依頼完了。そして少女は魔王に対する盲目的信頼を砕く。
(早く……もっと早く……!! このままだと、反動が……!)
魔王の力が抜けて、反動が来ればこの身体は動かなくなる。
それまでに、ユーノを街に送り届けなければならない。
自分とは違い、無事を待っている人がいるのだから。
エリスは歯を食いしばりながらも、さらに早く、もっと早く、と限界を知らないまま、風を切るように山道を駆けていった。
◇ ◇ ◇ ◇
ようやく街道がエリスの視界に入った時のことだった。
魔王の力の付与が解け、銀色に輝いていた髪は瞬く間に黒く染まってしまう。
黄金の瞳は深紅へと収束し、同時に反動が襲いかかってきた。
街道までのわずかな距離の前に力尽き、倒れ込んでしまった。
「……ッ!! あ……がっ……!」
エリスは地面に膝をつき、激しい痙攣に襲われる。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、魔力の枯渇によるめまいが襲ってくる。
「お姉さん!?」
ユーノは慌ててエリスの元へ駆け寄った。
エリスは激しい痙攣に耐えながらも、必死に意識を保とうとしていた。
全身の筋肉が焼けるような痛みに襲われ、魔力の枯渇によるめまいが視界を揺らす。
魔王の力を使った代償が、彼女の身体を苛んでいるのだ。
「お姉さん! やだよ……起きてよ!」
ユーノは泣きそうな声でエリスを揺さぶる。
その小さな手は冷たく震えていた。
「だ、大丈夫……です……」
エリスは脂汗をぬぐいながら、無理に笑顔を作った。
「この道を……まっすぐ……行けば……お母さんの……元に……戻れる……」
エリスは震える指で街道の方角を示した。
「私は……少し……休み、ます……だから……先に……」
ユーノは不安そうにエリスを見つめ、しっかりと握りしめていた薬草を見下ろした。
そして決意に満ちた表情で頷いた。
「……わかった! でも……すぐに戻ってくるから!」
ユーノは立ち上がり、最後にエリスを見つめると、街道へ向かって走り出した。
その背中には、母親を思う強い意志が感じられた。
エリスが一人になると、肩の上の魔王がようやく口を開いた。
《よく耐えたな、エリス。あの状況で小僧を優先し、自身の安全を確保する――見事な判断だ》
エリスは返事もできず、ただ苦しそうな呼吸を続ける。
全身に走る激痛が、魔王の言葉を聞く余裕すら与えなかった。
しばらくして、ユーノの声と共に複数の足音が近づいてきた。
「あそこ! 僕を助けてくれたお姉さんが倒れてるんだ!」
駆けつけた大人たちがエリスの状態に驚いた。
見るからに重傷なのに、外傷はほとんどない。
しかしその顔は青ざめ、全身が激しく震え、尋常ではない熱を帯びている。
「す……すみません…………」
「動かないでいい! ……お嬢ちゃんはよくやった。だから、今は休んでくれ!」
エリスはかすれた声で言うが、大人の中の一人の恩義を見せた言葉を受け、渋々身を任せる。
そして、エリスは街の宿に運び込まれたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……外傷はほとんどないのに、身体が過熱し、極度の消耗状態にある……まるで、症状に見当がつかない……!」
宿に招かれた街医者は首を傾げながらエリスの脈を測り、悔しげに呟いた。
「……横に……なって、いれば……だいぶ、楽になりますので」
とりあえずこのままにしておいてほしい、と言いたげなエリスの言葉に、医者はため息をついた。
「――わかった。しかし、何か変化があったらすぐに知らせてくれ。あんたは街の英雄だからな。すぐに駆けつけてやる」
呆れながらも、その言葉はエリスを安心させてくれるものであった。
その好意に寄りかかりすぎるのは性分に合わなかったが、状況が状況である。
エリスは痛みを耐えながら、医者の言葉に微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
二日後、エリスはようやくゆっくりと立ち上がることができるようになっていた。
まだ完全な回復ではないが、日常的な動作はこなせる程度にまで回復している。
(……以前までは、動けるようになるには、もう少し時間がかかるはずだったのに)
不思議な気分であった。
まさか、魔王の力に身体が慣れ始めたとでもいうのだろうか。
結論は出ないまま、部屋内に沈黙が漂っていく。
その時、宿の扉をノックする音がした。
入室の許可をするエリスの言葉の後、入ってきたのはユーノだった。
「お姉さん!」
ユーノは嬉しそうにエリスへ駆け寄った。
そして、後から部屋に入ってきたのはこの街に来た当初、出会ったあの女性――ユーノの母親の姿があった。
