体と口元が震えていることをその目で見た瞬間、目を見開いた。
エリスが、泣いていたからだ。
「信じることができなくて……ごめんなさい」
歯を食いしばりながら声を震わせている姿に、魔王の胸が痛む。
「魔王が正しいことを言っても、また私を騙しているんじゃないかって、疑ってしまって。だけど……あの時のことは……許せなくて……」
《エリス……》
「無視したくなかった……話したくても……言葉にならなくて……」
エリスは鼻を啜り、吃逆を上げながらもその言葉は止めなかった。
そして、魔王を抱きしめる腕が、さらに強くなった。
「私……魔王と離れたくありません……だから……そんなこと、言わないでください……」
エリスの声は涙で詰まり、泣き声に変わっていた。
「……他者を危険に晒したこと……騙したこと……それらは、辛かったです……」
エリスは顔を上げ、涙で濡れた瞳で魔王を見つめた。
「でも……それ以上に、魔王と一緒にいられない方が……もっと辛い……だから……!」
エリスの涙が黒猫の毛並みを濡らす。
顔が涙でくしゃくしゃになり、いつものような優しい笑顔が、悲しみに塗れている。
「もし何か……何か理由があるなら……私だけを危険にさらしてください」
エリスの声は必死だった。
「他の人を巻き込まないで……私だけなら……どんなに過酷な道でも……絶対に耐えますから……」
魔王は言葉を失った。
エリスの震える身体、熱い涙、切実な訴え――全てが胸を打ち、今まで感じたことのない後悔の念が込み上げてきた。
《……すまなかった》
長い沈黙の後、魔王は静かに言った。
《余は……お前の強さに惚れていたのだ。だからこそ、お前に潜む力を引き出したかった。……窮地に陥らせるのが、最も効果的な方法だと思っていた》
エリスの目に理解の色が浮かぶ。
《だが……そんな愚かなことは、もう止める》
魔王の声には決意が込められていた。
《お前の悲しみに暮れた表情を見るよりかは……笑顔でいてくれる方がいい》
エリスは涙を拭い、ようやくほのかな微笑みを浮かべた。
「それなら……もう大丈夫です」
その瞬間、魔王は悟った。
エリスの可能性を掘り起こすことよりも、その笑顔を見ることの方が――自分にとってはるかに大切なのだと。
《約束する》
魔王の声は温かく響いた。
《これからは、お前の意思を尊重しよう》
エリスはうなずき、もう一度魔王を抱きしめた。
二人の間に流れた長い沈黙は、この瞬間、温かい信頼で満たされた。
過去の傷は完全には癒えていないが、少なくとも前を向いて歩き始められる。
――エリスはその確信を抱きしめるように、魔王の小さな身体を包み込んだ。
◇ ◇ ◇
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
茜色の光が部屋の中に差し込み、二人を優しく包み込む。
エリスはそっと魔王を膝に乗せ、窓辺の側の椅子に座った。
遠くに広がる山並みを眺めながら、静かに呟く。
「明日は……あの山々を越えてみませんか?」
エリスの声には、久しぶりに本来の優しさが戻っていた。
魔王は満足げにごろごろと喉を鳴らし、答えた。
《……ふん、険しそうな山道の予感がする。せいぜい力尽きないよう体調を万全にしておけ》
――相変わらずの、素直じゃない言葉を主軸にして。
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ここまでお読みいただきありがとうございました。
作者の観葉植物です。
これにて長編である『二人の不協和音編』が終了となります。
価値観の違うお互いの折衝方法、如何でしたでしょうか。
バディものとして、一度衝突するのはお約束ではありましたが、エリスの善性と魔王の武人としての本能を考えるとこんな形に収まりました……
絆をさらに深めた二人には、相変わらず試練や乗り越えなければいけない壁、そして旅の真の目的など、これから先にも様々なことが起きていきます。
そんな二人のこと、どうかこの作品をお読みいただいた読者様には応援していただけると幸いです。
また、少しでもこの作品がお気に入りと思われた際には、評価や応援、レビューなどどんどんしていただけると作者は喜びます。泣きながら踊り狂います。
今後もよろしくお願いします。




