少女は失望した。魔王の策略によって。
「あ、薬草! あったよ!」
「こちらにもありました!」
静けさが漂う山林の中で、二人の嬉しそうな声が響いた。
魔王の魔力探知とエリスの第六感によって、あっという間に必要数の薬草が集まった。
これでようやく本格的な下山ができる状態になったのだ。
「さあ、急いでここから離れましょう! まだ歩けますか?」
「うん!」
エリスはユーノの手をしっかりと握り、歩き出した。
ユーノの持っていた小袋には母親への希望が詰まった大量の薬草が入っている。
疲労の色が見えるユーノに合わせた歩みのため、下山には時間がかかりそうである。
しかし、それでも夕刻になるまでには街へ戻ることができそうだ。
そんな楽観的なことを思っていたエリスだが、突然、全身に警告が走った。
「……っ!?」
背後から低い唸り声が聞こえ、エリスは素早く振り返る。
そして即座に棒を構えながら、ユーノを背後に守るように立ちはだかった。
「グルルルル………!!」
「わ、わあっ!」
茂みの間から三匹の魔獣が現れ、ユーノが悲鳴を上げた。
鋭い牙をむき出しにし、飢えた目で二人を見つめる魔獣の姿は狼に似ている。
しかし、通常の生物よりも大きく、不気味な赤色の目を光らせている。
「お、お姉さん……!」
ユーノはエリスの服の裾を必死に握りしめる。
恐怖に慄き、足が震えているためうまく動けなくなっているようだ。
「大丈夫です。私の後ろに隠れていてください」
エリスは冷静に言いながら、第六感を鋭敏に走らせながら目の前の魔獣の動きを“先読み“し始める。
一匹の魔獣が飛びかかってきた。
エリスは半歩後ろに引きながら、攻撃を受け流すように回転しながら捌くと、同時に棒の一撃を魔獣の前脚の付け根に叩き込む。
魔獣の関節は外れ、崩れ落ちながら苦悶の声を上げて踠き回った。
(大人しく退いてくれればいいのですが……!)
エリスは棒を構え直し、残る二匹の魔獣を睨みつける。
その動きは無駄がなく、一つ一つの動作に洗練された技術が光るが、目には焦りの色が浮かんでいる。
ユーノがいる以上、長期戦は避けなければならない。
「グルル……ッ!」
エリスに倒された仲間を見ながら、魔獣達は怒りに震えていた。
しかし、尚も一寸の隙もなく棒を構えるエリスから放たれる格の違いを肌で感じたのか、飛びかかることを躊躇している様子を見せている。
そして、しばらく逡巡した後、不満そうな唸り声を上げて茂みの中へ消えていった。
「た、助かった……の?」
「ええ、どうやら逃げたみたいですね……今のうちにここを離れないと」
エリスはほっと息をつき、ユーノに向き直りながら手を差し伸べた。
ユーノの小さな手は震えが止まらない。本当に怖かったのだろう。
エリスは彼を勇気づけるように、その手をしっかりと握り、再び歩き出した。
その時、遠くから不気味な遠吠えが響き渡った。
先ほどの魔獣達のものかもしれない。明らかに仲間を呼ぶ合図であった。
「お、お姉さん……!」
「っ……! 急ぎましょう!」
エリスはユーノの手を握り、走り出した。
露出した岩を飛び越え、勾配の急な山道をもつれそうになりながら、ユーノに合わせたスピードで駆けていく。
しかし、このままでは魔獣達に再び襲われるのは明白。
エリスに焦りの色が浮かび上がっているその時だった。
《エリス、そこの獣道をまっすぐ進め! 街道に出るなら一番安全で、早い経路だ!》
魔王が緊迫した調子でエリスに助言したのだ。
道の先に点在する人の気配を読み、空気の流れを感じ取って最適なルートを導き出したのだろう。
しかし、エリスの第六感が鋭く反応した。