「お母さん、お姉さんが僕を助けてくれたんだよ!」
母親は涙を浮かべながらエリスに深々と頭を下げた。
「本当に……本当にありがとうございます。そして……すみませんでした。危険な目に合わせてしまって……」
エリスは優しく微笑んだ。
「そんなことありません。私は……自分のしたいことをしただけです。お二人が無事で、何よりです」
その表情には純粋な安堵が浮かんでいたが、どこか寂しげな影が宿っている。
魔王の力に頼らざるを得なかったことへの無力感が、エリスの心に深く刻まれていたのだ。
「お礼と言ってはなんですが……受け取ってください」
母親は小さな袋を取り出した。
貨幣が擦れる音が聞こえたため、少ないながらも報酬を渡そうと思ったのだろう。
しかし、エリスは静かに首を横に振った。
「いいえ、結構です。お二人が幸せであること――それが一番私が欲しかった報酬ですから」
宿屋の一室に差し込む午後の光が、埃の舞う様を優しく照らし出していた。
埃の粒子がきらめきながらゆっくりと舞い落ちる中、エリスはユーノの頭を優しく撫でながら、穏やかな声で言った。
「お母さんが良くなってよかったね」
エリスの温かい手の温度に、ユーノは照れくさそうに俯き、それから顔を上げると、輝くような笑顔を見せた。
「うん!これもお姉さんのおかげだよ!」
ユーノは胸に抱えた薬草の入った小さな袋をしっかりと握りしめた。
その袋には丁寧な刺繍が施されており、母親の愛情が感じられるものだった。
《――見事なものだったぞ、エリス。お前の強さが小僧とその母親を救い、さらには街の脅威をも取り除いた。大いに誇るがいい》
「……………………」
肩の上の魔王が満足げな声を響かせるが、エリスの返事はない。
エリスは窓の外を見つめながら、ただ静かに頷くだけだった。
エリスの長い黒髪が窓から差し込む光に照らされ、微かに輝いている。
その横顔には、達成感よりもどこか複雑な影が差していた。
ちょうどその時、開け放たれた窓の外から、人々の活気ある話し声が聞こえてきた。
市場で買い物をする人々の賑やかな声に混じって、特に興味深い噂話が聞き取れる。
「ねえ、聞いた? あの東の山の魔獣たちが、すっかりいなくなったらしいよ」
「ほんとか? あの山道の踊り場には、確かに厄介な連中が巣食っていたはずだが」
「とある木こりの男が言ってたんだ。その辺りの地面や木々が崩れ落ちていたそうだ」
魔王は軽く笑い声をあげた。
その笑い声には、人間たちの無知を嘲笑うような響きがあった。
《フフフ……無論、お前がやったとは誰も思うまい。奴らには、あの光景が何を意味するのか理解できぬ。ましてや、こんな華奢な村娘が成し得たことなど、想像だにせぬだろう》
エリスは微かに苦笑を浮かべた。
そして窓枠に手をかけ、遠くの山並みを見つめ、遠い目をしながら物思いに耽始めた。
ユーノが「お姉さんがやったんだよ」と無邪気に叫んだとしても、きっと誰にも信じてもらえないだろう。
人々の目には、エリスはどこにでもいる、ただの村娘にしか映らないのだから。
◇ ◇ ◇ ◇
ユーノ達が部屋を出ていった後、魔王が満足げに語りかけた。
《改めて言おう。よくやったぞ、エリス。あの窮地で小僧を助け、かつ自分を生存させるための最善の方法を瞬時に見出した。また一つ、お前は成長した》
「……そうですね」
エリスの返答は、やはりどこか距離を置いた、寂しげなものだった。
彼女は窓辺に立ち、遠くを見つめる。
その視線には、魔王への複雑な思いがにじんでいる。
《どうした、エリス? もっと自信を持て。お前の判断は正しかった》
「ええ、わかっています」
エリスの声は相変わらず優しいが、その中に以前のような無条件の信頼は感じられない。
魔王はその様子にわずかな違和感を覚えつつも、気のせいだと解釈した。
(……エリスの潜在能力はまだまだこんなものではない。次はどのような試練を与えてやろうか考えねばな)
魔王は心中でほくそ笑み、次なるエリスへの試練を考え始めるのであった。
しかし、魔王は知らなかった。
エリスの心の中で、静かな決意が固まりつつあることを。
二度と、こんな思いをしないために。
――魔王への盲目的な信頼が、確実に砕けつつあることを。
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ここまでお読みいただきありがとうございます。
作者の観葉植物です。
迷子の少年を探すエピソードはここで終わり、次で二人の不協和音編も終わります。
異なる種族の二人が、折衝という言葉を知りながらも価値観の違いに亀裂が走った今、どのように元の関係に戻れるのか。
二人のことをどうか見守っていただけますよう、どうかよろしくお願いします…!