魔王の指示する方向――確かに獣道は見えるが、その先にはますます深い森が広がっている。
そして街道に出られるというのは嘘だ。
むしろ、森の奥へと導かれているような気さえした。
(魔王……あなた、まさか……)
エリスの心の中で封じ込めていた魔王への疑念。
一旦撤回した、自分でも嫌悪するその感情が、確信に変わりつつあった。
だが背後からは魔獣の気配が迫っている。
遠吠えに応えて、さらに多くの魔獣が集まってきているのを肌ですら感じ取っていた。
「……こっちです! 私の手をしっかり握っててください!!」
エリスは已む無く魔王が示した獣道へと走り出した。
できるだけ早く移動できるように、ユーノの手をしっかり握りしめる。
その手には、うっすらと汗が滲んでいた。
◇ ◇ ◇
獣道は思った以上に険しかった。
絡みつく蔓、滑りやすい苔、突然現れる崖――エリスはユーノを守りながら、必死に進む。
しかし、その呼吸は次第に荒くなり、額から汗が滴っていった。
「お姉さん……足、痛い……」
ユーノが肩で息をしながら、その足を止める頻度が多くなってきた。
その顔は青ざめ、明らかに疲労が限界に近づいている。
「……もう少しだけ頑張ろう?」
エリスの声は優しい。
しかし、依然その目には焦りが浮かんでいる。
魔王の指示に従って進むほどに、森は深くなり、不気味な気配は強まるばかりだ。
エリスは確信に近付いていた。
――きっとこれは魔王の罠だ。わざと危険な方へ導いている、と。
しかし、もう後戻りをすることはできない。
背後から追いかけてくる魔獣の気配がより濃くなっていたからだ。
《もっと急げ、エリス! 魔獣たちが追って来るぞ!》
興奮の色が込められているのを隠そうともしない、魔王の声が心の中に響き渡る。
エリスの心中に疑念が更に深まり、顔が苦渋に満ちていく。
そして突然、眼前の景色が開けた。
目の前の光景に、エリスは息を呑んだ。
そこに広がるのは多くの魔獣の群れだった。
無数の禍々しい目が暗がりから二人を見つめている。
どうやら魔獣たちは回り込んで、ここで待ち伏せていたのだ。
「これは……まさか……」
エリスは足を止め、ユーノをしっかりと背後に隠す。
周囲からは、低いうなり声、牙を鳴らす音、爪が地面を掻く音が聞こえる。
完全に包囲されており、状況は最悪だった。
「お、お姉さん……怖いよ……」
ユーノの声は恐怖に染まり、エリスの服を握る指先が白くなっている。
その脚も見てわかるくらいに震えており、逃げることは不可能な状態だ。
「大丈夫、私が必ず守るから」
エリスはユーノの心を勇気づけようとするが、反応はほとんどなく、今にも泣き出しそうな顔をしたままだ。
焦りがエリスを侵食していき、歯を食いしばりながら己を奮い立たせる。
《エリス、状況は把握しているのだろう? ここからどうすればいいのか、お前なら理解しているはずだ》
感情を込めずに呟いた肩の上の魔王は、深紅の瞳に期待と満足の色が浮かんでいる。
もはや隠そうともしないその姿に、エリスは目を見開いた。
(魔王……やはり、あなたは……!)
エリスの声には、裏切られた悲しみが込められていた。
先日の疑念が、今、確信へと変わった瞬間だった。
魔王は警告する。
《奴らが襲いかかって来る――構えよ!》
魔獣の一団が一斉に動き出すのと同じタイミングで、エリスは背中の棒を素早く構えた。
しかし、その目には複雑な思いが去来する。
魔王への失望、ユーノを守る責任、そしてこの窮地を脱するための決断――全てが一瞬で頭を駆け巡った。
ユーノの命を守るためには、もはや選択の余地はない。
エリスは深く息を吸い込み、運命の決断を下すのだった。




